▼ 移住して10年が過ぎた。
転居当初、「この先、必要になることもあるだろう」と、
しまい込んだ物が、物置にいろいろとある。
確かに、その中から取りだして使った物もあるが、
多くは引っ越しからずっと、同じ場所に置かれたまま・・。
そこで、もう不用品として処分しようと重い腰をあげた。
その中に、釣り道具があった。
竿が3本、リールが3個、クーラーボックス1個、
それに蓋付きの箱に、重り、各種釣り針、サビキ網、
ハサミやら小道具やらがギッシリ。
どれも、使ったまま錆とほこりで古ぼけていた。
それらを、燃えるゴミと燃えないゴミに分別しながら、
しばらくの間、釣りにまつわる思い出に浸っていた。
▼ もうかれこれ40年も前になるが、
1984年の年賀状に、こんな詩を載せた。
テトラポットの上に
テトラポットの上に
家族4人
もうお兄ちゃんは
鰯を5ひきも釣り上げた
得意気な顔をして
またリールを巻き上げている
その横で
「また きたか」と
声をかけながら
少しあせり顔のパパ
まだ 2ひきしか
ぼくは そのそばで
コマセあみにスプーンで
エサ係
手に魚の臭いが
こびりついても平気さ
あっ また お兄ちゃんの
さおが ひいているよ
今度はくじらかな
ぼくたちの後ろで
ママはさっきから
「危ないよ」
「おちないで」
ばっかり
長男が小3、次男が保育所の年長だった。
好天の秋、休日の昼下がりに、
車と徒歩で15分程のヨットハーバーで、
釣りを楽しんだ。
詩は、そのワンカット。
その年だけ、釣りが私の『マイブーム』だった。
1週間前に同じヨットハーバーの堤防で、1人、釣り糸を垂れた。
すぐから、カタクチイワシが一度に何匹もかかった。
夢中になり、歓喜した。
その興奮が忘れられず、3人を誘った。
まずまずの釣果があり、楽しい家族の時間になった
しかし、釣りはそんな日ばかりではない。
2時間待っても3時間待っても、
一匹も釣れない。
そんなことが、2度3度と続いた。
すると、どんなに誘っても3人は「行かない」と口をそろえた。
徐々に、私の『マイブーム』も冷めていった。
▼ 毎年、夏休みには家族で北海道に帰省した。
その年は、家内の実家に3日ほど滞在した。
初日、義父の案内でニジマスの釣り堀へ行った。
2人の息子は、次々と竿にかかる魚に、大喜びたっだ。
その夜、夕食を囲みながら、
「渓流釣りがしてみたい」と思いつきで言った。
すかさず、義父が「じゃ、明日行くか?」。
それまで義父が、渓流釣りをするなんて知らなかった。
2つ返事で、明朝の日の出前に2人で行くことになった。
義父は、慌ただしく準備をしてくれた。
まだ真っ暗な時間に、義父の運転する車に乗り込んだ。
どこに向かっているのか、詳しい説明を聞けないまま、
運転席にいた。
ざっと2時間は、乗っていたと思う。
運転席でウトウトしていると、川の水音で目が覚めた。
すっかり夜は明け、快晴の空だった。
義父は、止めた車のトランクを開け、準備を始めていた。
急いで外に出ると、
太ももまでの長靴に履き替えるように言われた。
その後、麦わら帽子をかぶり、
腰に魚籠とエサの入った道具箱をさげた。
「いくぞ。渉君」。
竿を持った義父は、小さな橋のたもとから、
流れの早い川の渕へ。
私も、義父を真似、竿を肩にかけ、後に続いた。
2メートルほどの川幅だが、浅瀬でも流れは急だった。
それに逆らって上流へ進んだ。
「この辺りから釣れると思う」。
エサのつけ方、投げ入れ方の手ほどきを受けた。
そして、釣れそうな川のポイントも教えてもらった。
立った位置より上流に、釣り糸を投げ入れ、
流されるまま竿を下流へと動かす。
それを繰り返した。
同じ場所で、何回か試して引きがないと、
上流へと釣り場を変えた。
義父は、あきらめが早かった。
引きがないと、どんどん上流へ移動した。
やがて、義父の竿先が動いた。
勢いよく上げた釣り糸の先で、ヤマメが跳ねていた。
続けて数匹が義父の竿にかかった。
「渉君、流れが静かなあそこを狙え!」。
義父の指さす方へ、竿を向け釣り糸を投げた。
瞬時だった
握っていた竿が小刻みに振動した。
凄い引きがきた。
教えてもたったように、勢いよく竿を上げた。
糸の先で、ヤマメが跳ねて、青空に舞った。
とっさだったが、こんな言葉で喜んだのは、
後にも先にもその時だけだ。
私は、ヤマメの跳ねる竿を片手に、
川音にも負けない声で2回叫んだ。
なんと、「ブラボー!」「ブラボー!」だ。
その後、その声に驚いたのか、
2人の竿には全く引きがなくなった。
だから、義父は再びどんどんどんどん上流へ。
そこで、初めて狭い川原にある小さな立て札に気づいた。
黒い太字でこう記されていた。
『クマ出没注意 営林署』。
目に止まらないのか、構わず上流へ行く義父。
進む先々に同じ立て札があった。
たまりかねて、「父さん、ここにもこんな立て札が・・」。
指さして私は立ち止まった。
「気にすんな!」。
義父はサラッと言うと、それまで以上の速さで川を上り、
釣り糸を垂れた。
その後、私の竿にも強い引きがたびたびあった。
腰の魚籠も重くなった。
でも、「ブラボー」なんて、2度と言えなかった。
立て札が恐かった。
早く帰路に着きたくて、それだけを願っていた。
渓流釣りは、その1回で懲りた。
確かに「ブラボー」と叫ぶほどだったが・・。
▼ 5年を担任した学級に、釣り好きな子が数人いた。
その子らの提案で、翌年、釣りクラブができた。
月に3回、火曜日の6時間目のクラブ活動の時間に、
5,6年生の男子約20名が釣り道具を持って集まった。
たまたま私が、そのクラブの担当になった。
クラブの活動は、学校から歩いて5分程度の土手から、
川に釣り糸を垂れ、魚がかかるのをひたすら待つだけだった。
釣りが好きな子ばかりが集まっていた。
じっと竿の先を見て、わずか30分程度の釣り時間を過ごした。
釣れなくでも満足なのか、時間が過ぎると、
釣り道具をきちんとしまい、学校に戻った。
近所に釣具屋があった。
火曜日の朝、何人かがそこで釣りエサを買った。
それで、釣りクラブを知った店主が、
いつからか、無料でエサをくれるようになり、
釣り好きの子を励ました。
ある日、どの子の竿にも次々とフッコがかかった。
土手は、活気づいた。
多い子は、30分の釣り時間に4匹もつり上げた。
いつも口数が少ない子らなのに、
その日は、学校までの道々、下校途中の子を呼び止めては、
釣れた魚を見せた。
そして、釣具屋の前まで来ると、
勢いよく店の戸を開け、
店主に次々と釣った魚を見せた。
「よかったネ。よかったネ」。
店主の明るい顔の横で、
私は何度も何度も頭を下げていた。
それは1回だけ。
再び、釣果のないクラブ活動に。
でも、翌年も釣りクラブに入部者があり、存続した。
白 鳥 飛 来
転居当初、「この先、必要になることもあるだろう」と、
しまい込んだ物が、物置にいろいろとある。
確かに、その中から取りだして使った物もあるが、
多くは引っ越しからずっと、同じ場所に置かれたまま・・。
そこで、もう不用品として処分しようと重い腰をあげた。
その中に、釣り道具があった。
竿が3本、リールが3個、クーラーボックス1個、
それに蓋付きの箱に、重り、各種釣り針、サビキ網、
ハサミやら小道具やらがギッシリ。
どれも、使ったまま錆とほこりで古ぼけていた。
それらを、燃えるゴミと燃えないゴミに分別しながら、
しばらくの間、釣りにまつわる思い出に浸っていた。
▼ もうかれこれ40年も前になるが、
1984年の年賀状に、こんな詩を載せた。
テトラポットの上に
テトラポットの上に
家族4人
もうお兄ちゃんは
鰯を5ひきも釣り上げた
得意気な顔をして
またリールを巻き上げている
その横で
「また きたか」と
声をかけながら
少しあせり顔のパパ
まだ 2ひきしか
ぼくは そのそばで
コマセあみにスプーンで
エサ係
手に魚の臭いが
こびりついても平気さ
あっ また お兄ちゃんの
さおが ひいているよ
今度はくじらかな
ぼくたちの後ろで
ママはさっきから
「危ないよ」
「おちないで」
ばっかり
長男が小3、次男が保育所の年長だった。
好天の秋、休日の昼下がりに、
車と徒歩で15分程のヨットハーバーで、
釣りを楽しんだ。
詩は、そのワンカット。
その年だけ、釣りが私の『マイブーム』だった。
1週間前に同じヨットハーバーの堤防で、1人、釣り糸を垂れた。
すぐから、カタクチイワシが一度に何匹もかかった。
夢中になり、歓喜した。
その興奮が忘れられず、3人を誘った。
まずまずの釣果があり、楽しい家族の時間になった
しかし、釣りはそんな日ばかりではない。
2時間待っても3時間待っても、
一匹も釣れない。
そんなことが、2度3度と続いた。
すると、どんなに誘っても3人は「行かない」と口をそろえた。
徐々に、私の『マイブーム』も冷めていった。
▼ 毎年、夏休みには家族で北海道に帰省した。
その年は、家内の実家に3日ほど滞在した。
初日、義父の案内でニジマスの釣り堀へ行った。
2人の息子は、次々と竿にかかる魚に、大喜びたっだ。
その夜、夕食を囲みながら、
「渓流釣りがしてみたい」と思いつきで言った。
すかさず、義父が「じゃ、明日行くか?」。
それまで義父が、渓流釣りをするなんて知らなかった。
2つ返事で、明朝の日の出前に2人で行くことになった。
義父は、慌ただしく準備をしてくれた。
まだ真っ暗な時間に、義父の運転する車に乗り込んだ。
どこに向かっているのか、詳しい説明を聞けないまま、
運転席にいた。
ざっと2時間は、乗っていたと思う。
運転席でウトウトしていると、川の水音で目が覚めた。
すっかり夜は明け、快晴の空だった。
義父は、止めた車のトランクを開け、準備を始めていた。
急いで外に出ると、
太ももまでの長靴に履き替えるように言われた。
その後、麦わら帽子をかぶり、
腰に魚籠とエサの入った道具箱をさげた。
「いくぞ。渉君」。
竿を持った義父は、小さな橋のたもとから、
流れの早い川の渕へ。
私も、義父を真似、竿を肩にかけ、後に続いた。
2メートルほどの川幅だが、浅瀬でも流れは急だった。
それに逆らって上流へ進んだ。
「この辺りから釣れると思う」。
エサのつけ方、投げ入れ方の手ほどきを受けた。
そして、釣れそうな川のポイントも教えてもらった。
立った位置より上流に、釣り糸を投げ入れ、
流されるまま竿を下流へと動かす。
それを繰り返した。
同じ場所で、何回か試して引きがないと、
上流へと釣り場を変えた。
義父は、あきらめが早かった。
引きがないと、どんどん上流へ移動した。
やがて、義父の竿先が動いた。
勢いよく上げた釣り糸の先で、ヤマメが跳ねていた。
続けて数匹が義父の竿にかかった。
「渉君、流れが静かなあそこを狙え!」。
義父の指さす方へ、竿を向け釣り糸を投げた。
瞬時だった
握っていた竿が小刻みに振動した。
凄い引きがきた。
教えてもたったように、勢いよく竿を上げた。
糸の先で、ヤマメが跳ねて、青空に舞った。
とっさだったが、こんな言葉で喜んだのは、
後にも先にもその時だけだ。
私は、ヤマメの跳ねる竿を片手に、
川音にも負けない声で2回叫んだ。
なんと、「ブラボー!」「ブラボー!」だ。
その後、その声に驚いたのか、
2人の竿には全く引きがなくなった。
だから、義父は再びどんどんどんどん上流へ。
そこで、初めて狭い川原にある小さな立て札に気づいた。
黒い太字でこう記されていた。
『クマ出没注意 営林署』。
目に止まらないのか、構わず上流へ行く義父。
進む先々に同じ立て札があった。
たまりかねて、「父さん、ここにもこんな立て札が・・」。
指さして私は立ち止まった。
「気にすんな!」。
義父はサラッと言うと、それまで以上の速さで川を上り、
釣り糸を垂れた。
その後、私の竿にも強い引きがたびたびあった。
腰の魚籠も重くなった。
でも、「ブラボー」なんて、2度と言えなかった。
立て札が恐かった。
早く帰路に着きたくて、それだけを願っていた。
渓流釣りは、その1回で懲りた。
確かに「ブラボー」と叫ぶほどだったが・・。
▼ 5年を担任した学級に、釣り好きな子が数人いた。
その子らの提案で、翌年、釣りクラブができた。
月に3回、火曜日の6時間目のクラブ活動の時間に、
5,6年生の男子約20名が釣り道具を持って集まった。
たまたま私が、そのクラブの担当になった。
クラブの活動は、学校から歩いて5分程度の土手から、
川に釣り糸を垂れ、魚がかかるのをひたすら待つだけだった。
釣りが好きな子ばかりが集まっていた。
じっと竿の先を見て、わずか30分程度の釣り時間を過ごした。
釣れなくでも満足なのか、時間が過ぎると、
釣り道具をきちんとしまい、学校に戻った。
近所に釣具屋があった。
火曜日の朝、何人かがそこで釣りエサを買った。
それで、釣りクラブを知った店主が、
いつからか、無料でエサをくれるようになり、
釣り好きの子を励ました。
ある日、どの子の竿にも次々とフッコがかかった。
土手は、活気づいた。
多い子は、30分の釣り時間に4匹もつり上げた。
いつも口数が少ない子らなのに、
その日は、学校までの道々、下校途中の子を呼び止めては、
釣れた魚を見せた。
そして、釣具屋の前まで来ると、
勢いよく店の戸を開け、
店主に次々と釣った魚を見せた。
「よかったネ。よかったネ」。
店主の明るい顔の横で、
私は何度も何度も頭を下げていた。
それは1回だけ。
再び、釣果のないクラブ活動に。
でも、翌年も釣りクラブに入部者があり、存続した。
白 鳥 飛 来