ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

医療の進歩を信じ

2015-12-11 22:51:01 | 思い
 教職10年目前後の頃、通常学級の担任として
自閉症T君(関連ブログ・14年8月4日『9年目の涙』)を、
そして、それから2年後には脳性マヒのYちゃんを受け持った。

 私は、この二人から教師として、かけがえのない財産を沢山頂いた。
その子のニーズに応じること、教師は子どもの鏡であること、
そして何よりも、障害に負けず精一杯生きている姿に
励まされたことなどなど、感謝はつきない。

 この経験が少しでも役立てばと、
40歳を前にして、1年間学校を離れ、
当時は目黒駅近くにあった都立教育研究所の研究生になった。

 その研究所の心身障害教育研究室に、毎日通った。
そこは、私のそれまでの学校生活とは
別世界と思える場だった。
 毎日、主任指導主事はじめ
心身障害教育を専門とする指導主事4名と、
これまた障害児学校・学級で
実践を積んできた2人の研究生と、机を囲んだ。

 障害児教育の文献に目を通し、
時に研修会に参加し専門的な講義を聴いた。
 そして、研究課題であった
「通常学級に在籍する障害児の学習の可能性を探る」ことに、
研究室の全スタッフで、議論を深め研究を進めた。

 まだ、「特別支援教育」と言う言葉も、
インクルージョンと言う考え方もない時代だった。
まさに先行的研究の色彩が強かった。

 それにしても、障害児教育について門外漢であった私にとって、
研究室のスタッフから聞くその実践や教育の視点は、
日々新鮮な驚きであった。
併せて、私自身の無学さを思い知らされた。

 ある日のティータイム、突然、
「医療と教育の違いってなんでしょうね。」と尋ねられた。
思いもしなかった問いに、絶句し、顔を赤くするだけの私だった。
 また、ある時は、「耐性と自己表現のバランスが重要なの。」
と、言うアドバイスに、全く理解不能だった。
 恥ずかしさと共に、自信を失うこともしばしばあった。

 そのような研究室での語らいで、ひときわ鮮烈に心に残ったものがある。
 それは、指導主事の中で一番若いK先生から聞いた。
K先生が、養護学校(今は「特別支援学校」)に、勤務していた時だ。

 小学1年生の男児が入学してきた。
肢体不自由児として入学してきたが、
当初は、健常の子と変わらず動き回ることができた。
 ところが、半年もすると歩行が遅くなり、
1年が過ぎると両足で立つことも難しくなった。
 筋ジストロフィーだった。

 年令を重ねるにつれ、全身の筋肉が衰え、
歩行も困難になり、車いす生活、
やがて寝たきりの生活。そして次へと進行していく。

 K先生は、言った。
「人は成長を続け、やがて一人の人間として生きていく。
そのために教育はあるのに、筋ジスの子は、
どんどん自立から遠ざかっていく。
 その子に、何を教えたらいいのか。どんな教育があるのか。
私は、悩みましたよ。」

 K先生とは、毎日研究室で顔を合わせた。
だから、その実直さはよく知っていた。
 筋ジスの子を前にして、どうその子に接するべきか、
苦慮するK先生の思いが、胸に痛かった。

 私には、K先生に返す言葉も、
私自身の気持ちを落ち着ける考えも浮かばなかった。
 帰りの電車で、つり革に必死にしがみつきながら、
「学校は、子どもの未来のためにある。
それなのにどうして。それなのに何ができるのだ。」
 その言葉だけが、頭をくり返し駆け巡った。
答えのないまま、堂々巡りが続いた。

 しかし、そんなこともやがて、
私の周りにそのような子どもがいないことで、次第に安堵に変わり、
迷いも、時と共に心の奥へといってしまった。

 ところが、校長として2校目に赴任した年の2月だった。
区教委から担当者が来校し、来年度の新一年生に、
筋ジスの子が入学することになったと知らされた。

 すでに、S区の区立小中学校では、学校選択制が導入されていた。
その子の親御さんは、私の学校への入学を希望されたとのことだった。
 K先生の言葉が、突然息を吹き返した。

 その子に、何ができるだろうか。
次第に自由を失っていくであろう子に、
学校はどんな対応が求められるのだろうか。
どんな学びに、努力をすべきなのか。
 さらには、そんなことより、この私に、
その子をしっかりと見つめ続ける、そんな強さがあるだろうか。
 筋ジスが進行する子を目の前にし、心揺れる担任を、
校長として支えることができるだろうか。

 私は、急に大きな不安と言えるだろうが、
口には出せない動揺と自信のなさ、迷いに見舞われた。

 数日後、親御さんと面談することになった。
お父さんは都合で見えられなかった。
 お母さんは、初対面の私への気遣いなのか、
落ち着きのあるスーツ姿で、校長室のソファーに腰掛けた。

 お子さんの病状と、これからやってくる障害について、
淡々と落ち着いてお話になった。
 私は、区教委の担当者と、その揺るぎのない話し方に聞き入った。
私は、時折、お母さんの話す内容に胸がしめつけられ、
息苦しさを感じた。
だが、必死で、それに気づかれないようにした。

 一通り聞き終えてから、私は誤解を恐れず質問した。
それは、何故、障害のある子にとって施設設備が不十分な本校への、
入学を選ばれたのかと言うことだった。

 「校長先生なら、うちの子の理解者になっていただけると思いました。」
お母さんの返事は、明快だった。
 だが、その時の私には、その言葉をしっかりと受け止める
気構えも知恵も度量もなかった。
 同時に、そう決断した思いを、はね返すといった
そんな酷さもなかった。

 「私にどれだけのことができるか。」
それが、必死の言葉だった。そして、
「お母さんも、辛いことがあろうかと思いますが、
学校もお子さんのために、努力を惜しまないつもりです。」

 私は、まだまだその子への対応に道筋が見えないまま、
背伸びをし、お母さんを励ましたつもりだった。
 すると、お母さんは私を見て、静かな口調で、
「校長先生、私は、医療の進歩を信じています。
あの子が生きている間に、必ず医療は進歩します。
私は、そう信じています。」

 暗い雲間が裂けて、一直線に太陽の光が地上を射ることがある。
お母さんの言葉と一緒に、私に明るい一筋の陽光が届いた。
 私は、分かった。
 お母さんのおっしゃる通りだ。
 医療は進歩する。
それを信じ、その子の未来のために、学校はある。
入学してくる全ての子と変わらず、等しく教育活動を進めよう。
 そして、願わくば進行する障害をものともしない子にしよう。

 私は、お母さんの物静かだが揺るぎない言葉に、力をもらった。
そして、自信を持って、その子を迎え入れることができた。

 私が在任中に、歩行ができなくなった。
お母さんが車いすを押して、登校してきた。
 私は、毎朝玄関で迎えた。
いつだって、二人は笑顔だった。

 もうまもなく、成人を迎えるころだろう。
今は、どうすごしているのか。
 時々、心が騒ぐ。

 ips細胞の山中教授が、
「この細胞が、医療で生かされる日を、一日でも早くと待っている人たちがいる。
そんな方々の力になれるよう、努力を続けたい。」
と言った。
 今、私の切なる祈りになっている。




市内を流れる気門別川 まだ鮭が遡上している
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