こちら関東南部は台風15号の影響で、昨夜来から雨になっています
この台風は何やら本州の東海岸を北上しそうなコース予報・・・
12号の影響で紀伊半島には土砂ダムができており、それが決壊するのが一番怖い
これ以上被害が広がらない事を切に祈りたいですね
サンデー毎日の私には連休もさほど関係なく、
「敬老の日」も合わせて、もっぱら両親の病院と施設に通いました。
そして久しぶりに「湘南海岸」にも出向いてみました。
9月18日・「稲村ヶ崎」からの夕景
連休2日目のこの日は、朝から富士山が綺麗に見えていました
珍しく、午後なってもまだ我が家の2Fのベランダから富士山が望めたので、
藤沢の病院で療養中の母を見舞った帰りに、湘南海岸に出てみました。
「稲村ヶ崎」から見る夕日が、私のお気に入りの場所なのです。
左手に「江ノ島」、右手に「富士山」
今の季節はその間に夕日が沈んでいきますが・・・
日中は快晴だったのに、思いがけず富士山の周りにはスジ雲が多くて
残念ながら真っ赤な夕日は見られませんでした
病院から真っ直ぐ1本道で7~8km、車で15分も走れば「江ノ島」です。
それがこの日は大渋滞で、1時間半以上もかかりました
海水浴から帰る車と、夕日を期待して見に行く人で大混雑
真夏の間は避けていた「海岸通り」、お天気が良い日の休日はまだまだ渋滞覚悟ですね。
あっと言う間に夕闇が迫り、
太陽の照り返しも期待できそうになかったので帰り仕度です。
この三連休で、湘南海岸の「海のシーズン」も終わりでしょうか?
少しばかりの淋しさが感じられました。
稲村ヶ崎を訪ねた時はいつも利用するのが、この海岸通りに面したレストラン&駐車場
1967年オープンで、何度かリニューアルを繰り返し、店名も変わりましたが
ここから見る絶景は昔と同じです。
両親とも何度か訪れている思い出のレストランです。
大渋滞の中の運転ですっかりノドが乾きました。
ヤマモモのシャーベットがとても美味しい
母にも食べさせたいといつも思います。
母は誤嚥性肺炎を避けるため、去年の11月の入院から
一切口からの食事は出来なくなりました
枕元で「お母さん、naoよ」と3~4回呼びかけると、辛うじて反応がありますから
私が来た事は判っているのだと思いますが、もう10ヶ月間も寝たきりで・・・
青春時代はあの大戦争で人並みに苦労したようですが、
サラリーマンの主婦としての後半は、結構恵まれた人生を送った母・・・
「人生の最終章がこれではちょっと可哀想だなぁ~」と、病院に行く度に切なくなる私です。
ここから先は私の個人的な「思い出の地巡り」の記録ですので、
お忙しい方はスルーして下さい
中目黒~代官山散策
「国立新美術館・二期会展」に行く前に、東横線の「中目黒」から「代官山」まで歩いてみました。
私は昭和27年から31年の春まで「目黒区」に住んでいました。
その時の思い出の一つに「目黒銀座」の縁日があります。
六本木の美術館に行く途中、東横線の「中目黒駅」で下車して、まず目黒銀座に向いました。
駅前は高層ビルが建ち並びまるで変わっていましたが、
目黒銀座は何となく昭和の香りが残っていました。
こちらは私が1年生から4年生まで通った小学校
創立110年とは驚きますが、私が在籍していたのは半世紀以上も前のことになります。
学校の前は区の総合庁舎になっていた | 毎日歩いて通った道路は「駒沢通り」だった |
私がこの小学校に通っていた頃、学校の前には「アメリカンスクール」がありました。
その後、生命保険会社の大きなビルに変わったのは知っていますが、今は目黒区のお役所。
その時代その時代の優勢な力関係が判るような変遷ですね。
この「目黒川」も良く覚えています。
最近では桜の名所として脚光を浴びていますが、
私の子供の頃の思い出にここの桜はありません
この「駒沢通り」を真っ直ぐ進むとJRの「恵比寿駅」です。
化学を学んだ父は戦争には行かず、学校を出るとすぐに北海道の国策会社に勤め
三国同盟のドイツから輸入したプラントで「石炭から石油と作る」という
壮大で夢のような研究に携わっていました。
その会社も昭和27年には閉鎖となり、家族揃って父の故郷の東京に引き揚げました。
そして落ち着いた先は父の姉の嫁ぎ先が所有していた目黒のアパート
丁度右側に建ち並ぶビルの一角にあったような・・・?
東横線が見えてきました。この手前ですね | ビルの裏のマンションに当時の面影が |
戦前に建った鉄筋コンクリート造りのアパートは、戦災に遭わなかったのか?古びたままで、
現代のモダンなマンションとは全然違いましたが、なんとなくこの辺りの雰囲気を覚えています。
アパートの部屋にはお風呂がなくて、この東横線の線路伝いを歩いて銭湯に通いましたね。
父は2年間、中央区にある「化学」の協会団体に勤め(この時の年金が行方不明なのです)
その後某化学会社に勤める先輩に誘われて、その会社の新潟研究所勤務となりました。
昭和31年の春、会社の持ち家制度を利用して父は新潟市に家を建て、
我々家族を呼び寄せましたが、それまでの1年半は単身赴任・・・
まだ30歳前後だった母が時々泣いていた姿を覚えています。
この目黒に住んでいた頃が、母にとっては一番辛かった時代かもしれません。
私が住んでいた所は目黒区と渋谷区と品川区の境界で、
正面に見えるJR「恵比寿駅」までは、子供の足で歩いて10分位だったでしょうか?
祖母が居た父の新橋の実家に行く時は歩いて恵比寿駅に出て、当時の省線電車に乗りました。
この日は30度を越す暑い日で、私はとても恵比寿まで歩く気にはならず、
歩いて5分の一番近い東横線の「代官山駅」に出て、
途中、東京メトロ千代田線に乗り換えて「乃木坂」の国立新美術館まで行きました。
母に連れられて、当時は渋谷の東横デパート(今の東急)によく行きましたが
その度に利用した代官山の駅周辺もすっかり変わりましたね。
今では若い女性達に人気の街らしい・・・
束の間の私の「思い出探し」でした。
台風15号の影響で雨がかなりきつくなってきましたよ。
既にところによっては川が氾濫して浸水してる箇所も出ているようですね。
とても心配な状況です。
お母様寝たきりになられて10ヶ月が過ぎましたか。
早いものですね~。
naoママさん、切ない気持ちになられるの無理ないですよ。
美味しそうなヤマモモのアイスクリーム、食べられたらどんなに喜ばれることでしょう。
そのような日が再び来ますようにと祈るばかりです。
「稲村ヶ崎」から望む、江ノ島と富士山美しいですね。
真っ赤な夕日が沈む様は絶景でしょう。
愛知県知多半島に育った私は海が恋しいです。
湾の向こうには富士山ではなく三重県の鈴鹿山脈が見えていたのですよ。
思い出の地めぐりをされたのですね。
長い年月の間に風景は変ってしまい、寂しく
感じますよね。
でも不思議なことに頭の中にはしっかり残って
います。
思い出は大切にしつつ、前向きに生きていきたいですね。
今日は涼しくて長袖をはおっています。
風邪などひかれませんように御自愛くださいませね。
実は私もここから眺める夕陽にはえる冨士が大好きで
これまでに何回か撮影に成功しています。
又撮りたくなって、9月12日にわざわざ出かけていきましたが
残念ながら富士山は顔出してくれませんでした。
ちょうど中秋の名月の日でしばしまんまるお月さんを眺めてやむなく帰ってきました。
マンションのベランダからまんまる月を撮影しました。
9月18日は綺麗に見えていて本当に良かったですね~
私ももう一度又機会を見て撮影に出かけたいと思っています。
こればっかりはその日の冨士周辺の天候しだいなので、どうしようもありませんがね。
こちらは今年は、幸いにも何回も避けて貰ってます。
大雨で、いろいろと被害が出てるみたいだけど、
被害が無いことを、祈ってます!
富士山、とても綺麗ですね~!
やっぱり最高の被写体ですね!
カメラが有れば、誰でも撮りたくなるでしょう!
思い出の地を巡るのは、楽しいものです。
子供の頃の同級生と会って話しをするのは、
実はこれと同じで、思い出を巡りながら話が出来るから、
楽しいんでしょうね~!
ですから私は、しょっちゅう同級生と会っています。
小学校の友達は、そちらに居ないんですか?
東京の街は、激変しているから、思い出のものを、探すのは、
大変だったでしょう?
恵比寿はIが大学の時に下宿していたので、行った事があります。
それも、45年も経っているから、あの辺も変わっているでしょうね~!
ブラタモリって、番組がNHKで有ったけど、
ブラナオママしたんですね~!
毎日海を眺めて大きくなられたのでしょうね。
私は父が勤めた会社があった北海道のど真ん中で生まれました。
初めて海を見たのは東京に引越してくる時に乗った青函連絡船の中から見た津軽海峡でした。
そして生まれて初めての海水浴が、小学校1年生の時に家族で来たこの湘南海岸だったと思います。
今は我が家から海は見えませんが、この湘南海岸までは車で20~30分の所に住んでいます。
山人間の私は、近いわりにはなかなか海に出向きませんが、これからは母の見舞いの帰りには海経由で廻ってみようと思いました。
平日ならそんなに混まないかもと・・・
カテゴリーに「湘南海岸」を加えましたので、これからは時々ご紹介できると思います。
医療が発達していいのか?悪いのか?
母を見ていると複雑な気持ちになりますね。
我々世代は、「自分の最後はこうありたい」と子供たちに示しておく必要があるような気がします。
この稲村ガ崎からの富士山は絶景ですよね。
今回は真っ赤な夕日が見られるものと信じていました。
富士山の周りの雲は現地に行くまで分りませんね。
次回は「ダイヤモンド富士」を狙いたいですが、いつごろかご存知なら教えてください。
春から夏にかけては中々姿をみせない富士山ですが、秋から冬にかけてが写真の撮り時ですね。
我が家の2Fから見えますので常時眺めていますが・・・
やはり富士山は白い雪があった方が絵になりますので、これからが楽しみです。
台風15号はいよいよ東海・関東方面にやってきそうですね。
被害がないことを願っています。
昨日から大雨が続いています。
我が家は高台にありますので、水の心配はありませんが、強風が気になりますね。
外のたくさんの鉢植え類を安全な場所に移動しなくては・・・
10歳の頃の記憶は案外鮮明に残っていて、目黒銀座や小学校はその姿は変わっていますが、場所もそのまま残っていましたから、スムースに探せましたよ。
住んでいたアパートは、高台で道路に面していて、その向うに東横線が走っていたこと
裏手がもう品川区三田で、お隣が渋谷区だった・・・
それだけ分っていましたので、すぐに「ここだわ」と言う確信が持てました。
当時はビルがこんなに乱立していなくて、道路ももっと広く感じていましたが・・・
何しろ小学校の裏手は林が続いていましたから、まだまだ自然豊かな中目黒でした。
小学校低学年時代の友人はその後のお付き合いも無く、いませんね。
小学校の友人って、中学校も一緒だから続くような気がしますが如何ですか?
この目黒での生活の後、新潟~山口と父の転勤で引越しました。
そして高校卒業と同時に東京に戻りました。
と言うより・・・
父の会社は結局周南コンビナートに進出するのを断念し、父は私が高校3年の夏に新潟から東京本社勤務が決まったのです。
O君も同じですが、何のためにT高校に編入したのか?
実際には意味がなかったのですが、私の人生に未知だった西日本での生活体験ができたこと・・・
そして快男さんはじめ友人達ができたことに意義があったと思っていますよ。
台風の影響か、こちらも雨が降っています。
また被害がないことを祈っています。
以前、稲村ヶ崎に行った時、富士山がみえる
景勝地だと紹介されていました。
その時は生憎と何もみえませんでした。
こんな風に見えるのですね。
素晴らしい夕景にしばらく見とれてしまいました。
ありがとうございました。
「思い出の地めぐり」訪ねてみるのもおもしろいですね。
昔住んでいた頃と随分変わったことだと思います。
今年の夏、故郷に帰ったら小学4年生まで勉強
していた分校が老朽化が激しいということで
取り壊されていました。
少し寂しかったです。
卒業記念に植えた桜が残っていたのは嬉しかったです。
夕景にそびえる富士山は格別!
雲がバランスよく配されて絶景ですね!
夕暮れ時のオレンジ色もきれいで海に映える夕陽の色がきれいです。
かつて暮らしていた場所はそこにたたずむと当時のままの気持ちにもなれると思います。
銭湯に通った思い出などこの時代のほとんどの方が持ち合わせているのでは・・・と感じます。
辛いことも楽しかったこともなくてはならなかったこと
お母様のこと 気が抜けませんね。
せめて声かけだけでも・・・というお気持ちはよく分かります。通じ合うことができればそれだけで張り合いになりますね。
台風はどうですか、今、叩きつける雨で外に出られません!
また被害が発生するに違いなく、日本の風土の脆さに怯えてしまいます。
病院通いのつかの間、思い出探しで湘南の海へ。
巡らす想いはご両親のこと、転々とした住まいのこと。
心落ち着けるには、海はいいでしょうね~
国立新美術館が開館して間もない頃、人の頭越しの観覧に懲りました!
都会ではゆったり見るのは無理かしら?
各地を経験されて、それは今の貴女に大切な宝を与えていると思います。
また台風の影響で凄い一日になりそうです。
海のない埼玉県に生まれてそこで結婚まで過ごしました。海を見る機会は余りありませんでした。
湘南海岸からの富士山も見たことありません。
素晴らしいロケーションですね。
幼い時の思い出探しの旅、懐かしかったことでしょうね。時代は過ぎてもその時の頃に直ぐ戻れたことでしょう。
私の思いで探しは転勤族だった夫と歩いた
新潟や仙台のことが多いですが、今は行くこともなくなりました。