① 1週間前のブログは、突然の膝痛について記した。
MRIの結果次第では手術もあり得ると思い、
以下のように、ブログを結んだ。
* * * *
今後はどんなことがあるのだろう。
MRIの結果は・・。医師の診断は・・。
手術になる・・。リハビリは・・・。
その全てを受け入れ、
再び、伊達の朝を5キロ、10キロと、
ランニングする日を目指そう。
どんな経験だって無駄じゃないと信じて・・。
* * * *
1週間前は、膝の痛みで深夜に目が覚めるほどだった。
痛みと炎症を緩和する薬を処方してもらい、それに頼った。
歩くと痛みがひどくなるので、家の中でも動かないようにした。
だからなのか。
今週に入り、変化が・・。
まずは、痛みで目覚めることがなくなった。
膝を伸ばしたままの着地なら、痛みが消えた。
階段の上り下りも、ゆっくりゆっくりできるように・・。
そして、MRIの結果と医師の診断を聞きに通院した日には、
病院の駐車場から歩行する姿が、1週間前とは別人のように。
まだ、飛んだり跳ねたりすると、膝裏に激痛が走ったが、
回復への手応えを感じていた。
期待と不安が交錯したまま、
予約した時間通りに、診察室へ招かれた。
医師は、MRIの画像と膝の関節模型を用意していた。
開口一番、医師は、
「半月板の一部が切れてますね」だった。
そして、模型を使って、その箇所と切れ目の大きさを示してくれた。
「矢っ張りか!」
落胆しながらも、尋ねた。
「ここ数日、だいぶ痛みがなくなってきました。
普通に歩けるようにも。
それでも、手術ですか?」。
さすがベテランの医師である。
「手術するかどうかは、よく考えてから決めて下さい」。
私の度重なる質問に、医師はそんな助言を繰り返した。
さて、医師の見立てを、私なりにまとめる。
* * * *
今回の半月板の亀裂は、ランニングによるケガというより、
長年使ってきたためのもののようだ。
だたし、ランニングによる損傷でなくても、
このままで走る続けるのは、無理。
これからも走りたいのなら、手術が必要。
この際、ライフスタイルをウオーキング程度に切り替えるなら、
今の膝の状態のままでも、大丈夫。
仮に、手術をして再び走れるようになっても、
半月板は長年使ってきているのだから、
同じように損傷することは十分あり得る。
そのことも考慮し、今後のライフスタイルをどうするのか。
少し時間をかけて考えて、
それから手術するか、しないかを、決めたらどうか。
* * * *
帰りに、病院の玄関に立つと、
有珠山と横に並ぶ昭和新山の全容が飛び込んできた。
大空を背景に、その勇姿を仰ぎながらの朝ランを思い出した。
アカゲラのドラミング、ヒバリのさえずり、白鳥の声が迎える朝。
畑に並ぶ凜とした野菜の苗、
そして収穫の風景を見ながらのランニング。
ゆっくりでもほてった体に季節の風を受け、
伊達の四季を走ってきた。
そんな素敵な10年に終止符を打つ時がきているのか・・。
ジワジワとこみ上げるものを感じた。
待て、易々とこの10年を切り捨てるなんて、
できやしないのじゃ!・・・。
どうやら、医師の言うとおりだ。
今は、時間をかけて考えるときだ・・・。
② 6月11日、地元紙の文芸欄に,私の15本目の随筆が掲載された。
今回も、以前にこのブログに記載したものに加筆した。
日常の一断面に過ぎないが、私なりの切り取り方をしようと、推敲を粘った。
一応、意欲作と胸張ってみたが、読み手の評価が気になった。
* * * *
2人だけの足どり
年齢なのだろう。
夜遅くまで、おきていられない。
10時を待たずに、布団に入る。
本を開いても、10分も持たずに寝入る。
だから、目覚めが早い。
一度、眠りから覚めると、「二度寝」などなかなかできない。
つい先日のこと、いつもよりさらに早い時間に目が覚めた。
カーテンの隙間が明るいのだ。
時間を確かめると、4時半を回ったばかり。
なのに、もう外には光がある。
その驚きが、さらにハッキリとした目覚めを誘った。
家内に気づかれないよう、そっと寝室を出る。
そして、2階の自室のカーテンを開いてみた。
その窓からは、緩い下りの『嘉右衛門坂通り』が見える。
すっかり雪が解け、道は乾いていた。
次第に明るさを増す空には、一片の雲もない。
この時季の当地の朝らしく風もなく、
穏やかな一日の始まりを告げているよう。
寝起き姿のまま、しばらく窓辺からその坂を見ていた。
すると、坂を下る2つの小さな後ろ姿が、視界に入ってきた。
この時間の外は、まだ冷えるのだろう。
2人とも、ニット帽に冬用の黒の上下服だった。
男性は、やや足を引きずり、
女性の腰は、少し前かがみになっていた。
何やら会話が弾んでいるよう。
足を1歩1歩進めながら、しばしば相手に顔を向け、
時には、笑みを浮かべているような、愉しげな背中だった。
私の視線など気づく訳もない。
早朝も早朝、人も車も通らない日の出前の坂道を、
2人だけの足どりがゆっくりとゆっくりと下って行った。
私の窓を独り占め、いや二人占めする映像に、
布施明の『マイウエイ』が流れてきた。
* * * *
今回も、知人・友人、親戚や家族から反応があった。
ややホッとしている。
1部を転記する。
◎ 誰もが知る由も無い時間帯の描写
見えた光景を好感を持っての表現
そして〆の例えマイウエイ
これは、明け方を歩んでいる二人なのか?
それとも、それを見守っている自分自身のことなのか!?
どちらとも!
余韻を残して、読者に語りかけている
◎ とてもロマンチックな記事に、
心が温かくなりました。
マイウエイが私の頭の中で奏でました。
いつも思います。
おじちゃんの記事を読むと、
頭の中でいろんなことを想像します。
2度読むと、今度は北海道の山の景色が見えたり、
文字の力は偉大です。
◎ 本当に些細なできごとがネタなだけに、
楽に書いたものを楽に読める印象。
と最初は感じたが、よく読んでみると、
いかにも文章の表現力がある人が、推敲を重ねてここに落ちついた、
っていうふうに見えてきた。
読み手がどちら派なのかで与える印象が違いそう。
③ 2階の自室でパソコンに向かっていると、
居間から声が飛んできた。
「大変、大変、K先生からのはがき!」。
家内の階段を駆け上がる音の後、
筆ペンで走り書きしたはがきを見た。
『お元気ですか。
悲しい知らせです。
S・Yさんが亡くなったとの報が入りました。
残念です。
塚原さんに電話しましたが、通じませんでした。
とりあえず葉書にてお知らせします』。
葉書には、K先生の電話番号の記載があった。
すぐに受話器を取った。
7月19日に、コーラスの練習中に倒れた。
くも膜下出血でそのまま亡くなったと言う。
S・Yさんは、1歳年上の校長先生で、
私より2年先に校長会長を努めた方だった。
退職後、早稲田大学オープンカレッジの『文章・エッセー教室』で学んでいた。
そして、2年前、「自粛が時間をくれました」と、
エッセイ集の『追想』を出版した。
秀作ぞろいに脱帽した。
その彼女が急逝・・・とは。 合 掌
竹やぶ ~ 北海道では珍しい
MRIの結果次第では手術もあり得ると思い、
以下のように、ブログを結んだ。
* * * *
今後はどんなことがあるのだろう。
MRIの結果は・・。医師の診断は・・。
手術になる・・。リハビリは・・・。
その全てを受け入れ、
再び、伊達の朝を5キロ、10キロと、
ランニングする日を目指そう。
どんな経験だって無駄じゃないと信じて・・。
* * * *
1週間前は、膝の痛みで深夜に目が覚めるほどだった。
痛みと炎症を緩和する薬を処方してもらい、それに頼った。
歩くと痛みがひどくなるので、家の中でも動かないようにした。
だからなのか。
今週に入り、変化が・・。
まずは、痛みで目覚めることがなくなった。
膝を伸ばしたままの着地なら、痛みが消えた。
階段の上り下りも、ゆっくりゆっくりできるように・・。
そして、MRIの結果と医師の診断を聞きに通院した日には、
病院の駐車場から歩行する姿が、1週間前とは別人のように。
まだ、飛んだり跳ねたりすると、膝裏に激痛が走ったが、
回復への手応えを感じていた。
期待と不安が交錯したまま、
予約した時間通りに、診察室へ招かれた。
医師は、MRIの画像と膝の関節模型を用意していた。
開口一番、医師は、
「半月板の一部が切れてますね」だった。
そして、模型を使って、その箇所と切れ目の大きさを示してくれた。
「矢っ張りか!」
落胆しながらも、尋ねた。
「ここ数日、だいぶ痛みがなくなってきました。
普通に歩けるようにも。
それでも、手術ですか?」。
さすがベテランの医師である。
「手術するかどうかは、よく考えてから決めて下さい」。
私の度重なる質問に、医師はそんな助言を繰り返した。
さて、医師の見立てを、私なりにまとめる。
* * * *
今回の半月板の亀裂は、ランニングによるケガというより、
長年使ってきたためのもののようだ。
だたし、ランニングによる損傷でなくても、
このままで走る続けるのは、無理。
これからも走りたいのなら、手術が必要。
この際、ライフスタイルをウオーキング程度に切り替えるなら、
今の膝の状態のままでも、大丈夫。
仮に、手術をして再び走れるようになっても、
半月板は長年使ってきているのだから、
同じように損傷することは十分あり得る。
そのことも考慮し、今後のライフスタイルをどうするのか。
少し時間をかけて考えて、
それから手術するか、しないかを、決めたらどうか。
* * * *
帰りに、病院の玄関に立つと、
有珠山と横に並ぶ昭和新山の全容が飛び込んできた。
大空を背景に、その勇姿を仰ぎながらの朝ランを思い出した。
アカゲラのドラミング、ヒバリのさえずり、白鳥の声が迎える朝。
畑に並ぶ凜とした野菜の苗、
そして収穫の風景を見ながらのランニング。
ゆっくりでもほてった体に季節の風を受け、
伊達の四季を走ってきた。
そんな素敵な10年に終止符を打つ時がきているのか・・。
ジワジワとこみ上げるものを感じた。
待て、易々とこの10年を切り捨てるなんて、
できやしないのじゃ!・・・。
どうやら、医師の言うとおりだ。
今は、時間をかけて考えるときだ・・・。
② 6月11日、地元紙の文芸欄に,私の15本目の随筆が掲載された。
今回も、以前にこのブログに記載したものに加筆した。
日常の一断面に過ぎないが、私なりの切り取り方をしようと、推敲を粘った。
一応、意欲作と胸張ってみたが、読み手の評価が気になった。
* * * *
2人だけの足どり
年齢なのだろう。
夜遅くまで、おきていられない。
10時を待たずに、布団に入る。
本を開いても、10分も持たずに寝入る。
だから、目覚めが早い。
一度、眠りから覚めると、「二度寝」などなかなかできない。
つい先日のこと、いつもよりさらに早い時間に目が覚めた。
カーテンの隙間が明るいのだ。
時間を確かめると、4時半を回ったばかり。
なのに、もう外には光がある。
その驚きが、さらにハッキリとした目覚めを誘った。
家内に気づかれないよう、そっと寝室を出る。
そして、2階の自室のカーテンを開いてみた。
その窓からは、緩い下りの『嘉右衛門坂通り』が見える。
すっかり雪が解け、道は乾いていた。
次第に明るさを増す空には、一片の雲もない。
この時季の当地の朝らしく風もなく、
穏やかな一日の始まりを告げているよう。
寝起き姿のまま、しばらく窓辺からその坂を見ていた。
すると、坂を下る2つの小さな後ろ姿が、視界に入ってきた。
この時間の外は、まだ冷えるのだろう。
2人とも、ニット帽に冬用の黒の上下服だった。
男性は、やや足を引きずり、
女性の腰は、少し前かがみになっていた。
何やら会話が弾んでいるよう。
足を1歩1歩進めながら、しばしば相手に顔を向け、
時には、笑みを浮かべているような、愉しげな背中だった。
私の視線など気づく訳もない。
早朝も早朝、人も車も通らない日の出前の坂道を、
2人だけの足どりがゆっくりとゆっくりと下って行った。
私の窓を独り占め、いや二人占めする映像に、
布施明の『マイウエイ』が流れてきた。
* * * *
今回も、知人・友人、親戚や家族から反応があった。
ややホッとしている。
1部を転記する。
◎ 誰もが知る由も無い時間帯の描写
見えた光景を好感を持っての表現
そして〆の例えマイウエイ
これは、明け方を歩んでいる二人なのか?
それとも、それを見守っている自分自身のことなのか!?
どちらとも!
余韻を残して、読者に語りかけている
◎ とてもロマンチックな記事に、
心が温かくなりました。
マイウエイが私の頭の中で奏でました。
いつも思います。
おじちゃんの記事を読むと、
頭の中でいろんなことを想像します。
2度読むと、今度は北海道の山の景色が見えたり、
文字の力は偉大です。
◎ 本当に些細なできごとがネタなだけに、
楽に書いたものを楽に読める印象。
と最初は感じたが、よく読んでみると、
いかにも文章の表現力がある人が、推敲を重ねてここに落ちついた、
っていうふうに見えてきた。
読み手がどちら派なのかで与える印象が違いそう。
③ 2階の自室でパソコンに向かっていると、
居間から声が飛んできた。
「大変、大変、K先生からのはがき!」。
家内の階段を駆け上がる音の後、
筆ペンで走り書きしたはがきを見た。
『お元気ですか。
悲しい知らせです。
S・Yさんが亡くなったとの報が入りました。
残念です。
塚原さんに電話しましたが、通じませんでした。
とりあえず葉書にてお知らせします』。
葉書には、K先生の電話番号の記載があった。
すぐに受話器を取った。
7月19日に、コーラスの練習中に倒れた。
くも膜下出血でそのまま亡くなったと言う。
S・Yさんは、1歳年上の校長先生で、
私より2年先に校長会長を努めた方だった。
退職後、早稲田大学オープンカレッジの『文章・エッセー教室』で学んでいた。
そして、2年前、「自粛が時間をくれました」と、
エッセイ集の『追想』を出版した。
秀作ぞろいに脱帽した。
その彼女が急逝・・・とは。 合 掌
竹やぶ ~ 北海道では珍しい