以前に記したブログから抜粋する。
『30代の中頃、こんな出会いに恵まれた。
2人の息子が小学生になり、放課後は学童保育ルームにお世話になった。
当時、私の居住する市には、公設の学童保育ルームがなかった。
市から補助金を頂きながら、保護者によって自主運営されていた。
保護者会で選出された7名の役員が、
そのルームの管理運営のいっさいを担った。
誰もなり手がなく、私が保護者会長になった。
月1回の定例役員会は、様々な案件の審議で深夜まで及んだ。
7名の職業は様々だった。
当然、発想や視点には違いがあった。
しかし、ルーム運営の重責にあることで、心は1つだった。
メンバーの1人に、K氏がいた。
鉄道マンで、架線管理が専門のフットワークのいい行動派だった。
彼は会議の中で、誰もが一目置く程の調整力を発揮した。
会長の私は大いに救われた。
いつも、私たちを笑いの渦に巻き込んだ。
和やかな雰囲気を演出してくれた。
そして、意見の違いを越える切っ掛けを作ってくれた。』
K氏だけでなく、役員一人一人、
人として素敵な持ち味があった。
学校という狭い世界しか知らなかった私には、
そこでの意見交換や共同作業の1つ1つが、
新しい驚きや貴重な発見になった。
刺激的だった。
わずか3年間の会長経験だったが、
今振り返ると、あの時の1つ1つが、
その後の私の力になったと思う。
貴重な体験を、なぞってみる。
① 「泣き寝入りですか!?」
会長になってすぐのことだ。
新1年生20数名を迎え入れて、1ヶ月ほどが過ぎていた。
その1年生を歓迎する行事が、
土曜日の午後に、保護者を交えて行われた。
子ども達70名と保護者30名くらいが集まっただろうか。
3人の指導員がリーダー役になり、
ゲームや鬼ごっごなどで、楽しい時間を過ごしていた。
保護者が参加する行事である。
当然、会長の私は出席が求められた。
しかし、急用ができ、欠席した。
事件は、そんな時に起きた。
決して広いとは言えないルームの庭で、
親子ドッチボールが始まった。
しばらくして、新1年生のお母さんがコート内で尻餅をついた。
そのまま立ち上がれなくなった。
あまりの痛さで、歩行できない。
救急車で、病院へ運んだ。
アキレス腱が切れていた。
そのまま入院した。
その夜、私は自宅に戻ってから、その事故を電話で知った。
見舞いは翌日にし、
取り急ぎ、ご主人へ電話をした。
電話に出たご主人は、最初から憤っていた。
「学童ルームの会長をしております塚原です。
奥様が大きな怪我をされ、取り急ぎお見舞いをと思い、
お電話しました。」
そんな始まりだった。
ところが、ご主人は言った。
「この怪我の治療や入院費は、誰が負担するんですか。」
不意だった。そんなことに私は不慣れだった。
返事が全くできなかった。
「エッ、それは・・」。
「まさか、本人負担じゃないでしょうね。」
「それは、・・。」
言葉につまる一方だった。
そんなやりとりを想定しての電話ではなかった。
ご主人がどんな方かも分からなかった。
どんな口約束をすべきか、見当もつかなかった。
そんな私に、ご主人は不快だったのだろう。
さらに口調は強くなった。
「あのね、ひとり息子が1年生になり、
ようやく家内がパートに行けるようになったんです。
なので、学童へ入れた。
これで少しは楽になると思ったんです。
その矢先に、この有り様だ。
パートは、無理。
その上、費用は自己負担ですか。」
「・・・・。」
「泣き寝入りですか。会長さん。」
「そう言う訳には・・・。できることは・・」
そう言って、受話器を置きながら、目の前が真っ暗になった。
翌日曜日、入院先へお見舞いに行った。
ベットへ横になっている奥さんには何も言えず、
用意した花束だけを置いた。
「きっと、主人、きつい言い方をしたと思います。
すみません。」
「いいえ、ご主人のお気持ちは、分かりますので・・。」
昨夜は一晩中、受話器の声が頭を巡っていた。
強い口調とは別に、ご主人の思いは十分に理解できた。
その日、緊急に役員会を招集した。
指導員も同席してくれた。
ご主人との電話内容を伝え、対応策を話し合った。
ルームの子ども達は、怪我等の保険に入っていた。
しかし、保護者まではその対象になっていなかった。
まさに『泣き寝入り』しか方法がないように思えた。
ルーム運営の態勢が、保護者にまで至っていなかった。
大きな反省点だった。
しかし、怪我をした保護者を救済する方法はないものか。
役員会は、あてなどないまま、その方策を探ることにした。
『泣き寝入り』だけは、どうしてもしたくなかった。
どこかで、意地を張った。
すると、数日後、国家公務員をしている役員から連絡があった。
「地方自治体によっては、『ボランティア保険』の制度がある。」
と、言うのだ。
その保険は、ボランティア活動なら、
誰でも怪我などの補償を受けられるものらしい。
すぐに調べて貰った。
居住していた市には、この保険制度があった。嬉しかった。
我が国におけるボランティア元年と言われる『阪神淡路大震災』まで、
10年近くも前のことだ。
少しだけ、光りが差した。
しかしだ。
学童保育ルームの親子ドッチボールが、
ボランティア活動にあたるかどうかが問われた。
役員数名で、市役所へ出向いた。
ボランティア保険の説明を受けた。
そして、学童ルームの親子ドッチボールでの怪我が、
その保険の対象になるかを尋ねた。
争点は、ボランティアの定義に及んだ。
私は、全くの素人だった。
だが、その保険が適用され、治療費の一部でも補填できれば、
その一心だった。
その後、市役所の担当者と、何度も話し合う機会を持った。
今ならそうなるのか分からない。
当時の見解は、ボランティア保険の対象として認められた。
あの親子ドッチボールは、保護者の自主的参加だった。
参加しない保護者もたくさんいた。
我が子のためだけにドッチボールをし、怪我をしたのではない。
学童ルームの子ども達のために行った行為での怪我だ。
だから、保険の対象となる。
そんな結論だったと記憶している。
さて、この結果に至り、治療や入院費等々が、
支払われるまでに、半年を有した。
しかし、その間、私にはそんな結果を導き出せる確固たる自信がなかった。
怪我をしたお母さんにもご主人にも、
明確な説明ができないまま、時間だけが過ぎた。
不信感だけがつのっていったのだろう。
怪我から退院してまもなく、
その子は学童ルームをやめた。
保護者は、私たちとの関係を切ってしまった。
私は、何の手立てを講じないまま、市との話し合いだけを続けた。
そして、保険の適用が決まり、
それ相応の金額が市から支払われることになった。
重たい気持ちが少し和らいだ。
役員と市の職員で、ご自宅を訪ね、
改めてお詫びとその保険補償を説明し、金額を提示した。
「わかりました。」
「ご丁寧に。」
若干驚きながらも、お二人は、
私たちの想いを受け入れてくれたように思えた。
だが、私には少し傷が残った。
ところが、後日、両親から申し入れがあった。
「金額が多すぎます。一部を返金したいのですが・・。」
「それは、規定通りの金額ですから・・」
そんな説明に、
「では、学童ルームへの寄付として・・」。
そのお金の入った封筒をありがたく、受け取った。
若干、霧が晴れた。
だけど、
「もう少し自信を持って、交渉経過を伝えておけば・・。
お二人に、怪我以上に辛い、そんな負担をかけずに済んだはず・・。」
当時の私には、それができなかった。
≪つづく≫
『だて歴史の杜公園』も 凍える
『30代の中頃、こんな出会いに恵まれた。
2人の息子が小学生になり、放課後は学童保育ルームにお世話になった。
当時、私の居住する市には、公設の学童保育ルームがなかった。
市から補助金を頂きながら、保護者によって自主運営されていた。
保護者会で選出された7名の役員が、
そのルームの管理運営のいっさいを担った。
誰もなり手がなく、私が保護者会長になった。
月1回の定例役員会は、様々な案件の審議で深夜まで及んだ。
7名の職業は様々だった。
当然、発想や視点には違いがあった。
しかし、ルーム運営の重責にあることで、心は1つだった。
メンバーの1人に、K氏がいた。
鉄道マンで、架線管理が専門のフットワークのいい行動派だった。
彼は会議の中で、誰もが一目置く程の調整力を発揮した。
会長の私は大いに救われた。
いつも、私たちを笑いの渦に巻き込んだ。
和やかな雰囲気を演出してくれた。
そして、意見の違いを越える切っ掛けを作ってくれた。』
K氏だけでなく、役員一人一人、
人として素敵な持ち味があった。
学校という狭い世界しか知らなかった私には、
そこでの意見交換や共同作業の1つ1つが、
新しい驚きや貴重な発見になった。
刺激的だった。
わずか3年間の会長経験だったが、
今振り返ると、あの時の1つ1つが、
その後の私の力になったと思う。
貴重な体験を、なぞってみる。
① 「泣き寝入りですか!?」
会長になってすぐのことだ。
新1年生20数名を迎え入れて、1ヶ月ほどが過ぎていた。
その1年生を歓迎する行事が、
土曜日の午後に、保護者を交えて行われた。
子ども達70名と保護者30名くらいが集まっただろうか。
3人の指導員がリーダー役になり、
ゲームや鬼ごっごなどで、楽しい時間を過ごしていた。
保護者が参加する行事である。
当然、会長の私は出席が求められた。
しかし、急用ができ、欠席した。
事件は、そんな時に起きた。
決して広いとは言えないルームの庭で、
親子ドッチボールが始まった。
しばらくして、新1年生のお母さんがコート内で尻餅をついた。
そのまま立ち上がれなくなった。
あまりの痛さで、歩行できない。
救急車で、病院へ運んだ。
アキレス腱が切れていた。
そのまま入院した。
その夜、私は自宅に戻ってから、その事故を電話で知った。
見舞いは翌日にし、
取り急ぎ、ご主人へ電話をした。
電話に出たご主人は、最初から憤っていた。
「学童ルームの会長をしております塚原です。
奥様が大きな怪我をされ、取り急ぎお見舞いをと思い、
お電話しました。」
そんな始まりだった。
ところが、ご主人は言った。
「この怪我の治療や入院費は、誰が負担するんですか。」
不意だった。そんなことに私は不慣れだった。
返事が全くできなかった。
「エッ、それは・・」。
「まさか、本人負担じゃないでしょうね。」
「それは、・・。」
言葉につまる一方だった。
そんなやりとりを想定しての電話ではなかった。
ご主人がどんな方かも分からなかった。
どんな口約束をすべきか、見当もつかなかった。
そんな私に、ご主人は不快だったのだろう。
さらに口調は強くなった。
「あのね、ひとり息子が1年生になり、
ようやく家内がパートに行けるようになったんです。
なので、学童へ入れた。
これで少しは楽になると思ったんです。
その矢先に、この有り様だ。
パートは、無理。
その上、費用は自己負担ですか。」
「・・・・。」
「泣き寝入りですか。会長さん。」
「そう言う訳には・・・。できることは・・」
そう言って、受話器を置きながら、目の前が真っ暗になった。
翌日曜日、入院先へお見舞いに行った。
ベットへ横になっている奥さんには何も言えず、
用意した花束だけを置いた。
「きっと、主人、きつい言い方をしたと思います。
すみません。」
「いいえ、ご主人のお気持ちは、分かりますので・・。」
昨夜は一晩中、受話器の声が頭を巡っていた。
強い口調とは別に、ご主人の思いは十分に理解できた。
その日、緊急に役員会を招集した。
指導員も同席してくれた。
ご主人との電話内容を伝え、対応策を話し合った。
ルームの子ども達は、怪我等の保険に入っていた。
しかし、保護者まではその対象になっていなかった。
まさに『泣き寝入り』しか方法がないように思えた。
ルーム運営の態勢が、保護者にまで至っていなかった。
大きな反省点だった。
しかし、怪我をした保護者を救済する方法はないものか。
役員会は、あてなどないまま、その方策を探ることにした。
『泣き寝入り』だけは、どうしてもしたくなかった。
どこかで、意地を張った。
すると、数日後、国家公務員をしている役員から連絡があった。
「地方自治体によっては、『ボランティア保険』の制度がある。」
と、言うのだ。
その保険は、ボランティア活動なら、
誰でも怪我などの補償を受けられるものらしい。
すぐに調べて貰った。
居住していた市には、この保険制度があった。嬉しかった。
我が国におけるボランティア元年と言われる『阪神淡路大震災』まで、
10年近くも前のことだ。
少しだけ、光りが差した。
しかしだ。
学童保育ルームの親子ドッチボールが、
ボランティア活動にあたるかどうかが問われた。
役員数名で、市役所へ出向いた。
ボランティア保険の説明を受けた。
そして、学童ルームの親子ドッチボールでの怪我が、
その保険の対象になるかを尋ねた。
争点は、ボランティアの定義に及んだ。
私は、全くの素人だった。
だが、その保険が適用され、治療費の一部でも補填できれば、
その一心だった。
その後、市役所の担当者と、何度も話し合う機会を持った。
今ならそうなるのか分からない。
当時の見解は、ボランティア保険の対象として認められた。
あの親子ドッチボールは、保護者の自主的参加だった。
参加しない保護者もたくさんいた。
我が子のためだけにドッチボールをし、怪我をしたのではない。
学童ルームの子ども達のために行った行為での怪我だ。
だから、保険の対象となる。
そんな結論だったと記憶している。
さて、この結果に至り、治療や入院費等々が、
支払われるまでに、半年を有した。
しかし、その間、私にはそんな結果を導き出せる確固たる自信がなかった。
怪我をしたお母さんにもご主人にも、
明確な説明ができないまま、時間だけが過ぎた。
不信感だけがつのっていったのだろう。
怪我から退院してまもなく、
その子は学童ルームをやめた。
保護者は、私たちとの関係を切ってしまった。
私は、何の手立てを講じないまま、市との話し合いだけを続けた。
そして、保険の適用が決まり、
それ相応の金額が市から支払われることになった。
重たい気持ちが少し和らいだ。
役員と市の職員で、ご自宅を訪ね、
改めてお詫びとその保険補償を説明し、金額を提示した。
「わかりました。」
「ご丁寧に。」
若干驚きながらも、お二人は、
私たちの想いを受け入れてくれたように思えた。
だが、私には少し傷が残った。
ところが、後日、両親から申し入れがあった。
「金額が多すぎます。一部を返金したいのですが・・。」
「それは、規定通りの金額ですから・・」
そんな説明に、
「では、学童ルームへの寄付として・・」。
そのお金の入った封筒をありがたく、受け取った。
若干、霧が晴れた。
だけど、
「もう少し自信を持って、交渉経過を伝えておけば・・。
お二人に、怪我以上に辛い、そんな負担をかけずに済んだはず・・。」
当時の私には、それができなかった。
≪つづく≫

『だて歴史の杜公園』も 凍える