徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

米価高騰が続く中で…

2025-02-15 22:48:46 | ニュース
 米価の高騰が続く中、農林水産省は政府の備蓄米21万トンを放出する方針を固めたと報道されています。今後の価格の動向が注目されます。
 これまでの米価の高騰に対し、農林水産省は「無策」だったと言わざるを得ません。判断の遅れは今後も尾を引きそうな気がします。

 YouTubeマイチャンネルに2年前に投稿した「米節(宮城県民謡)」にある視聴者の方から下記のようなコメントをいただきました。胸に迫るものがありました。

🎶(動画)アップをして下さり有り難う御座います。数年前に他界した母が大好きだった歌です。よく口ずさんでいた姿を思い出します。昨年の悪天候の影響で今年は米価格が高騰しておりますね。この歌がより一層心に染みます。全国各地の生産者さんの皆様の御苦労がどれ程有り難いことか…若者達の心にも響いていることでしょう。今年こそは例年通りの豊作を祈るばかりで御座います🌾🍙🍚


梅は咲いたか 熊本どぎゃん⁉

2025-02-14 21:15:25 | 熊本
 昨日今日と好天が続いたので、そろそろ梅の花も開き始めたのではないかと期待しつつ散歩に出かけた。とりあえず、護国神社を目指し熊本城二の丸広場へ着くと、明後日の「熊本城マラソン2025」大会本会場としての準備がすっかり整っていた。もちろん当日は観戦に来るつもりだが、天候が心配だ。


 護国神社に着くとさっそく梅園を一本一本見て回る。しかし、蕾はだいぶ膨らんだものの開花は見られない。境内に入ってみると、一本だけ開花し始めていた。例年早咲きの木なのだが、開花が早かった年に比べると、ちょうどひと月遅れか。


 夜はKKT熊本県民テレビの「くりぃむしちゅーの熊本どぎゃん⁉」を見る。上田晋也が世界に自慢したい熊本のスゴイ企業を訪問する企画で、今回は熊本市西区の熊本製粉へ。県内最大級の製粉工場を見学した後、粉のスペシャリストたちと上田提案のオリジナルうどん麺を開発することに。
 この会社は55年前、僕が転職し、再スタートを切った思い出の会社。懐かしかった。


稲葉内記の配流屋敷

2025-02-13 22:54:15 | 歴史
 ブログ「津々堂のたわごと日録」さんの昨日の記事「春日局の息・稲葉内記の配流屋敷」には強い興味を抱いた。大まかに言うとこんな内容だった。
 徳川3代将軍家光の乳母であり、大奥を任せられて権勢をふるった春日局(かすがのつぼね)。その実子・稲葉内記正利は仕えていた徳川忠長(家光の弟)の素行不良による改易に連座して罪を負った。春日局と親しかった細川忠利が藩主を務める肥後熊本へ配流となった。最終的に配流屋敷となったのが京町の赤尾丸城跡付近の屋敷。ここは西に金峰山を始め西山の山並みを望む小高い丘の上。すぐそばには加藤清正の殯の丘もある。

 津々堂さんは以前から配流屋敷の位置を調べておられたらしいのだが、最近、江戸前期の「京町之絵図」でその位置を確認されたという。記事に貼られた「京町之絵図」を拝見し、赤枠で示された「稲葉内記の配流屋敷」の跡を現地で確認したいと思った。最初は「京町之絵図」の「稲葉内記の配流屋敷」と「京町番所」周辺の空堀との距離から、もっと北の方かと思ったが、絵図上の赤尾口の坂と思しき道や赤尾丸城跡との位置関係を見ながら、民家が建て込んだ周辺を歩いてみた。痕跡らしきものは何もないので、おそらくこの辺だろうと見当をつけていると、地区の住民の方に出会ったのでおたずねしてみた。予想どおり「稲葉内記の配流屋敷」など初耳だと言われた。
 わが家の近くにもまだこんな歴史が埋もれていることに驚くとともに、新たな興味が湧いて来た。


赤尾丸城跡から北西方向を望む


春は嬉しや

2025-02-12 19:47:05 | 音楽芸能
 今日の雨で今冬の寒さも峠を越したのかもしれない。わが家の近辺はいまだ梅も花開かないし、昨年は今頃既に開き始めていた河津桜もまだ蕾が硬いようだ。今週末には熊本城マラソン2025も控えている。せめてランナーたちに開き始めた梅の花を見て心和ませてもらいたいものだ。
 この季節になると決まって聞きたくなるのが端唄「春は嬉しや」。と言ってもこの唄は春夏秋冬の恋模様を唄っている。春が出だしなので春の唄のイメージが強い。「話を菊の花」や「気を紅葉(もみじ)」などの掛詞(かけことば)を使ったり、「花見、鳴海、月見、雪見」と韻を踏む歌詞があったりして洒落ている。この動画は今から15年前の映像で、立方の「ザ・わらべ」はまだ中学生と小学生だった。注目は地方のメンバー、熊本を代表する邦楽演奏家が揃っている。仮設の舞台が設えられているのは坪井川に沿った熊本城長塀前で、熊本地震以来、この一帯は立入規制エリアである。早い復旧が望まれる。
※右の絵は鈴木春信の「夜の梅」


菫(すみれ)の俳句

2025-02-11 19:56:34 | 文芸
 フォローさせていただいているブログ「ころころの毎日が俳句・ハイク」さんは、いろんな方が詠まれた俳句を季節季節に応じてまとめて紹介されるので楽しみに拝見している。今日掲載されたのは春の季語「すみれ」を使った俳句21句。
 そのなかで僕が好きな句を二つ選んだ。

  野すみれの咲くや馬籠の石だたみ   白鳥光江
  神宿る小さき棚田や花すみれ     栗田やすし

 いずれもハッキリと映像が目に浮かぶところが選んだポイント。

 「すみれ」を季語とした俳句で有名な作品のひとつに夏目漱石が熊本時代に詠んだ

  菫程な小さき人に生まれたし

がある。

 2016年の「漱石生誕150年、来熊120年」に当り、熊日新聞に掲載された「熊本の漱石」と題する著名人のコラムの中に、テレビの俳句番組で著名な夏井いつきさんのコラムがあった。夏井さんは次のように述べている。

--漱石の俳句でいちばん好きなのは、熊本時代に詠んだ「菫程な小さき人に生まれたし」です。こういう独白が作品になりうることと、そのかれんな心根に、衝撃を受けました。澄み切った感性が漱石という人間をぴーんと貫く核だったのかと思うと、猫でも坊っちゃんでもない漱石像が見え、惚れ直しました。--


漱石記念緑道(京陵中学校前)の漱石句碑

「かむろ坂」のはなし。

2025-02-10 19:47:35 | 歴史
 昨年秋、約10年ぶりに新市街の松本外科内科医院へ母を連れて行った。この医院はかつて「かむろ坂」(下図参照)と呼ばれた道に面していた。ところが医院が北の方に移動したため、今では「かむろ坂」には面していない。
 以前、このブログで話題にしたことがあったのだが、その昔、鷹匠町と呼ばれていた一角にあった「かむろ坂」は、今日ではどう見ても平坦な道で「坂」ではない。これは日頃ご指導いただいている「津々堂のたわごと日録」さんによれば、藩政時代、藩主のお屋敷「花畑邸」の南側には馬の調練のための「追廻(おいまわし)」という馬場があり、その横の窪地を「追廻田畑」と呼んでいた。「追廻田畑」は旧坪井川の流路に沿った低地だったため、「追廻」と「追廻田畑」には高低差があり、その間をつなぐ道は当然坂道だったということのようだ。また、「追廻」と「追廻田畑」を区画する土手には桜が植えられ花見の名所でもあったそうだ。この一帯は下級武士の屋敷町があり、藩主の鷹狩り用の鷹を訓練する鷹匠の居住地区だったことから、南北に走る道は「鷹匠小路」と呼ばれ、後に一帯を鷹匠町と呼ぶようになったという。この窪地が埋められ、平地になったのは昭和20年の戦災で街が破壊された後の戦後復興の時だという。さらに津々堂さんによれば、「かむろ坂」の名の由来は、この坂で禿(かむろ)が転んだからだとか、低地で水を「かぶる」からだとかいう伝承があるとのこと。
 もう8年前になるが、肥後銀行本店の里山ギャラリーで行われた「永青文庫展3 永青文庫に舞う鳥たち」という展覧会を見に行った。鷹狩の絵巻を始め、鳥にちなんだ絵画、工芸、装束、古文書などの細川家のコレクションが展示されていた。その中で一つ、とても気になるものがあった。それは江戸前期の熊本藩の町図で、鷹匠や餌刺など鷹方が多く住んでいた高田原(今の下通・新市街辺り)の絵図だった。よく読めないのだが、各家の名字も記入してあった。その中に「禿(かむろ)」と読めるような家があった。受付で遠眼鏡のようなものを借りて確認したのだが判読できなかった。絵図に記入されている「禿?」という家名は、この「かむろ坂」と思われる位置に近い。もし、「禿」だとすれば、坂の名前と関係があるのではないかという気がした。


赤いラインの道がかつての「かむろ坂」


現在の「かむろ坂」跡の様子。

   大河ドラマ「べらぼう」にも多くの禿(かむろ:遊女が使う童女)が登場する。
こわらべ(あかね&ゆりあ)

「はやす」と言う語

2025-02-08 19:08:31 | 歴史
 先日放送された「鶴瓶の家族に乾杯」は山梨県丹波山村編。この村に移住していた芸人・俳優のマキタスポーツの妻に偶然出逢うというサプライズがあり、後日、マキタスポーツ夫妻が村を案内するという追加シーンも放送された。この追加シーンの中で紹介されたのが丹波山村の「お松引き」という年始の祭り。


 丹波山村の「お松引き」の風景を見ながら、だいぶ前に読んだ折口信夫の「万葉集研究」を思い出した。この中の「魂はやす行事」という條に次のような一節がある。

--私ははやすと言ふ語について、別に言うて居る。 祇園林(ギヲンバヤシ)・松囃子・林田楽(ハヤシデンガク)などのはやしが、皆山の木を伐つて、其を中心にした、祭礼・神事の牽き物であつた。 山(ヤマ)・山車(ダシ)の様な姿である。 此牽き物に随ふ人々のする楽舞がすべてはやしと言はれたのだ。 「囃し」など宛てられる意義は、遥かに遅れて出来たのである。 山の木を神事の為に伐る時に、自分霊を持つものとして、かう言うたのである。 --

 つまり、今日、祇園囃子・松囃子・囃子田楽などという「囃子」という言葉の語源は、まさにこの「お松引き」のような祭事にあったのだと言っているのである。日本文化の一原点を見るような思いがした。


かつては年始の松囃子で必ず演じられた「翁(式三番)」

初午と「はかま踊り」

2025-02-07 20:55:18 | 音楽芸能


 昨日は熊本城稲荷神社の初午大祭が行われ多くの参拝者で賑わっていた。稲荷神の神使はきつねだが、この神社にはそれとは別にきつね伝説がある。加藤清正が24歳の時、太閤秀吉から肥後北半国十九万五千石を与えられ、肥後国に入った時、近江長浜から付き随った二匹の兄弟きつね(霊狐)のうち弟の「緋衣大明神」が祀られている。そんなことを考えながら参拝していると、大河ドラマ「べらぼう」に登場した九郎助稲荷の神使であるきつねの化身、花魁姿の綾瀬はるかが頭に浮かんだ。きつねの化身が女性なのは、稲荷神社の主祭神であるウカノミタマが女神だからなのかななどと思いながら、7年ほど前に城彩苑わくわく座で行われた舞踊団花童の初午おどりのことを思い出した。たしか、はつ喜流月若さんがきつねの舞を披露した。あれは何という舞だったのかが気になり、帰ってから調べてみたが、当時撮った映像の中には見つからなかった。YouTubeを検索してみると志場隆さんが撮られた玄宅寺舞踊会の中にその映像があった。題名は「はかま踊り」とあった。これはそもそもどんな曲目なのか調べてみると、広島県民謡の中に「袴踊り」というのがあった。「はかま」というのは徳利袴のことで、かつては芸妓たちが袴をパカパカ鳴らして唄い踊っていたらしい。元唄は信州長野の馬子唄らしいのでさもありなんという感じだ。広島では名物の「杓子」に持ち替えて踊られているらしい。
「安芸の宮島 まわれば七里 浦は七浦 七えびす」
というフレーズは各地の民謡でも唄われているようだ。
 そんなわけで初午と「はかま踊り」の関係は未解明のままである。今度、中村花誠先生にお会いした時にお尋ねしてみよう。


2018.2.3 城彩苑わくわく座 舞踊団花童の初午おどりではつ喜流月若さんが踊った「はかま踊り」

   ▼志場隆さんが撮られた玄宅寺舞踊会での「はかま踊り」(2017.9.29)
〽安芸の宮島 まわれば七里 浦は七浦 七えびす

ブログ開設20年!

2025-02-05 21:58:43 | Web
 2005年2月にブログを開設して今月でちょうど20年。始めた時はこんなに続けるとは思ってもみなかった。20年の歴史を振り返ってみると、ブログの趣旨もだいぶ変化してきている。あと何年続けられるかわからないが、これからも変化し続けるのかもしれない。
 個人的な記事、ローカルな記事がほとんどなので投稿記事がバズるなんてことは今まで数えるほどしかない。今日はそんな中で、自分自身が驚くほど急にアクセスが集中した2例をあげてみた。

 一つ目は、2019年1月13日のケース。
 この日はNHK大河ドラマ「いだてん」第2回が放送された日。放送直後からこのブログにはありえない、見る見るアクセス件数が増える状態が続いた。原因はヒロイン役の綾瀬はるかが劇中で「熊本自転車節」を歌ったからだった。「熊本自転車節」を取り上げた記事も埋め込んだ動画も2011年に投稿したもので、その時すでに8年も経っていた。にもかかわらず、テレビ番組の影響は絶大だった。
 きっかけとなった、綾瀬はるかが自転車に乗り「熊本自転車節」を歌いながら登場するシーンは下の画像をクリックするとNHKのサイトで見ることができる。以降、彼女はこのドラマの中で数回にわたって「熊本自転車節」を歌った。

「♪ 逢いたかばってん 逢われんたい」と歌いながらヒロインのスヤ(綾瀬はるか)が登場する。
ロケ地:番所の棚田(山鹿市菊鹿町矢谷)

 二つ目は、2015年8月16日のケース。
 この日「世界!ニッポン行きたい人グランプリ」(テレビ東京)という番組が関東や関西などで放送された。熊本は放送日がずっと後だったので、その時点では僕は見ていない。放送直後(と思われる)頃から、祇園甲部の舞妓まめ藤さんを取り上げたブログ記事へのアクセスが急増し始めた。だが、放送を見ていないので理由がわからない。それから数日後、日本の舞妓さんに憧れるポーランドの女性が日本に招かれ、京都祇園甲部の置屋「多麻」に舞妓のまめ藤さん・まめ菊さんを訪ねるという内容の番組が放送されたという情報を得た。この時もテレビ番組の影響の大きさに驚いた。

ニッポンを愛してやまないポーランド人のユースティーナさんとともに舞うまめ藤さん

ライドシェア

2025-02-04 18:54:50 | ニュース
 今日、お昼のNHK熊本ローカルで「高森町で県内初 タクシー型のライドシェアの実証実験始まる」というニュースが流れていた。運転手不足などで地域の公共交通の確保が大きな課題となっており、高森町では県内の自治体としては初めて自家用車を使ったタクシー型のライドシェアの実証実験が始まった、という話題だった。ライドシェアとは、一般ドライバーが自家用車を使って有償で人を運ぶ配車サービスのこと。タクシー事業者が運営主体となり、研修や運行管理を行うらしい。はたしてこれが問題解決の決め手になるだろうか。
 ニュースを見ながら、僕は遥か昔の高森町や南阿蘇村のことを思い出していた。
 56、7年前、僕はトラックディーラーのセールスとして担当エリアの南阿蘇村・高森町を連日のように訪れていた。もっともその頃は、現在のように南阿蘇村ではなく、長陽村、白水村、久木野村に分かれていた。9年前の熊本地震で崩落した阿蘇大橋もまだ架かっておらず、立野から黒川の渓谷へ下って戸下温泉を通り、戸下の七曲がりを登って行ったものだ。今日の整備された国道325号バイパスもまだなく、舗装されていない旧道を走って行った。当時は民家もまばらで高森へ向かう街道沿いには美しい田園風景が広がっていた。マイカーもそれほど普及していなかった頃で、小中学生は遠い距離を徒歩で通学していたが、道路が乾くと車がもうもうと土埃を巻き上げ、雨が降ればぬかるんだ道を歩かなければならなかった。当時の小中学生の間で流行っていたのが、通りかかった車に手をあげて乗せてもらう、つまりヒッチハイクである。僕も何度も彼らを乗せて運んだ。今なら絶対ありえない光景だ。今思えば、必要に迫られて自然発生したボランティアのライドシェアだったのかもしれない。


毎日のように上り下りを繰り返した戸下の七曲がり


高森への街道沿いには美しい田園が広がっていた

   ▼キリン午後の紅茶 TVCMのロケ地となった南阿蘇鉄道・見晴台駅

   ▼久木野村(現南阿蘇村)の民謡「阿蘇くぎの花盛り音頭」