昨年1月末、若い頃からずっと『憧れの人』だったA氏が逝った。
その知らせが届いた日、伊達で1件だけの酒屋に出向き、
沢山の銘柄から、道内酒蔵の『冬花火』を買い求めた。
「冬の花火はひときわ美しく、
華やかにひろがり、さっと消えていく。」
一升瓶のラベルにあった言葉を、くり返し声にしながら、
粉雪が舞う深夜まで眠れずに過ごした。
翌日、千葉県内のご自宅へ、
奥様(画家)宛で、供花を送った。
数日が過ぎ、息子さんからお礼の電話があった。
「父とは、どんな関係だったのでしょうか。」
一通りの挨拶の後、そんな問いがあった。
「奥様は、私の事を知っているはず・・。
なのに・・。その質問・・?」。
若干の違和感があった。
簡単にA氏との関わりを伝えた後、
「お母さんは、どうしてますか。」
思い切って、訊いてみた。
「母もガンで、闘病生活をしてまして・・。」
丁度いい言葉も、心の籠もった励ましも言えなかった。
ただただ会話を濁した。
最後に、
「父は、何もかも捨てなかった人だったので、
これからしばらくは、アトリエの整理が残っています。」
口調の端々に、何となくA氏を感じながら、電話を終えた。
そして、6月、2人の息子さん連名の小包と
「ご挨拶」の一葉が届いた。
転記する。
* * * *
ご挨拶
このたびは父「A」の永眠に際して
お心遣いをいただき 誠にありがとうございました
その後 母「J」も三月に後を追うように旅立ちました
今 世の中も大きく変わろうとしています
心の整理がつくのは 少し時間がかかりそうです
幸いにも私たちには
父と母が遺してくれた作品が在ります
その一つひとつに向き合い
二人の感性に触れることが
私たちの今後の道しるべになると思っています
長い間 父「A」とお付き合いいただき
ありがとうございました
御礼のご挨拶と代えさせていただきます
* * * *
『長い間 父「A」とお付き合いいただき』が、
心に刺さった。
「もう彼とはおしまい!」。
そんな決別の最後通告を受けたようで、
息子さんの想いを、汲み取ろうとも思わなかった。
しかし、先月のことだ。
一枚の葉書が、届いた。
A氏のサイン入り墨絵には、2人の顔が描かれ、
「どっちもどっち』の文字が踊っていた。
そして、『二人展』と描かれたその案内状には、
息子さん2人からのこんなメッセージがあった。
『父が亡くなり一年が過ぎ、母の命日も近づいています。
遺された作品を通して、二人を偲ぶ回顧展を開きます。
大変な世の中が続いています。もし、お気持ちが許せば、
足を運んでいただけますと幸いです。』
4月上旬の11日間、東京銀座のギャラリーで開催する
と、記されていた。
A氏がグループ展などでよく利用していた画廊だ。
何が何でも、飛んででも、行きたかった。
そして、息子さんらと同様、
『その一つひとつに向き合い
二人の感性に触れ』たかった。
彼の想いの一端でいいから、再会したいと思った。
しかし、今、それは絶対に叶わない。
せめてその想いを、彼を知る方に託したかった。
同時に、こうして再びA氏に胸躍っている私に気づいた。
「何かできることを探したい!」。
思いついたのは、会場に花を届けること。
「でも・・、回顧展に花を贈ってよいものか」。
迷った末に、会場であるギャラリーへ電話し、相談した。
言葉遣いの丁寧な女性が応じてくれた。
「それは、きっとお喜びになられると思います。」
女性は、そう言いながら、注文先の花屋まで教えてくれた。
そして、鼻声につまりながら、こう私に言った。
「お二人には、いつもいつも大変よくしてもらいました。
私も悲しいです。」
突然、胸がいっぱいになった。
誰にでも気配りの出来るA氏だった。
改めて、それを思い知らされた。
彼を惜しむ電話の向こうの声が、涙を誘った。
きっと、『二人展』は、
春の陽が注ぐ都心の一角で、A氏らしく、
そっと人々を迎えていたに違いない。
もう、結びにする。
彼が登場した私のエッセイを思い出した。
その駄文に、『ほろ酔いしての 五・七・五』と言いながら、
A氏から、一句を頂いていた。
* * * *
親を見て育つ
それは、私の第一子が誕生した時でした。
孫の顔を一目見ようと北海道から父が、
単身上京してきた時のことです。
「わざわざお父さんが来られたから」
と、酒好きの父を知って、
当時の同僚達が酒席を設けてくれました。
しばらくして少し口先も滑らかになってきた頃合いを見計らって、
同僚の一人が
「ところでお父さん、塚原先生は小さい頃どんな子だったのですか。」
と、切り出したではありませんか。
その時私は、決して自慢できる幼少時代ではなかった私の恥部が
さらされることに身を固くし、
若干顔を赤らめた父の言葉を待ちました。
ところが、
「ワシは五人の子に飯を食わせるのに精一杯で、
この子がどんな子だったかよく知らないんだよ。」
と言ったのです。
あえてそうして私をかばってくれた父に、
その時、熱いものを感じたのですが、
しばらくして
『いや、あの言葉はそのまま、その通りなのではないか。』
と考えを改めたのでした。
しかし、そんな父であっても、
私は間違いなくその父の姿をいつも見ていたし、
有り様は違っても今も父を目標にしていると、
私はその時強く思ったのでした。
まさに、子は親を見て育つのでは……。
* * * *
春燈や子を持って知る 子の恩と
合 掌
『ザゼンソウ』と言うらしい 「なるほど!」
その知らせが届いた日、伊達で1件だけの酒屋に出向き、
沢山の銘柄から、道内酒蔵の『冬花火』を買い求めた。
「冬の花火はひときわ美しく、
華やかにひろがり、さっと消えていく。」
一升瓶のラベルにあった言葉を、くり返し声にしながら、
粉雪が舞う深夜まで眠れずに過ごした。
翌日、千葉県内のご自宅へ、
奥様(画家)宛で、供花を送った。
数日が過ぎ、息子さんからお礼の電話があった。
「父とは、どんな関係だったのでしょうか。」
一通りの挨拶の後、そんな問いがあった。
「奥様は、私の事を知っているはず・・。
なのに・・。その質問・・?」。
若干の違和感があった。
簡単にA氏との関わりを伝えた後、
「お母さんは、どうしてますか。」
思い切って、訊いてみた。
「母もガンで、闘病生活をしてまして・・。」
丁度いい言葉も、心の籠もった励ましも言えなかった。
ただただ会話を濁した。
最後に、
「父は、何もかも捨てなかった人だったので、
これからしばらくは、アトリエの整理が残っています。」
口調の端々に、何となくA氏を感じながら、電話を終えた。
そして、6月、2人の息子さん連名の小包と
「ご挨拶」の一葉が届いた。
転記する。
* * * *
ご挨拶
このたびは父「A」の永眠に際して
お心遣いをいただき 誠にありがとうございました
その後 母「J」も三月に後を追うように旅立ちました
今 世の中も大きく変わろうとしています
心の整理がつくのは 少し時間がかかりそうです
幸いにも私たちには
父と母が遺してくれた作品が在ります
その一つひとつに向き合い
二人の感性に触れることが
私たちの今後の道しるべになると思っています
長い間 父「A」とお付き合いいただき
ありがとうございました
御礼のご挨拶と代えさせていただきます
* * * *
『長い間 父「A」とお付き合いいただき』が、
心に刺さった。
「もう彼とはおしまい!」。
そんな決別の最後通告を受けたようで、
息子さんの想いを、汲み取ろうとも思わなかった。
しかし、先月のことだ。
一枚の葉書が、届いた。
A氏のサイン入り墨絵には、2人の顔が描かれ、
「どっちもどっち』の文字が踊っていた。
そして、『二人展』と描かれたその案内状には、
息子さん2人からのこんなメッセージがあった。
『父が亡くなり一年が過ぎ、母の命日も近づいています。
遺された作品を通して、二人を偲ぶ回顧展を開きます。
大変な世の中が続いています。もし、お気持ちが許せば、
足を運んでいただけますと幸いです。』
4月上旬の11日間、東京銀座のギャラリーで開催する
と、記されていた。
A氏がグループ展などでよく利用していた画廊だ。
何が何でも、飛んででも、行きたかった。
そして、息子さんらと同様、
『その一つひとつに向き合い
二人の感性に触れ』たかった。
彼の想いの一端でいいから、再会したいと思った。
しかし、今、それは絶対に叶わない。
せめてその想いを、彼を知る方に託したかった。
同時に、こうして再びA氏に胸躍っている私に気づいた。
「何かできることを探したい!」。
思いついたのは、会場に花を届けること。
「でも・・、回顧展に花を贈ってよいものか」。
迷った末に、会場であるギャラリーへ電話し、相談した。
言葉遣いの丁寧な女性が応じてくれた。
「それは、きっとお喜びになられると思います。」
女性は、そう言いながら、注文先の花屋まで教えてくれた。
そして、鼻声につまりながら、こう私に言った。
「お二人には、いつもいつも大変よくしてもらいました。
私も悲しいです。」
突然、胸がいっぱいになった。
誰にでも気配りの出来るA氏だった。
改めて、それを思い知らされた。
彼を惜しむ電話の向こうの声が、涙を誘った。
きっと、『二人展』は、
春の陽が注ぐ都心の一角で、A氏らしく、
そっと人々を迎えていたに違いない。
もう、結びにする。
彼が登場した私のエッセイを思い出した。
その駄文に、『ほろ酔いしての 五・七・五』と言いながら、
A氏から、一句を頂いていた。
* * * *
親を見て育つ
それは、私の第一子が誕生した時でした。
孫の顔を一目見ようと北海道から父が、
単身上京してきた時のことです。
「わざわざお父さんが来られたから」
と、酒好きの父を知って、
当時の同僚達が酒席を設けてくれました。
しばらくして少し口先も滑らかになってきた頃合いを見計らって、
同僚の一人が
「ところでお父さん、塚原先生は小さい頃どんな子だったのですか。」
と、切り出したではありませんか。
その時私は、決して自慢できる幼少時代ではなかった私の恥部が
さらされることに身を固くし、
若干顔を赤らめた父の言葉を待ちました。
ところが、
「ワシは五人の子に飯を食わせるのに精一杯で、
この子がどんな子だったかよく知らないんだよ。」
と言ったのです。
あえてそうして私をかばってくれた父に、
その時、熱いものを感じたのですが、
しばらくして
『いや、あの言葉はそのまま、その通りなのではないか。』
と考えを改めたのでした。
しかし、そんな父であっても、
私は間違いなくその父の姿をいつも見ていたし、
有り様は違っても今も父を目標にしていると、
私はその時強く思ったのでした。
まさに、子は親を見て育つのでは……。
* * * *
春燈や子を持って知る 子の恩と
合 掌
『ザゼンソウ』と言うらしい 「なるほど!」