ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

老人クラブ『創立40周年!』 あれこれ

2025-03-15 10:30:21 | 思い
 ① 私の地域には、老人クラブ『M友の会』がある。
現会員数は40数名で、
月1回の例会には、いつも30数名が参加すると聞いている。
 その会が、創立40周年を迎えた。

 創立の日である3月3日に創立記念の式典と祝宴があった。
自治会長として、お招きを受けた。

 事前には『40周年記念の栞』へ、
お祝いメッセージの執筆依頼もあった。
 最初に、寄稿した一文を記す。

  *     *     *     *

    老人クラブ「Mの友会」創立40周年
      お め で と う ご ざ い ま す

 M友の会が発足した昭和60年(1985年)は、
自治会入会世帯が200戸、
T福祉会館(当時は「T福祉ホーム」)が建設された年でもありました。

 くしくも、『バブル時代』の初年度で、
「グルメ」や「ファッション」「カルチャー」などの言葉が
もてはやされました。
 伊達市に限らず、各地で街や地域が姿を変え
活気にあふれ出しました。

 ところが、それから10年が過ぎた頃からは、
『失われた30年』と言われ、
経済は低迷し少子高齢化が進みました。
 地方は人口減少に歯止めがかからないまま
今日を迎えています。

 しかし特筆すべきは、そのような中でも私たちの地域は、
この40年一貫して居住者が増え続け、
今では800世帯を越えるに至りました。
 当地で生まれ育った子が自治会の役員として活躍しています。

 そのような地域の底力の一翼を、「M友の会」は支えて来ました。
創立40周年にあたり、敬意とともに感謝の意を表します。

 ▽さて、私の妻の両親ですが、
2人の老後は老人クラブと共にありました。
 クラブの催し物を楽しみにし、
やがて役員になりそれらを準備することを
暮らしの糧にしていました。

 老後は『キョウイク』と『キョウヨウ』が
特に大事だと言います。
 「教育」ではなく、「今日、行くところがあること」。
「教養」ではなく、「今日、用事があること」。
 生き生きとした2人の姿を見て、
この2つの大切さを痛感しました。

 現在、伊達市では65歳以上の高齢者が、
人口の39%となりました。
 ところが、役員のなり手不足などで
老人クラブが姿を消しているとか。

 人生百年時代です。
老人クラブは益々注目を集めていいはずです。
 どうぞ皆さんの英知を結集し、
一人一人の糧になる本会を発展・継続させ、
『キョウイク』『キョウヨウ』の役割を
果たしてほしいと願います。
 そして、沢山の元気な老人が
活躍する地域であり続けたいと切望しています。 

  *     *     *     *

 ② 式典では、祝辞の指名があった。
上記のようなことを述べた後、
数日前の講演会で学んだことを紹介した。

 その講演会は、社会福祉協議会が主催したものだった。
『伊達市の未来のつくりかた』と題し、
みなみ北海道地域づくりサポートセンターの
丸藤 競氏が話された。

 冒頭、彼は全国、全道、そして本市の人口の推移を示し、
これからは「高齢化第2幕」だと言い、特徴を3つ挙げた。
 1.独り暮らしの高齢者率が急増する 
 2.生産年齢が激減&65歳以上が高止まる
 3.課題が多いままなのに、動ける人が減る

 だから、「高齢者が健康でいられ、
誰にとっても住みやすい街を、
どうやって、つくっていく?」かが課題だと指摘した。

 その上で、強調したのが
「高齢者がいつまでも元気で暮らす」ことだった。
 そのポイントとして、
「住み慣れた地域」と「自分らしい暮らし」を上げ、
なじみの人間関係やマイペースに生活できる気楽さが
重要だと・・・。

 彼は、約1時間半の講演の中で、
「笑顔」と「元気」を度々くり返した。
 私は、『未来のつくりかた』は、その2つ言葉に代表されると、
大いに納得した。

 最後に彼は、
元気をつくる4つのベルを奏でましょうと訴えた。
 そのベルとは、
『食べる』『しゃべる』『学べる』『遊べる』だと・・・。

 私は、40周年を迎えた老人クラブの祝辞の結びに、
このベルを取り上げ、力を込めた。
 「この4つのベルを奏でているのは、どこですか。
そう、この会こそ、食べる、しゃべる、学べる、遊べる、
4つのベルを奏でている場なのではないでしょうか。
 ここは、高齢者の元気をつくる場だと思います」。

 「そうだね」「なるほどね」
そんな小さな声がいくつも聞こえてきた。

 ③ 式典の中では、『M友の会』に20年以上在籍した功労者4名へ
花束の贈呈があった。 
 そして、一人一人から謝辞があった。

 「私の母は、この会に入っていました。
老人クラブから帰って来ると、いつも楽しかったよって言ってました。
 だから、年取ったら私も入ろうって決めてました。
母と私の2世代で、長いことお世話になりました。
 ありがとうございます」
40年の歴史の重みを感じた一コマだった。

 祝宴の席で、同じことが話題になった。
違う功労者の1人が、隣りに座る方を見ながら、
「私が入会した時には、この人のお母さんがいたのよ、
だから、この親子と一緒に私はここにいたことになるの。
 私はずっとここにいたのよ」

 そして、こんな方も、
「お嫁に来ると、義理の母がこの会に入っていたの。
何もできない私に、いろいろと教えてくれた人だったけど、
年取ったらこの会に入りなさいって教えてくれたのも、
その母だったの。
 言う通りにして、よかったよ。
感謝してるわ」

 次第に、胸が熱くなった。

 


      桜並木を伐採! どうして?
                      ※次回ブログの更新予定は3月28日(土)です
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喰わず嫌い 『ソフトクリーム』編

2025-03-08 10:55:33 | あの頃
 このブログに、喰わず嫌い『のりの佃煮』編を載せたのは、
2015年1月だった。
 それから「喰わず嫌い」シリーズは、『ウナギ』編、『貝』編、
『イタリアン』編、『兎鍋』編、『くだもの』編、
『きのこ』編、『初めて』編と、
途切れ途切れだが、2018年2月まで続き、
その後は休止状態になった。

 なんと7年ぶりになるが、
このシリーズの復活を思いついた。
 と言っても、継続への自信はない。
まずは、『ソフトクリーム』編を書いてみることにした。

 本題に入る前に、水道水について少々触れる。
朝食前のルーティーンとして、サプリメントを2種類飲んでいる。
 当地に移る前からなので、もう20年も続いている。
私の健康の秘訣と信じ込んでいる。
 1カプセルと3粒の錠剤だが、
改めて言うことでもないが、
コップに入れた水道水で一気に飲むのだ。

 つい先日、それを見ていた家内が、
「普通のことのように、水道の水で飲むようになったね。
 前は、絶対に水道水では飲まなかった人なのにね!」

 「東京の水が合わなかった」
と言えばそれまでだが、
水道水などの生水は口にしなかった。
 体に合わなかった。
少量の水でもすぐにお腹にきた。

 だから、以前はサプリメントでも風邪薬でも
お湯で湧かした麦茶を冷やし、それで飲んでいた。

 ところが、当地に来てからは、
水道水が飲めるようになった。
 いくら飲んでも、お腹にくることがない。
実に不思議だ。

 さて、若い頃から今も、変わらないのが牛乳である。
これには、本当に困った。
 
 何を隠そう。
現職時代の学校給食である。
 給食の献立には、毎日必ず牛乳がついた。

 給食指導の大事なポイントは、
「好き嫌いをしないで残さず食べること」。
 それを指導する私が、牛乳が飲めずに残すのだ。

 まだ『食物アレルギー』と言うことが、
浸透していないかった。
 「先生は、牛乳を飲むとお腹を壊すので飲みません」
それが、子ども達に中々理解されなかった。
 だから、無理して飲んだ。
休み時間には、急いでトイレに駆け込んだ。

 そんな有り様だから、
それに関連した乳製品も「同じく!」だった。
 まず、アイスクリームがダメ。

 コースメニューで出てくるデザートの
少量のアイスクリームならまだいい。
 だが、市販のカップの量は無理。

 当然、ソフトクリームは一口程度ならOKだが、
コーンカップの全量など食べた事がなかった。

 ところが、当地に来てから、 
水道水が飲めるようになった。
 多少はチャレンジ精神が芽生えた。

 夏のある日、家内に付き合って観光物産館に買い物に行った。
館内のコーナーには、
当地の牛乳を原料にしたソフトクリームがあった。 
 テーブル席で、それを美味しそうに食べている人を見た。
 
 「うまそう!
少しでいいから、食べてみたい!
 残りは、あげるから1つ買おう!」
家内に言って、ソフトクリームを手にした。

 予想通り、清涼感のある美味しさだった。
でも、半分も食べずに家内に渡した。
 お腹に変化はなかった。

 その美味しさが脳裏に刻まれた。
次は、必ず完食してみようと決めた。

 そして、遂にその時が来た。
やはり同じシチュエーションで、
物産館のソフトクリーム売り場へ。

「今日はソフトクリーム、2つ!
 1つずつ食べようよ!」
「えっ! 大丈夫なの?」
家内はすかさず言った。

 「きっと! 1個を食べられる」
何となく、自信があった。

 初めてソフトクリームを全て食べ終えた。
満足した。
 しかも、お腹を壊すこともなく。
美味しさも加わり、嬉しさが倍増した。
 少し浮かれた。

 すると、どこへ出かけても、
ソフトクリームの看板が目に入るようになった。
 「ここにもソフトが! 食べたい!」
そのフレーズがよく飛び出すようになった。

 特に、新千歳空港のお土産売り場はすごい。
土産店の至るところに、ソフトクリームがあった。

 東京へ行く時、誰かの送り迎えの時、
ついソフトクリームに目が行った。
 
 雪印パーラー、わかさいもやルタオの土産店、
そして、きのとやの札幌農学校クッキー売場など、
色々とソフトクリームを食べた。

 店によって味が違った。
どれも惹かれた。 

 昨年夏だったろうか
『新千歳空港ソフト・アイスクリーム総選挙2024』
と銘打ったイベントがあった。
 その結果、濃厚部門の1位は、
きのとやの「極上牛乳ソフト」だった。
 その味を思い出し、納得した。

 そろそろ、結びにしよう。
大沼公園まで遠出をした時だ。
 駅前の食堂に、ジャージー牛のソフトクリームがあった。

 初めてのソフトだった。
一口食べて、すぐにつぶやいた。
 「これは嫌い!」

 食べ残しを家内に渡した。
「美味しいのに!」
 家内は不満顔をした。

 実は、今も練乳が苦手だ。
あの濃厚なミルク味が、好きになれない。
 それと同じ味のソフトクリームだった。

 まだまだ好きになれないものがありそうだ!


 

      ジューンベリーの 今  
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次のフェーズへ ・・・・

2025-03-01 12:12:29 | 思い
 『教育エッセイ ジューンベリーに忘れ物~心豊かであれば』
を出版して、1ヶ月が過ぎた。

 昨日も、思いもしない方から葉書を頂いた。
その方は、私の本を買い求め読んで下さった。
 その上、葉書にはこう記してあった。

 『教育者として、また人としての塚原様の
温かいお姿に感動いたしました。
 大手門(注:時々掲載してもらう室蘭民報の随筆欄)で
思っていた通りのお人柄と、
うれしく思いつつ読ませていただきました。
 沢山の人に読んで欲しく、
図書館に購入していただきました。
 大手門次も楽しみです』

 このようなお褒めを頂くと
なにを隠そう、私は手放しで嬉しくなる。
 「幸せ者だ!」と心から思う。

 しかし最近、
予想もしていなかった感情が、芽生え始めている。
 それは、「喪失感」のような「空虚感」のような、
上手い言い方が見当たらないのだが・・・。
 「急いで次のフェーズを見つけないと」
そんな焦りを伴ったもの。

 似たような想いは、これまでに何度も経験している。
1番初めのそれは、小学校卒業の時。
 それを綴った一文がある。

  *     *     *     * 

       私の場合の卒業

 私は北海道で小学校を卒業しました。
冷え冷えとした体育館の式場からは、
まだまだ雪が解けきらず、土にまみれた根雪が見えました。
 一人一人卒業生が呼ばれ、
緊張しきった姿勢で校長先生から卒業証書を頂きました。
 それから、教室に戻りましたが、
その後の私の記憶はあいまいで思い出すことができません。

 しかし、丸めた証書を片手に持ちながら、
校舎を背にして帰宅する道々をとぼとぼと歩いた場面だけは、
はっきりと覚えています。

 黒のゴム長靴で路傍の土で汚れた雪を蹴散らしながら、
どういう訳か体全体から力が抜けていくような気がしました。
 私は、その時初めて、
こんな気持ちが『寂しい』と言うことなんだと知ったのでした。

 この後、中学校に進み、
多くの友達と素晴らしい先生方に私は出会うのですが、
しかし、そんな先のことなど全く考えもせず、
あの時ばかりは、一緒に遊び、共に学校生活を送り、
学んだ6年1組のみんなとの別れが、
訳もなく無性に寂しく思えたのでした。  

  *     *     *     *

 あの時、『寂しい』と思えたのは、
6年1組での充実した日々があったから。

 それは、中学、高校、そして大学の卒業でも同様だった。
成長と共に、充実感には違いがあった。
 でも、その継続が終わる時の虚脱感は、
やりきれない程のものだった。

 教職に就いてからも、終業式や卒業式の度に、
同じ感情に見舞われた。

 ある年、その切なさを言葉にすると、
先輩の先生がつぶやいた。
 「春は別れの時、でも出会いの時でもあるの!」
確かに、別れの寂しさや虚脱感は、
出会いという新しいフェーズが補ってくれた。
 エネルギーに替えてくれた。 
 
 ところが、今の心境はやや違うようだ。

 1月19日、出版社から出来上がった本が届いた。
それを手にすると、読んでもらいたい人の顔が次々と浮かんだ。
 同時に、願わくば1人でもいいから、
誰かに手にとって読んでもらいたいと思った。

 まずは、すでに作成した謹呈リストに沿って、
発送作業をした。
 ワクワクしながら、ゆうパックに宛名シールを貼った。
「いつでもいいです。
時間が許す時に読んで下さい」
 願いを込めた。

 そして、次の行動は地元新聞社へ情報提供と称して、
本を持参した。
 市内にある北海道新聞と室蘭民報の支社を訪ねた。
2社とも「後日取材の連絡をするかも」と言いながら、
本を受け取ってくれた。
 
 発売日が近づくと、2社から次々と取材連絡があった。
約1時間程のインタビューを受けた。
 2社とも本を持った私の写真入りで、
出版を紹介する記事を掲載してくれた。

 その記事を読んで、ご近所の方などが書店へ行ってくれた。
数日後、
「今、全部読み終わりました。よかったよ」
電話をしてくれた方まで。
  
 謹呈した方々からは、今もお手紙が届く。
中には、10冊、20冊と注文の連絡が入った。

 出版からの日々、私の願いは着実に叶っていった。
自治会の役員さん達が出版祝いの会まで開いてくれた。
 その席で、花束のプレゼントまで・・。
あまりの嬉しさにいつもより酔いが回った。
 いつにも増して饒舌になった。

 そして、ふと「全てをやり尽くした」と思った。
この1ヶ月が、経験のない充実した時間に思えた。
 突然の「虚脱?」が襲った。

 くり返す、
いつか、「私らしい本を」の想いが叶った。
 私はそれをやりとげた。
そして、思いもしなかった喪失感だ。

 揺れる心のまま、
「春は別れの時、でも出会いの時・・・・」
を反すうしてみた。

 「そうだ! そろそろ出会いだ!
次の新しいフェーズへ向かわなければ・・・」
 でも、心の内は小さくささやく
「今回ばかりは簡単でないかも・・・・・」




     いち早く春 ~ 福寿草
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あの頃のお金事情

2025-02-22 11:27:51 | あの頃
 ▼ 家内とは学生時代に知り合った。
なので、年に何回かはあの頃のことが話題になる。
 「男子寮」「女子寮」と言うだけで、
そこがどんなところだったかも、すぐにわかり合える。

 学生食堂のあった「厚生会館」も、
そこのメニューも、そこの面倒見のいいおばさんも・・・。

 つきあい始めたのは、
私が3年で家内が2年の夏から。
 だから、私が1年目2年目の頃の多くを家内は知らない。
その頃のことを、朝食後の茶飲み話にした。

 ▼ 入学を果たしたものの、
学生生活のプランがないまま、
それよりも一人暮らしの心構えがないまま、
学生寮での生活が始まった。

 男子寮は、木造の薄汚い平屋が3棟、
渡り廊下で繋がっていた。
 これも床の歪んだ食堂を兼ねた暗いホールが1つあり、
どう言う訳か卓球台が置いてあった。

 20畳くらいの大部屋に4人で寝泊まりした。
私の部屋は、3年生と2年生2人に1年生の私だった。
 3人の先輩はそろって口が重く、暗かった。

 食事の時間も洗濯場も聞くことさえできなかった。
寮内をウロウロして、
1週間以上もかかって寮の全体が分かった。
 
 持ってきた下着の着替えがすぐになくなった。
洗濯の仕方が分からず困った。
 洗濯場で洗っている人を見て、やり方が分かった。
洗剤を買って、初めて手洗いをした。
 
 先輩3人との会話がない生活が、すごく不気味だった。
誰もラジオさえ聞かなかった。
 いつの間にか押し入れから布団を出し
それぞれ無言のまま寝た。
 そんな暮らし方が寮生活なのだと思ったが、
全然馴染めなかった。

 ▼ やがて、同期の友だちができた。
Y君は、同じ研究室だった。
 卓球部にいて、寮ではなく4畳半のアパート住まいだった。
部活が終わると、自分で夕食を作って食べていた。

 私が寮のご飯は冷たくて不味いとよく言うので、
時々、「一緒に食べないか」とアパートに誘ってくれた。
 小さな折りたたみのテーブルに向かい合い、
フライパンのジンギスカンを食べた。

 熱くて美味しかった。
食べながら、ラジオからのお喋りに2人で声を上げて笑った。

 いつまでもそうしていたかった。
寮に戻るのがいやだった。
 時には「泊まっていくか?」と言ってくれた。
一緒に一枚の布団で寝た。

 続いて、T君だが、
どうして仲良くなったのか思い出せない。

 高校生の頃に、麻雀を覚えた。
なので、T君の下宿で雀卓を囲むようになった。

 下宿のおばさんは、
「大声を出さなければいいよ」と、
徹夜の麻雀も許してくれた。
 
 さほど麻雀には夢中になれなかったが、
寮に戻らず居られるのならと、
T君から誘われると喜んで徹夜麻雀に加わった。

 下宿暮らしのT君には、朝と夕方に温かい食事が出た。
「テレビを見ながら食べるんだ」と聞いた。

 次第にY君やT君の暮らしに憧れた。
でも、奨学金とわずかな仕送りで、
それ以外に収入がなかった。
 寮を出ての暮らしは考えられなかった。

 ▼ 1年が過ぎた。
私は、痩せた。
 学食のおばさんが、
「ちゃんと食べてないんでしょ」と、
昼食時間に厨房の皿洗いをすることを条件に、
残ったメニューを無料で食べさせてくれた。

 それでも、少しずつ体調が悪くなった。
大学の保健室へ行き、相談した。
 「寮生活ではなく、しっかり食事ができる生活をしないと」
保健室の先生から助言があった。

 連休を利用して、帰省した。
無理を言って、大学へ行った。
 父や兄に、嫌な寮生活を口にできなかった。
でも、母は直感したようだ。

 「どうしたの。何かあったの」
と言ってくれた。
 寮を出て、友だちと同じ下宿で暮らしたい。
それには、お金が足りないことを伝えた。

 母は「そう、困ったね。困ったね」を何度もくり返した。
そして、翌日だった。

 誰もいないところで母は小声で
「みんなには内緒よ。
私の臍繰りから、お金を上げるから、
友だちと一緒の下宿に移りなさい。
 絶対に言ったら駄目だよ」

 白い紙に小さくたたんだお札を包み、
私の手に握らせた。
「これは3か月分ね。
 夏休みには、またあげるから」。

 嬉しさより、ホッと安堵した。
「これで寮から出られる!」
 気持ちが軽くなった。

 大学に戻るとT君の下宿に行った。
タイミング良く、4畳半の1人部屋が空いていた。

 6畳に2人暮らしだったT君が、
「俺の方がまだ金があるから、
4畳半に移るよ」と言ってくれた。
 私はその好意に甘えた。

 下宿のおばさんが
「塚原さん、いい友だちを持ったね」
と言った。
 「はい!」
久しぶりに明るい返事ができた。

 その後、次第に元気を取り戻した。
家庭教師のアルバイトを探した。
 冬休みには、郵便配達のアルバイトもした。
できるだけ、母の臍繰りを当てにしないように努めた。




      氷上にて 陽春をうけ  
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災害時のサポート あれこれ

2025-02-15 13:54:35 | 北の湘南・伊達
 私の自治会には、『自主防災組織』がある。
災害が迫った場合、会長を本部長とする防災本部と、
自治会役員で編成する防災班が、しっかり機能するよう備えている。

 その一環として取り組んでいるものの1つが、
『災害時要援助者サポート体制』である。

 具体的には、
75歳以上で一人暮らしの方の中から、
希望する方を対象に、
災害発生時やその危険がある時、
避難所までの移動を手助けするため、
近隣会員を配置する(サポーター)制度である。

 例えば『高齢者避難』などの指示があった場合、
一人暮らしの高齢者とサポーターが、
「避難所までいつどのようにして移動するか」などの連絡を取り合い、
場合によっては、一緒に避難所へ行くなどのサポートをするものである。

 この取り組みは、私の自治会オリジナルのものだが、
4年前から実施している。

 一人暮らしの高齢者とサポーターの組み合わせは、
2年ごとに見直し、継続や新規などの更新をすることにしている。

 その更新が、今年度末である。
2月に入り、2人1組で5つのブロックに別れて、
それに取り組むことになった。

 私は、T氏と一緒に、一番世帯数の多いブロックを担当する。
2年前までは、世帯数の割に対象となる高齢者は少なかった。
 ところが、この2年間で倍に増えた地域である。
増加の訳は、配偶者の死去と75歳の年齢になった方が増えたから。

 まずは、対象者宅を戸別訪問し、サポーター希望の有無を聞き取る。
その前に、主旨と期間、訪問者名を記した印刷物を配布した。
 訪問すると、ほとんどの方がその印刷物を見ていた。

 サポーターを希望するか否かの意向と共に、
一人一人の想いに触れた。
 3人の声を記す。


 ① Aさんの声
 Aさんは、80歳を越えていた。
2年ごとに2回希望調査に伺った。
 
「まだ誰かに頼らなくても大丈夫だと思う。
 いざという時は、避難所まで1人で行けるよ」  
過去2回の回答はこうだった。

 ところが、今回は違った。
「まだ、車の運転もしているんだ。
 だから、何とか避難所までは行けると思うよ。
だけど誰かに声をかけてもらえると心強いなあ。
 それだけでいいんだ。
誰か、そんな人がいると助かるなあ」。

 「じゃ、サポーターを探してみますね」
「あまり近所づきあいしてないんだけど、
誰か頼める人いるかなあ。
 よろしく頼みます」
Aさんは、2度3度と頭を下げた。


 ② Bさんの声
 いつごろから一人暮らしなのかは知らない。
今年75歳を迎え、サポートの対象になった。
 初めて希望の意向調査に伺った。

 主旨を説明するまでもなく、
事前に配布した印刷物でこの制度は理解していた。

 早速、意向を尋ねた。
「車もあるし、どこが避難所になっても行けると思います。
よほどのことでないと歩いてでも、まだ大丈夫。
 でも・・、サポーターでしたね・・いてくれると・・。
でも・・、まだ一人でも・・」
 Bさんは、ずっと迷っていると言う。

 私は言った。
「2年ごとに意向を聞いて、サポーターを決めます。
 今回は、希望しなくても、2年先に希望することもできます。
もし、その間にサポーターが必要になったら、
その時はご連絡ください。
 対応するようにしますから」

 Bさんの表情が急に明るくなった。
「そうですか。途中でも大丈夫ですか。
分かりました。
 でも、私、2年間は一人で頑張ってみます。
きっと大丈夫です。
 もう決めました」 
 
 
 ③ Cさんの声
 インターポンを押すと、しばらくして応答があった。
「玄関まで時間がかかります。
すいません。お待ち下さい」

 その通りだったが、
「ご迷惑をおかけしました」の声と共に、
玄関戸が開き、やや前屈みに深々と頭をさげながらCさんは現れた。

 何度お訪ねしても、
丁寧な言葉遣いと腰の低い方である。
 見習いたいといつも思う。

 玄関先で訪問の要件を伝えたると、
印刷物で訪問は承知していたと言う。

 そして、玄関の板の間に座って、
「お手数をおかけしてはいけませんので、
今までどおりにと、Gさんにお電話し、
これからもよろしくとお願いしました」
と頭をさげる。
 「Gさんからは分かりましたとお返事を頂き、
ホッとしました」とも。
 
 Cさんは、この制度を初年度から利用し、
Gさんがサポーターになっていた。 
 私たちがやるべき更新の手続きを、
先回りしてCさんは進めてくださった。

 「それは、ありがとうござした。
Gさんの了解をとって頂き、
私たちもほっとしました」

 その後、Cさんは再び深く頭を下げて
「皆さんに助けられながら、こうして暮らしていられます。
本当にありがとうございます。
 これからもお世話になります、よろしくお願いします」
と両手をついた。

 そのような言葉にしきりに恐縮する私に、
Cさんは、こう結んだ。
「でも、塚原さん、私、随分歳をとりました」。

 きっと、私より一回り上ではなかろうか。
気丈な振る舞いのそんな結びに、
私の心は揺れていた。


 

   冬の湖畔 『薫風』が佇む 
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