▼ 義母の一周忌のため、
旭川まで長距離ドライブをした。
高速道路からの景観は、
どこも新緑に覆われ、
冬期は、透けて見えていた山々の稜線も、
すっかり様相を変えていた。
北の大地は、躍動の時季を迎えていた。
そんな素敵な季節に義母は逝ったのだ。
1年前は、全く気づかずに同じ道を急いでいた。
ようやく今、義母からの最後のエールだと感じた。
これから先、私はどこへ向かうのか、不透明ではあるが、
でも、頑張ってみようと思った。
法要を終えた帰路は、日帰り温泉が併設されている
由仁町の『ユンニの湯』に宿泊した。
事前予約で、『どうみん割』があると知った。
これ幸いとお願いした。
対象のプランは、2食付きで1万円だ。
その内5千円が『どうみん割』である。
しかも、2千円のクーポン券までがついてきた。
結局は、1人3千円で、
温泉に入浴し、朝夕食付きの1泊である。
「安い!安い!」と控え目に言いつつ、
今が旬の時知らず鮭の塩焼きやシャコの天ぷらを肴に、
久しぶりの生ビールに、ついつい話は弾んだ。
義母を偲ぶ好機になった。
振り返ると、1年前の葬儀は緊急事態宣言下であった。
そのため、4人兄弟の夫婦、8人だけで執り行った。
精一杯心を込めたが、
義母の変わり果てた姿への悲しみとは別に、
少人数の寂しさが浸みた。
でも、「別れ方はさまざま、どんな別れ方も致し方ないこと」
と、私を納得させた。
さて、年齢が進むにつれ、いくつもの別れを体験してきた。
特に、私より年若い保護者の逝去は、深く心に刻まれている。
▼ 教頭として勤務していた小学校に、
2年生と4年生2人姉妹のお父さんが、
急死したと知らせがあった。
保護者が亡くなった場合、
学校からは校長と担任がお通夜に行くのが通例であった。
通夜の夜、校長らが戻るのを待った。
担任2人は、目を真っ赤にして職員室の自席に座った。
その後ろから、口数が少なく穏やかな校長までもが、
赤い目をして校長室へ入っていった。
気になったので、お茶を入れて校長室をノックした。
「2人の姉妹が、背中を丸めて寄り添っている姿が、かわいそうで」。
お茶を少し飲みながら、校長はハンカチで涙を拭いた。
通夜の席の情報では、
2日前、お父さんはオートバイによる交通事故で亡くなった。
予期しない、まさに突然の死だった。
「2人には、あまりにもショックが大きいようだから、
教頭さん、明日の告別式に行ってあげてくれないか!」。
翌日、校長から言われるまま、私は告別式に出席した。
出棺まで見送るつもりで時間をあけ、参列した。
弔辞は、お父さんの勤務先の社長さんが述べた。
社長さんは何度も何度も声をつまらせながら死を惜しんだ。
その様子から、優秀な社員だったことが伝わった。
お父さんの唯一の趣味はバイクのツーリングで、
その日も大好きなツーリングの途中で事故にあった。
お母さんとはツーリングが縁で結ばれたとのこと・・。
告別式が終わり、出棺のため最後の別れの時となった。
親族が次々と棺に花を入れた。
お母さんも2人の姉妹も、沢山の花を入れていた。
私は、ホールの片隅でその様子を見ていた。
悲しみをこらえながら、
棺のそばに立つ親子の姿が涙を誘った。
次の瞬間だった。
「いかないで!」。
静かな葬儀場に、女性の声が響いた。
目をこらした先には、棺に顔を埋め、
お父さんに両手を添え、頬ずりをするお母さんがいた。
そのお母さんに姉妹がピッタリとしがみついた。
親族も、周りの弔問者も何もできなかった。
「あなた、こんなのいやー!」。
しぼりだすようなお母さんの声がした。
3人に誰も近寄れない時が続いた。
しばらくして、白髪の女性が近寄り、
泣きながら、棺の中のお母さんの手を握り、
お父さんから引き離した。
呆然と火葬場へ向かう車に乗ったお母さんと、
そのそばを決して離れようとしない姉妹が、
目に焼き付いたままになった。
▼ 2年生の担任が妙な表情で、校長室に来た。
「僕のお母さん、死んだんだよ。
明日、海に骨をまくんだって言うんです」。
その男の子は、嘘を言っているように思えないので、
何度も訊き返した。
でも、それ以上のことがわからない。
腑に落ちない相談だったが、
思い切って担任から、自宅に電話してみることにした。
電話には、お父さんがでた。
男の子の言うことに間違いはなかった。
母親は病死し、葬儀は終了していた。
明日、海に散骨すると言う。
子どもは、つれていかないので、
いつも通り登校させるとの返答だった。
担任から報告を受け、何か訳があると直感した。
自宅を訪ね、焼香したいと、私が電話し願い出た。
お父さんからは、息子がいない明日の夕方にきてほしいと返事をもらった。
翌日、香典を包み、担任と一緒に自宅マンションを訪ねた。
その高級マンションは、廊下前に一軒一軒門扉があった。
玄関ドアを開け、出てきたお父さんは、
PTA行事などでいつもすごいカメラをもって参加する方だった。
何度か、懇親会の席でご一緒したこともあった。
その席で、プロのカメラマンだと聞いていた。
面識があることで、少しハードルが低くなった。
それでも、気を配りながらの会話になった。
居間に通された。
用意した香典を渡し、お悔やみを述べ、
遺影に手を合わせたいと伝えた。
お父さんは、私たちにソファを勧めた。
そして、言葉を選びながら話してくださった。
お母さんは半年ほど前に末期がんが見つかった。
入院と自宅療養を何度も繰り返した。
その半年の間に、お母さんは自分の全てを消すことを決心した。
自宅にいる時間を使って、お母さんは、自分の私物の全てを処分した。
思い出として残るものを、何一つとして残さなかった。
だから、お母さんが映っている写真でさえ一枚もないと言う。
「なぜ、そこまで」と問う私に、お父さんは、
「あなたの人生は、まだまだあるでしょう。
息子だって、まだまだ助けが必要です。
私を忘れてください。
それが一番いいことです。
いつまでも私をひきずらないで、
次へ進んでください。
お願いします。
だから、骨も海に蒔いて下さい。
その後は、手を合わせることもしないでね。
それが、彼女の遺言でした」。
お母さんのもので最期まで残ったのは、
病室にあったお箸と湯飲みだけ。
私と担任は、それにそっと合掌して、
自宅を後にした。
お母さんの想いの深さは、
私の想像を超えていた。
同世代の担任とは言葉のないまま、
学校まで戻った。
そして、いつも通り自分の机に向かった。
それが、一番の供養だと信じた。
その男の子は3年生を終える日に、
「今月で転校します」と、父子で校長室に来た。
2人とも、明るい表情だった。
何も言おうとしなかったが、
お父さんのメッセージは私に伝わった。
私は、深く頭を下げ、廊下で2人を見送った。
イベリス(別名・トキワナズナ)~マイガーデン~
旭川まで長距離ドライブをした。
高速道路からの景観は、
どこも新緑に覆われ、
冬期は、透けて見えていた山々の稜線も、
すっかり様相を変えていた。
北の大地は、躍動の時季を迎えていた。
そんな素敵な季節に義母は逝ったのだ。
1年前は、全く気づかずに同じ道を急いでいた。
ようやく今、義母からの最後のエールだと感じた。
これから先、私はどこへ向かうのか、不透明ではあるが、
でも、頑張ってみようと思った。
法要を終えた帰路は、日帰り温泉が併設されている
由仁町の『ユンニの湯』に宿泊した。
事前予約で、『どうみん割』があると知った。
これ幸いとお願いした。
対象のプランは、2食付きで1万円だ。
その内5千円が『どうみん割』である。
しかも、2千円のクーポン券までがついてきた。
結局は、1人3千円で、
温泉に入浴し、朝夕食付きの1泊である。
「安い!安い!」と控え目に言いつつ、
今が旬の時知らず鮭の塩焼きやシャコの天ぷらを肴に、
久しぶりの生ビールに、ついつい話は弾んだ。
義母を偲ぶ好機になった。
振り返ると、1年前の葬儀は緊急事態宣言下であった。
そのため、4人兄弟の夫婦、8人だけで執り行った。
精一杯心を込めたが、
義母の変わり果てた姿への悲しみとは別に、
少人数の寂しさが浸みた。
でも、「別れ方はさまざま、どんな別れ方も致し方ないこと」
と、私を納得させた。
さて、年齢が進むにつれ、いくつもの別れを体験してきた。
特に、私より年若い保護者の逝去は、深く心に刻まれている。
▼ 教頭として勤務していた小学校に、
2年生と4年生2人姉妹のお父さんが、
急死したと知らせがあった。
保護者が亡くなった場合、
学校からは校長と担任がお通夜に行くのが通例であった。
通夜の夜、校長らが戻るのを待った。
担任2人は、目を真っ赤にして職員室の自席に座った。
その後ろから、口数が少なく穏やかな校長までもが、
赤い目をして校長室へ入っていった。
気になったので、お茶を入れて校長室をノックした。
「2人の姉妹が、背中を丸めて寄り添っている姿が、かわいそうで」。
お茶を少し飲みながら、校長はハンカチで涙を拭いた。
通夜の席の情報では、
2日前、お父さんはオートバイによる交通事故で亡くなった。
予期しない、まさに突然の死だった。
「2人には、あまりにもショックが大きいようだから、
教頭さん、明日の告別式に行ってあげてくれないか!」。
翌日、校長から言われるまま、私は告別式に出席した。
出棺まで見送るつもりで時間をあけ、参列した。
弔辞は、お父さんの勤務先の社長さんが述べた。
社長さんは何度も何度も声をつまらせながら死を惜しんだ。
その様子から、優秀な社員だったことが伝わった。
お父さんの唯一の趣味はバイクのツーリングで、
その日も大好きなツーリングの途中で事故にあった。
お母さんとはツーリングが縁で結ばれたとのこと・・。
告別式が終わり、出棺のため最後の別れの時となった。
親族が次々と棺に花を入れた。
お母さんも2人の姉妹も、沢山の花を入れていた。
私は、ホールの片隅でその様子を見ていた。
悲しみをこらえながら、
棺のそばに立つ親子の姿が涙を誘った。
次の瞬間だった。
「いかないで!」。
静かな葬儀場に、女性の声が響いた。
目をこらした先には、棺に顔を埋め、
お父さんに両手を添え、頬ずりをするお母さんがいた。
そのお母さんに姉妹がピッタリとしがみついた。
親族も、周りの弔問者も何もできなかった。
「あなた、こんなのいやー!」。
しぼりだすようなお母さんの声がした。
3人に誰も近寄れない時が続いた。
しばらくして、白髪の女性が近寄り、
泣きながら、棺の中のお母さんの手を握り、
お父さんから引き離した。
呆然と火葬場へ向かう車に乗ったお母さんと、
そのそばを決して離れようとしない姉妹が、
目に焼き付いたままになった。
▼ 2年生の担任が妙な表情で、校長室に来た。
「僕のお母さん、死んだんだよ。
明日、海に骨をまくんだって言うんです」。
その男の子は、嘘を言っているように思えないので、
何度も訊き返した。
でも、それ以上のことがわからない。
腑に落ちない相談だったが、
思い切って担任から、自宅に電話してみることにした。
電話には、お父さんがでた。
男の子の言うことに間違いはなかった。
母親は病死し、葬儀は終了していた。
明日、海に散骨すると言う。
子どもは、つれていかないので、
いつも通り登校させるとの返答だった。
担任から報告を受け、何か訳があると直感した。
自宅を訪ね、焼香したいと、私が電話し願い出た。
お父さんからは、息子がいない明日の夕方にきてほしいと返事をもらった。
翌日、香典を包み、担任と一緒に自宅マンションを訪ねた。
その高級マンションは、廊下前に一軒一軒門扉があった。
玄関ドアを開け、出てきたお父さんは、
PTA行事などでいつもすごいカメラをもって参加する方だった。
何度か、懇親会の席でご一緒したこともあった。
その席で、プロのカメラマンだと聞いていた。
面識があることで、少しハードルが低くなった。
それでも、気を配りながらの会話になった。
居間に通された。
用意した香典を渡し、お悔やみを述べ、
遺影に手を合わせたいと伝えた。
お父さんは、私たちにソファを勧めた。
そして、言葉を選びながら話してくださった。
お母さんは半年ほど前に末期がんが見つかった。
入院と自宅療養を何度も繰り返した。
その半年の間に、お母さんは自分の全てを消すことを決心した。
自宅にいる時間を使って、お母さんは、自分の私物の全てを処分した。
思い出として残るものを、何一つとして残さなかった。
だから、お母さんが映っている写真でさえ一枚もないと言う。
「なぜ、そこまで」と問う私に、お父さんは、
「あなたの人生は、まだまだあるでしょう。
息子だって、まだまだ助けが必要です。
私を忘れてください。
それが一番いいことです。
いつまでも私をひきずらないで、
次へ進んでください。
お願いします。
だから、骨も海に蒔いて下さい。
その後は、手を合わせることもしないでね。
それが、彼女の遺言でした」。
お母さんのもので最期まで残ったのは、
病室にあったお箸と湯飲みだけ。
私と担任は、それにそっと合掌して、
自宅を後にした。
お母さんの想いの深さは、
私の想像を超えていた。
同世代の担任とは言葉のないまま、
学校まで戻った。
そして、いつも通り自分の机に向かった。
それが、一番の供養だと信じた。
その男の子は3年生を終える日に、
「今月で転校します」と、父子で校長室に来た。
2人とも、明るい表情だった。
何も言おうとしなかったが、
お父さんのメッセージは私に伝わった。
私は、深く頭を下げ、廊下で2人を見送った。
イベリス(別名・トキワナズナ)~マイガーデン~