「楽書きの会」は、今月から1人入会し、
現在13名になった。
土曜日の地元紙『室蘭民報』・文化欄に、
その中から1名の随筆が掲載される。
仲間に加えてもらって、もう3年になる。
これまでに、14ものエッセイを載せて頂いた。
それだけで嬉しいのに、その都度、様々な反響があり、
励みになっている。
最近作3点の紹介とその声(【◎ 】印)を記す。
* * * * *
= 2021年12月4日に掲載された。
本ブログ2016年7月に記した「私の保育所くらしから」の1部に筆を加えた。
ジングルベルが聞こえてくると、何故か思い出す光景だった。
その時季にあわせて投稿した。=
70年前のサンタクロース
クリスマス会なんて、前年までなかったのに、
急に遊戯室にクリスマスツリーが飾られた。
「トナカイがひくソリに乗って、明日サンタさんがやって来ます」。
先生は明るい声で言った。
それまで、クリスマスという言葉さえ知らなかった。
「遠い国から、真っ赤な服を着た白いヒゲのサンタクロースが、
大きな袋に沢山のプレゼントをつめてやってくるんだ」。
友だちが得意気に教えてくれた。
次の日、保育所の全員が遊戯室に集められた。
クリスマスの曲らしい音楽が流れ、
いつしか鈴の音と一緒に、サンタさんが現れた。
友だちが言った格好で重そうな袋を肩に、
ふらつきながら私たちのそばまで近づいた。
何やら不思議な言葉を遣った。
その言葉と真っ白な長いヒゲから、遠い遠い国の人だと思った。
私の心は普通でなくなった。
1人1人に分からない言葉で、プレゼントを渡してくれた。
嬉しかった。
わざわざ来てくれたんだと思うと、
さらに喜びが増した。サンタさんもクリスマスも大好きになった。
やがてサンタさんが帰り、会は終わった。
その後、全員で記念写真を撮ることになった。
用意されたひな壇にみんな座った。
私はたまたま最前列の端になった。
そして、私の横に椅子が一脚用意された。
いつの間にか、帰ったはずのサンタさんがそこに座った。
私は、混乱した。
そして、さらに混乱は続いた。
先生がサンタさんに小声で言った。
「今日は、ありがとうございます。子ども達、大喜びです」。
すると、サンタさんも私にも分かる言葉で、
「それはよかった。うまくいきましたね」。
その後も、2人の会話はしばらく続いた。
私は、ビックリして2人の顔を交互に見た。
そして、気づいた。
白いヒゲで覆われたサンタさんの顔に、見覚えがあった。
声も聞き覚えがあった。
よく行く「酒屋のおじさんだ!」。
急に胸の膨らみがしぼんだ。
「先生のウソつき!」。小さくつぶやいた。
【 ◎ シンプルさがいい。読者も最後はニッコリ笑っていそう。
70年前を思い出している、ということが、いいスパイスになっている。
◎ 懐かしい思い出をよく覚えていて、文章にする!
いつも感心させられています。
懐かしく、甘酸っぱい心持ちをいただきました。】
* * * * *
= 2022年2月5日に掲載された。
原文は、本ブログを開設してすぐの2014年8月に記した。
私にとっては大きな出来事だったが、読み手がどう受け止めるか不安で、
地元紙への投稿をためらっていた。
昨年11月の「あの子らの今は?」に再録した。
すると教職経験のない方からも、好評を得た。
それに押され、字数制限等の推敲を重ねた。=
9年目の涙
教職について9年目のとき、1年生担任になった。
その学級に自閉症のT君がいた。
T君は言葉が少なく、いつもジッと席にいた。
机にノートを広げてやると、勝手に電車の絵を描きはじめた。
「ダメだよ。お絵かきの時間じゃないよ。国語のお勉強ね」。
電車の絵を辞めさせようとすると、
突然大粒の涙をこぼし「お母さん、かえる。お母さん、かえる」と叫んだ。
この「お母さん、かえる」が始まると、私はもうお手上げだった。
仕方なく、いつもT君の家に電話をした。
幸い、学校の近くに住まいがあったので、
5分もかからずお母さんは駆けつけてくださった。
私はその5分間をただオロオロとしているだけで、
T君の「お母さん、かえる」を止めることができなかった。
T君に振り回される日が続いた。
そして、いつも「お母さん、かえる」の言葉を恐れた。
しかし、次第にT君の思いが分かるようになり、
少しずつ距離が縮まった。
それでも、時折T君の願いに気づけず
「お母さん、かえる」の大声と大粒の涙に見舞われた。
2年生でもT君を受け持った。
その頃になると、学級の子ども達ともT君はうち解けて過ごすことが多くなった。
その日の休み時間も、T君は学級のみんなと校庭にいた。
私は職員室で仕事に追われていた。
突然、外からT君の例の泣き叫ぶ声がした。
久しぶりの声に、体に力が入った。
ところが、「お母さん、かえる」のはずが、
「先生、かえる」に聞こえた。
「まさか!」と校庭に走り出た。
「お母さん、かえる」じゃない。
はっきりと「先生、かえる。先生、かえる」だった。
私はT君のそばに走りより、いつもお母さんがしたように、
T君のポケットから真っ白なハンカチを取り出し、
大粒の涙をふきながら、
「もう大丈夫だよ。もう大丈夫。先生がいるからね」。
そう言いながら、私はボロボロと涙をこぼした。
あの時、はじめて教職に魅せられた気がする。
【 ◎ 泣いてしまいました。
今こそ多様性を受け入れる時代になり、
いろんな人たちと関わることで自分を高められると思っています。
そう思っていても、自分との距離がある人との関わりは、
とても苦労し悩みます。
寄り添うことで、心が近づく体験をしていても、
なかなか本当の意味で距離を縮めることができず、
ジレンマを感じます。
この記事を読んで、本当に距離が縮まったんだなあと思い、
子どもが安心して過ごす場になったのかなと思いました。
多様性の社会で生きて生活するためには、
いろんな方のそばにスッと行ける自分になりたいです。
今の私の一番の課題です。】
* * * * *
= 2022年4月9日に掲載された。
平成23年3月初版『教育エッセイ・優しくなければ』の
第1章「芽生えの頃」の最初の項が原文である。
様々なことへの気づきの第一歩だったように思う。
それだけに、思い入れも大きい。
戦場と化した市街地の映像に、心を逆なでされる日々。
わずかでも潤いを求め、投稿を決めた。=
文化の香り
中学生の頃、楽曲の再生はレコードだけだった。
すでに多感な時期を迎えていた私は、音楽のT先生に密かに惹かれていた。
私だけではない。
多くの男子が同じ思いだった。
なので、それまではさほど好きでもなかった音楽の時間を、
どの子もやけに待ち遠しい時間に感じていた。
変声期と併せて楽器音痴だった私が、
打楽器ならと進んで手を挙げてみたり、思い出すと滑稽そのものだ。
そのT先生について忘れられないことがある。
音楽鑑賞の時間のことだ。
バッハだベートーベンだと言われても、どうでもいいことだったが、
先生を困らせてはいけないと、おとなしくしていた。
先生は、丁寧に作曲家や曲の解説をした後、
「では、これからレコードをかけますね」と、
おもむろにLPレコードをジャケットから取り出した。
そのレコードをそれはそれは大事そうに、
左手の手のひらをめいっぱい指までひろげて片手で持ち、
もう一方の手にスプレーを握り、
レコード盤に吹きかけるのだった。
そして、専用の赤い布ブラシでやさしく、
ゆっくりとレコード盤にそって拭いた。
先生の一連のその仕草を、私たちはいつも固唾を飲んで見入った。
私もその一つ一つをじっと見つめ、
レコード盤がプレーヤーに収まるまで見届けた。
先生はきっと雑音のない美しい澄んだ音色を聞かせようとそうしてくれたのだと思う。
しかし、そのスプレーがどれ程効果のあるものなのか、私にはどうでもよかった。
なのに、音楽鑑賞でのT先生の仕草に、
私はいつしか『文化という香り』を感じていた。
私には分からないが、音楽を聞き分けることができる先生にとって、
あのスプレーはすごく大切なこと。
そう思うと「T先生のその行動はまさに文化なんだ。文化ってそういうものなんだ」。
私は、何も分からない思春期の初めに、そうやって文化という言葉と出会った。
【 ◎ 何度読んでも感動。
声に出して読むにも、大好きな文体。
塚原先生の著作は、私の中の「声に出して読みたいエッセイ」ベストセラーで、
ロングセラーです。
◎ 昔のことをこんなにも鮮明に覚えていて、
瑞々しく描いている様子が、微笑ましい。
考えてみれば、「文化」とはなかなか曖昧で使い方が難しい言葉だな。
私が「文化」を強く実感したのは19歳かしら。
自分以外のある一定数の人が当たり前と感じているものに出くわすと、
文化の違いという言葉で自己処理をするのかな。】
春 ~リスも楽しげ~ 歴史の杜公園
現在13名になった。
土曜日の地元紙『室蘭民報』・文化欄に、
その中から1名の随筆が掲載される。
仲間に加えてもらって、もう3年になる。
これまでに、14ものエッセイを載せて頂いた。
それだけで嬉しいのに、その都度、様々な反響があり、
励みになっている。
最近作3点の紹介とその声(【◎ 】印)を記す。
* * * * *
= 2021年12月4日に掲載された。
本ブログ2016年7月に記した「私の保育所くらしから」の1部に筆を加えた。
ジングルベルが聞こえてくると、何故か思い出す光景だった。
その時季にあわせて投稿した。=
70年前のサンタクロース
クリスマス会なんて、前年までなかったのに、
急に遊戯室にクリスマスツリーが飾られた。
「トナカイがひくソリに乗って、明日サンタさんがやって来ます」。
先生は明るい声で言った。
それまで、クリスマスという言葉さえ知らなかった。
「遠い国から、真っ赤な服を着た白いヒゲのサンタクロースが、
大きな袋に沢山のプレゼントをつめてやってくるんだ」。
友だちが得意気に教えてくれた。
次の日、保育所の全員が遊戯室に集められた。
クリスマスの曲らしい音楽が流れ、
いつしか鈴の音と一緒に、サンタさんが現れた。
友だちが言った格好で重そうな袋を肩に、
ふらつきながら私たちのそばまで近づいた。
何やら不思議な言葉を遣った。
その言葉と真っ白な長いヒゲから、遠い遠い国の人だと思った。
私の心は普通でなくなった。
1人1人に分からない言葉で、プレゼントを渡してくれた。
嬉しかった。
わざわざ来てくれたんだと思うと、
さらに喜びが増した。サンタさんもクリスマスも大好きになった。
やがてサンタさんが帰り、会は終わった。
その後、全員で記念写真を撮ることになった。
用意されたひな壇にみんな座った。
私はたまたま最前列の端になった。
そして、私の横に椅子が一脚用意された。
いつの間にか、帰ったはずのサンタさんがそこに座った。
私は、混乱した。
そして、さらに混乱は続いた。
先生がサンタさんに小声で言った。
「今日は、ありがとうございます。子ども達、大喜びです」。
すると、サンタさんも私にも分かる言葉で、
「それはよかった。うまくいきましたね」。
その後も、2人の会話はしばらく続いた。
私は、ビックリして2人の顔を交互に見た。
そして、気づいた。
白いヒゲで覆われたサンタさんの顔に、見覚えがあった。
声も聞き覚えがあった。
よく行く「酒屋のおじさんだ!」。
急に胸の膨らみがしぼんだ。
「先生のウソつき!」。小さくつぶやいた。
【 ◎ シンプルさがいい。読者も最後はニッコリ笑っていそう。
70年前を思い出している、ということが、いいスパイスになっている。
◎ 懐かしい思い出をよく覚えていて、文章にする!
いつも感心させられています。
懐かしく、甘酸っぱい心持ちをいただきました。】
* * * * *
= 2022年2月5日に掲載された。
原文は、本ブログを開設してすぐの2014年8月に記した。
私にとっては大きな出来事だったが、読み手がどう受け止めるか不安で、
地元紙への投稿をためらっていた。
昨年11月の「あの子らの今は?」に再録した。
すると教職経験のない方からも、好評を得た。
それに押され、字数制限等の推敲を重ねた。=
9年目の涙
教職について9年目のとき、1年生担任になった。
その学級に自閉症のT君がいた。
T君は言葉が少なく、いつもジッと席にいた。
机にノートを広げてやると、勝手に電車の絵を描きはじめた。
「ダメだよ。お絵かきの時間じゃないよ。国語のお勉強ね」。
電車の絵を辞めさせようとすると、
突然大粒の涙をこぼし「お母さん、かえる。お母さん、かえる」と叫んだ。
この「お母さん、かえる」が始まると、私はもうお手上げだった。
仕方なく、いつもT君の家に電話をした。
幸い、学校の近くに住まいがあったので、
5分もかからずお母さんは駆けつけてくださった。
私はその5分間をただオロオロとしているだけで、
T君の「お母さん、かえる」を止めることができなかった。
T君に振り回される日が続いた。
そして、いつも「お母さん、かえる」の言葉を恐れた。
しかし、次第にT君の思いが分かるようになり、
少しずつ距離が縮まった。
それでも、時折T君の願いに気づけず
「お母さん、かえる」の大声と大粒の涙に見舞われた。
2年生でもT君を受け持った。
その頃になると、学級の子ども達ともT君はうち解けて過ごすことが多くなった。
その日の休み時間も、T君は学級のみんなと校庭にいた。
私は職員室で仕事に追われていた。
突然、外からT君の例の泣き叫ぶ声がした。
久しぶりの声に、体に力が入った。
ところが、「お母さん、かえる」のはずが、
「先生、かえる」に聞こえた。
「まさか!」と校庭に走り出た。
「お母さん、かえる」じゃない。
はっきりと「先生、かえる。先生、かえる」だった。
私はT君のそばに走りより、いつもお母さんがしたように、
T君のポケットから真っ白なハンカチを取り出し、
大粒の涙をふきながら、
「もう大丈夫だよ。もう大丈夫。先生がいるからね」。
そう言いながら、私はボロボロと涙をこぼした。
あの時、はじめて教職に魅せられた気がする。
【 ◎ 泣いてしまいました。
今こそ多様性を受け入れる時代になり、
いろんな人たちと関わることで自分を高められると思っています。
そう思っていても、自分との距離がある人との関わりは、
とても苦労し悩みます。
寄り添うことで、心が近づく体験をしていても、
なかなか本当の意味で距離を縮めることができず、
ジレンマを感じます。
この記事を読んで、本当に距離が縮まったんだなあと思い、
子どもが安心して過ごす場になったのかなと思いました。
多様性の社会で生きて生活するためには、
いろんな方のそばにスッと行ける自分になりたいです。
今の私の一番の課題です。】
* * * * *
= 2022年4月9日に掲載された。
平成23年3月初版『教育エッセイ・優しくなければ』の
第1章「芽生えの頃」の最初の項が原文である。
様々なことへの気づきの第一歩だったように思う。
それだけに、思い入れも大きい。
戦場と化した市街地の映像に、心を逆なでされる日々。
わずかでも潤いを求め、投稿を決めた。=
文化の香り
中学生の頃、楽曲の再生はレコードだけだった。
すでに多感な時期を迎えていた私は、音楽のT先生に密かに惹かれていた。
私だけではない。
多くの男子が同じ思いだった。
なので、それまではさほど好きでもなかった音楽の時間を、
どの子もやけに待ち遠しい時間に感じていた。
変声期と併せて楽器音痴だった私が、
打楽器ならと進んで手を挙げてみたり、思い出すと滑稽そのものだ。
そのT先生について忘れられないことがある。
音楽鑑賞の時間のことだ。
バッハだベートーベンだと言われても、どうでもいいことだったが、
先生を困らせてはいけないと、おとなしくしていた。
先生は、丁寧に作曲家や曲の解説をした後、
「では、これからレコードをかけますね」と、
おもむろにLPレコードをジャケットから取り出した。
そのレコードをそれはそれは大事そうに、
左手の手のひらをめいっぱい指までひろげて片手で持ち、
もう一方の手にスプレーを握り、
レコード盤に吹きかけるのだった。
そして、専用の赤い布ブラシでやさしく、
ゆっくりとレコード盤にそって拭いた。
先生の一連のその仕草を、私たちはいつも固唾を飲んで見入った。
私もその一つ一つをじっと見つめ、
レコード盤がプレーヤーに収まるまで見届けた。
先生はきっと雑音のない美しい澄んだ音色を聞かせようとそうしてくれたのだと思う。
しかし、そのスプレーがどれ程効果のあるものなのか、私にはどうでもよかった。
なのに、音楽鑑賞でのT先生の仕草に、
私はいつしか『文化という香り』を感じていた。
私には分からないが、音楽を聞き分けることができる先生にとって、
あのスプレーはすごく大切なこと。
そう思うと「T先生のその行動はまさに文化なんだ。文化ってそういうものなんだ」。
私は、何も分からない思春期の初めに、そうやって文化という言葉と出会った。
【 ◎ 何度読んでも感動。
声に出して読むにも、大好きな文体。
塚原先生の著作は、私の中の「声に出して読みたいエッセイ」ベストセラーで、
ロングセラーです。
◎ 昔のことをこんなにも鮮明に覚えていて、
瑞々しく描いている様子が、微笑ましい。
考えてみれば、「文化」とはなかなか曖昧で使い方が難しい言葉だな。
私が「文化」を強く実感したのは19歳かしら。
自分以外のある一定数の人が当たり前と感じているものに出くわすと、
文化の違いという言葉で自己処理をするのかな。】
春 ~リスも楽しげ~ 歴史の杜公園