徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

九郎助稲荷(くろすけいなり)と檜垣(ひがき)

2025-02-03 18:38:32 | 歴史
 大河ドラマ「べらぼう」の物語の舞台は吉原遊郭。苦界に身を沈めた遊女たちにとって心の拠りどころとなっていたのが、廓内にあった四つの神社、九郎助稲荷、開運稲荷、榎本稲荷、明石稲荷だったといわれる。明治維新後、これらの神社は合祀され現在は吉原神社となっている。とりわけ崇敬を集めていたのが九郎助稲荷だったそうだ。「べらぼう」には九郎助稲荷の神使であるおキツネ様の化身として花魁姿の綾瀬はるかが登場する。彼女はナレーションも担当しているので「狂言回し」的な役がらなのだろう。

 一方、熊本では、明治前期から昭和中期にかけて存在した二本木遊郭で遊女たちの心の拠りどころとなっていたのは平安時代の閨秀歌人・檜垣であった。檜垣が白川のほとりに結んだ草庵が寺歴の始まりという蓮台寺(熊本市西区蓮台寺2)には、檜垣の墓石とも伝えられる「檜垣の塔」がある。
この塔は室町時代にはすでに著名であったという。この塔のまわりを取り囲む玉垣の寄進者名が塔の門柱に刻まれている。この玉垣は昭和10年に熊本市の水前寺北郊で開催された「新興熊本大博覧会」の際に造られたものらしい。そしてその寄進者名には二本木遊郭の妓楼名がずらりと並んでいる。なぜ、二本木遊郭がこぞって寄進したかというと、檜垣が遊女たちの守り神として崇敬されていたからである。歌人として知られる檜垣は若い頃、都の白拍子(しらびょうし)だったと伝えられる(諸説あり)。白拍子というのは高貴な人たちを相手に歌舞を行なう遊女だったといわれる。二本木遊郭の遊女たちは、ほど近い蓮台寺に祀られた檜垣を心の拠りどころとして生きていたのである。
※立て膝姿の檜垣像(蓮台寺所蔵)

節分

2025-02-02 17:00:11 | 季節
 今日は節分。加藤神社の節分祭が行われ、恒例の虎口をくぐって厄除けを行なう「厄除け虎くぐり」を行なった。その後、本殿に参拝し家族の息災を祈ったあと福豆をいただいた。虎口は年々くぐるのが窮屈になってきているが、体の柔軟性が徐々に失われていることが如実に現れる。
 その後、護国神社にまわって梅園の紅梅を見に行ったのだが、未だ開花は見られない。今年の開花の遅れは特別なようだ。「熊本城マラソン2025」が行われる16日あたりには何とか見ごろになってほしいものだ。


厄除けの虎口をくぐる参拝者たち


開花にはもう数日かかるか、護国神社梅園の紅梅

オフィーリア

2025-02-01 21:36:00 | 文芸
 昨日、マリアンヌ・フェイスフルさんの訃報のことを書きながら、かつて彼女がトニー・リチャードソン監督の映画「ハムレット」でオフィーリアを演じたことをふと思い出した。
 その数日前、NHK-Eテレで妙なミュージックビデオを見た。「オフィーリア、まだまだ」というタイトルで、NHKの紹介記事にはこう書かれている。

--シェークスピアの戯曲の一場面を描いた「オフィーリア」(ミレイ画)。川に流され溺死を待つばかりの主人公が「背泳ぎは得意」と思い出して力強く泳ぎ出す様子を想像して曲を作った。「♪まだまだ溺れちゃいられないのよ」という歌詞は、ブルーな気持ちになっているすべての人に贈る応援歌!--

   ※絵をクリックするとYouTubeの映像が再生されます。

 そういえば随分前、ミレーの「オフィーリア」を図鑑か何かで見た時、僕自身がかつて水泳選手だったせいか、オフィーリアは泳げないのだろうかと思った記憶がある。同じ発想の人がいるんだと思うと可笑しくなった。
 ところが、夏目漱石の「草枕」の中に次のような一節がある。

--長良の乙女が振袖を着て、青馬に乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る。女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ上って、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう。救ってやろうと思って、長い竿を持って、向島を追懸けて行く。女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末も知らず流れを下る。余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。--

 夢の中の話ということにはなっているが、漱石は今から120年も前に既に同じような発想をしていることにあらためて驚く。


ミレーの「オフィーリア」


山本丘人「草枕絵巻」より「水の上のオフェリア(美しき屍)」

英国女性ポップス歌手華やかなりし時代

2025-01-31 11:35:07 | 音楽芸能
 今日、ネットニュースで英国の女性ポップス歌手マリアンヌ・フェイスフルさんの訃報を見た。僕と同年齢で学生時代のアイドルのひとりでもあった。波乱の多い人生だったようだ。60年代の前半、英国ではビートルズを始めとするリバプールサウンドが台頭してきた頃だが、女性ポップス歌手も多士済々だった。中でもよく聴いていたのが、マリアンヌ・フェイスフル、ダスティ・スプリングフィールド、ペトゥラ・クラークの3人だ。ダスティ・スプリングフィールドさんはだいぶ前に亡くなったので、ご健在はペトゥラ・クラークさんだけだが、ご高齢で隠遁生活のようだ。わが青春の思い出を彩る女性ポップス歌手の時代も遠い昔のこととなり寂しい限りである。

 今日は3人の代表曲を聴きながら学生時代の思い出に浸った。

リアンヌ・フェイスフル「涙あふれて(As Tears Go By) 」(1964年)

スティ・スプリングフィールド「二人だけのデート(I Only Want to Be with You)」 (1963年)

トゥラ・クラーク「恋のダウンタウン(Downtown)」(1964年)

自力本願・他力本願

2025-01-30 17:02:00 | 日本文化
 毎月、父の月命日にはわが家の檀那寺からご住職にお経をあげに来ていただいています。
 わが家は先祖代々、浄土真宗ですが、ある時、ご住職に前から抱いていた疑問を質したことがあります。それは「浄土真宗ではなぜ、般若心経を唱えられないのか」ということです。それに対しご住職は「大乗仏教」から説明を始められましたが、正直よくわかりませんでした。
 その後、各種文献などで調べたところ、どうやら「自力本願」、「他力本願」がキーワードらしいということが分かりました。一般的に使われる「自力本願」、「他力本願」の意味とは異なり、次のような意味があるようです。

● 自力本願
 自ら修行によって悟りを開くことを求める宗派、真言宗や曹洞宗などでは「般若心経」を唱えます。
これに対し
● 他力本願
 浄土真宗などでは他力すなわち、仏の力、阿弥陀仏の本願によって救済され、極楽往生を得ることを
 求めるという考え方で「南無阿弥陀仏」を唱えます。

 今日はそれぞれの宗教観がベースとなった曲を聞いてみました。

▼琵琶経 ~3.11後の供養曲~
 次の曲は薩摩琵琶奏者・北原香菜子さんが演奏する「琵琶経 ~3.11後の供養曲~」で「般若心経」をモチーフとした曲です。
 なお、北原さんは「第12回くまもと全国邦楽コンクール」(平成18年)において最優秀賞に選ばれた演奏家です。


▼平泉讃歌
 平成29年3月、仙台市で行われた「東日本大震災七回忌追善公演」において舞踊団花童が披露した「平泉讃歌」は、奥州平泉で非業の最期を遂げた源義経の魂が高館の杜を彷徨っていると、どこからか迦陵頻伽の妙なる歌声が聞こえて来て、やがてひとすじの希望の光が差し、阿弥陀如来が来迎、義経の魂はお浄土へと導かれるという、義経の物語に仮託しながら東日本大震災のすべての犠牲者を供養する想いが込められています。作詞者のおのりくさんは平成26年に38歳の若さで夭逝されました。


「芸どころ熊本」とあやこ姐さん

2025-01-28 21:40:24 | 音楽芸能
 このところ眼科や胃腸科など、新町・古町の病院へ行くことが多くなり、必ず新町の福田病院あたりを通る。現在、福田病院の寿心亭があるところは、かつて老舗料亭・新茶屋があった。通る度に昔の趣のある風景を思い出す。
 僕が初めて料亭と名のつく場所に行ったのは、もう50数年も前の大学を出たばかりの頃。父がまだ教員現役で、同勤の先生たちとの宴に連れて行ってもらった。どういう趣旨の宴だったのか思い出せない。熊本に帰って間もなかったので行った料亭もどこだったのか憶えていない。ただ、父があやこ姐さんという芸妓さんを呼んだことだけは憶えている。どうも学校関係の宴会にはあやこ姐さんを呼ぶのがお決まりになっていたようだ。僕があやこ姐さんにお会いしたのは、後にも先にもその時だけで、どんな芸を披露されたのかも憶えていない。後に「熊本最後の芸妓 あやこ姐さん」としてテレビで紹介されたり、上村元三さんがFacebookで紹介されたのを拝見して、有名な方なんだと認識した次第である。ご健在であれば90歳を超えておられるはずだが、あやこ姐さんしか踊れない踊りがあるという話も聞いたことがあり、かつて料亭文化華やかなりし頃の「芸どころ熊本」の至芸を、若い人たちに受け継いでいってもらいたいものである。


かつての料亭・新茶屋(現福田病院内・寿心亭)前を芸妓さんを乗せて走る厚生車(輪タク)

   ▼あやこ姐さんも踊ったであろう「五十四万石」

吉原遊郭と音楽

2025-01-27 22:38:19 | 音楽芸能
 大河ドラマ「べらぼう」は4回まで放送されたが、音楽文化の発信基地でもあった吉原遊郭の中にいまだそれらしいシーンが見られない。このドラマの音楽は「麒麟がくる」も担当したアメリカの作曲家ジョン・グラムが担当している。しかし、彼はドラマの本筋を彩る音楽を担当しており、歌舞伎の下座音楽に当たる部分は日本人が受け持つと思われる。スタッフの中に「芸能指導」として薩摩琵琶演奏家の友吉鶴心氏がクレジットされているが、吉原遊郭の音楽を主に担っていたのは三味線。今後、吉原遊郭の三味線音楽が見られるだろうか。

 江戸末期、吉原固有の唄だった「さわぎ唄」。正式名「吉原さわぎ」は、他所の遊里などで唄う場合は吉原の許可を必要としたという。各地に広まっていくと遊里や酒宴の席などで、座を盛り上げるために三味線や太鼓に合わせてにぎやかに唄われた。吉原でも当初は音曲のみ、しかも太鼓のみで歌う短い曲だったそうだが、その後三味線が加わり、さらに振りを付けて、踊るようになったので曲が長くなったそうだ。歌舞伎の下座音楽としても、揚屋・茶屋などの場面で、酒宴・遊興の騒ぎを表現するために使われるようになったという。

 下の絵は江戸前期の浮世絵師・菱川師宣が描いた、吉原遊廓での人々の生活風俗を題材にした揃い物のなかの一枚。座敷では三味線二挺と鼓が演奏し、遊女が踊っている。「さわぎ唄」でも唄って座を盛り上げているのかもしれない。


 「さわぎ唄」は各地の遊里に広まり、その土地土地でアレンジを加えながら唄い継がれた。下の映像は平成時代に作られた「熊本さわぎ唄」。おそらく数多のさわぎ唄の中で最も新しいと思われる。
 作詞:小川芳宏 作曲:今藤珠美 作調:藤舎千穂


 下の絵は葛飾北斎の娘、葛飾応為の代表作「吉原格子先之図」※「素見=冷やかし」が集まる


 その「吉原格子先」いわゆる「張見世」の様子を唄った「長唄 吉原雀」は江戸中期の明和五年(1768)に作られたもの。

福参(ふくまいり)と和楽

2025-01-26 19:54:33 | 季節
 2月6日に斎行される「熊本城稲荷神社初午大祭」を前に、今日1月26日は恒例の「福迎え御神幸行列」が斎行された。献弊式に続き、宮司や今年の福男と福娘たちが「発輦(はつれん)!」の掛声も高らかに神社を出発、熊本市の中心街を練り歩き、商店を巡りながら「福拍子」で気勢を上げ、商売繁盛を祈願した。


熊本城稲荷神社から「福迎え御神幸行列」のご発輦


 「福迎え御神幸行列」のご発輦を見送った後、熊本市民会館へ移動し、筝演奏家の小路永和奈さんからご案内を受けていた「人づくり基金コンサートvol.6」を見に行く。小路永さんはお母様のこずえ様や自ら主宰のお箏教室の生徒さんたち、それに普段から交流のある演奏家の皆さんとのセッションで計6曲を演奏された。完成度の高い素晴らしい演奏会だったと思う。



演奏仲間とともに

草枕と民謡「田原坂」

2025-01-25 20:01:31 | 文芸
 僕の愛読書は夏目漱石の「草枕」と言っていいだろう。と言っても何度読んでもよくわからないところが多いので読み直す回数が多いと言った方が正しいかもしれない。それはともかく、「草枕」の魅力の一つは随所に長唄や民謡や謡曲などが散りばめられていることがあげられる。第二章にこんな一節がある。

--やがて長閑な馬子唄が、春に更けた空山一路の夢を破る。憐れの底に気楽な響がこもって、どう考えても画にかいた声だ。
   馬子唄の鈴鹿越ゆるや春の雨
と、今度は斜に書きつけたが、書いて見て、これは自分の句でないと気がついた。--

 この句自体はどうやら正岡子規の句をもじったものらしいが、「鈴鹿馬子唄」が聞こえてきた情景を描いている。ただ、馬子が本当に唄っていたのかどうかはわからない。第七章の「那古井の宿」の浴場で、子供の頃、酒屋の娘が「旅の衣は篠懸の…」と長唄「勧進帳」のお浚いをしていたことを回想する場面があるが、それと同じように「鈴鹿馬子唄」も過去の出来事の回想だったのかもしれない。歴史研究家で作家であり、漱石の孫娘婿でもあった半藤一利氏(2021年没)が「草枕は一種のファンタジー」とおっしゃるのも頷ける。

 ところで、熊本民謡「田原坂」は「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂」という歌詞から、「鈴鹿馬子唄」の「坂は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山雨がふる」や「箱根馬子唄」の「箱根八里は 馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」という歌詞との類似性が指摘されることがある。「鈴鹿馬子唄」と「箱根馬子唄」ともに江戸時代から唄われていて、「田原坂」は明治10年の西南戦争後だいぶ経ってから作られた唄といわれているので、作者(不詳)は二つの馬子唄の影響を受けたことは大いに考えられる。ただ、民謡にはそういう例は多いらしい。


鳥越の峠の茶屋へ向かう道

舞 踊:植木町民謡田原坂保存会
 唄 :本條秀美
三味線:本條秀太郎

君が代松竹梅 ~梅のパート~

2025-01-24 18:29:36 | 古典芸能
 今から17年前、平成20年4月30日(水)の夜。熊本城二の丸広場特設ステージでは、「熊本城築城400年祭」のエピローグとして「坂東玉三郎 特別舞踊公演」が行われた。昼過ぎには1時間ほど並んで入場整理券を確保し、舞台から10列目ほどの席に母と家内と僕と三人並んで座っていた。何気なく後ろを振り返ると圧倒されそうな大観衆。翌日の新聞記事に観衆12,000人と書いてあった。舞台の向こうにはライトアップされた熊本城天守閣が浮かび上がっている。やがて舞台が暗転、地方の演奏が始まる。そしていよいよ坂東玉三郎さんの登場だ。場内の空気が一変する。あちこちで「ほ~ッ」というため息が漏れる。1曲目の「君が代松竹梅」を踊り始める。それから2曲目の「藤娘」が終り、玉三郎さんが退場するまでの間、僕は異次元空間にいるような気がした。

 先日、国際交流会館で行われた「第58回熊本県邦楽協会演奏会」の最終演目「君が代松竹梅」の演奏を聴きながら、僕は17年前の玉三郎さんの舞台を思い出していた。
 今日は先日の演奏会における「君が代松竹梅」の中から、最後の「梅のパート」を視聴した。