徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

米原長者口説き歌

2024-07-23 19:11:53 | 歴史
 山鹿灯籠まつりの時季が近づいて来た。かつては毎年見に行ったものだが、熊本地震以降すっかり足が遠のいた。今年は久しぶりに見に行こうかと思っている。
 このまつりの呼び物は何といっても、頭上に灯籠を載せた女性たちが「よへほ節」の調べに合わせ、優雅に舞い踊る「山鹿灯籠踊り」。
 しかし、このまつりで踊られる曲は「よへほ節」だけではない。「山鹿盆踊り」と「米原長者口説き歌(よなばるちょうじゃくどきうた)」を合わせた3曲が踊られる。このうち「米原長者口説き歌」は歌自体は現代に作られたものだが、歌われているのは1300年前、ヤマト政権によって築かれた鞠智城(きくちじょう)がある米原地区に当時から言い伝えられている「米原長者伝説」をもとにしたもの。「口説き」というのは、長い物語を同じ旋律の繰り返しにのせて歌うもののことをいう。
 「米原長者伝説」は3部構成となっており、第1部は米原に住む貧しくも働き者の若者のところに、夢のお告げを受けた姫が京から嫁ぎ、彼女が持参した千両の金を元手に長者になったというサクセスストーリー。第2部は、長者となった男が、同じように栄華を極める「駄の原長者」と宝くらべをするというお話。ありったけの金銀財宝を並べた米原長者に対し、駄の原長者は恵まれた多くの子宝を連れて来た。民衆はほとんどが駄の原長者の子供たちに関心を寄せ、米原長者の財宝に関心を寄せたものは数えるほどだった。第3部は、朝廷から「長者」の称号を賜るほどの権勢をほしいままにしていた米原長者は、ある時、田植が思い通りに進まないことに業を煮やし、太陽を呼び戻して三千町歩の田植えを続けさせた。これに天罰の火の輪が降り注ぎ、全財産が灰塵に帰してしまうという転落の物語。
 「米原長者口説き唄」は、この中の第2部を題材にしている。歌詞は30番まであるが、通常の演奏は時間の制約もあり7番まで。(資料提供は本條秀美さん)


米原地区にある八角形鼓楼(鞠智城の一部)


「JIN -仁-」の時代の蘭方医(特別編)

2024-06-29 21:27:00 | 歴史
 破傷風の治療法を開発した細菌学者の北里柴三郎をデザインした新千円札の発行が4日後に迫った。そこであらためて4年前のブログ記事「JIN -仁- の時代の蘭方医(その2)」を読み直してみた。これは大阪大学名誉教授の芝哲夫氏が著した文章「北里柴三郎の生涯と適塾門下生」の中から抜粋したものである。

—―オランダ人医学者マンスフェルトが明治4年(1871)に熊本に来て、古城医学校が出発します。柴三郎は親の奨めで、語学を勉強するつもりでこの学校に入りました。実はマンスフェルトは日本語が全然喋れなかったのです。ここにマンスフェルトのオランダ語を通訳し、翻訳して生徒に伝える助教が二人いました。一人は阿蘇の西の日向町出身の高橋正直で、もう一人は山鹿出身の奥山静叔でした。奥山静叔の墓 は熊本市内の池田町の往生院にあります。実はこの奥山静叔が熊本の地で西洋医学を始めた最初の人と言ってよろしいと思います。この奥山静叔と高橋正直の二人が大阪の適塾に入門していて、適塾でオランダ語を勉強してこの熊本へ帰ってきていたのです。マンスフェルトのオランダ語を通訳したのはこの二人でした。奥山静叔は大変よく出来た人で、適塾でも初期の塾頭を勤めたくらいですから緒方洪庵の信頼も厚かったと思います。柴三郎は古城医学校でこの二人にオランダ語をはじめて学びます。柴三郎は後になってドイツ語でも語学的才能を発揮するのですが、既にこの時に適塾生二人に教わったオランダ語を一年くらいで見事にマスターしてしまいました。――


【熊本医学校の写真】中央の外国人がマンスフェルト、向ってその左隣が北里柴三郎、北里の前、
右頬が隠れているのが奥山静叔、その右側、マンスフェルトの前が高橋正直、北里の左下が中山至謙



適塾の塾頭を務めた奥山静叔の墓(熊本市西区池田・往生院)

 折しも、動画配信サービスの「Tver」でTBSドラマ「JIN -仁-」が期間限定無料配信されており、奥山静叔らが学んだ適塾もドラマの舞台の一つとなっている。


TBSドラマ「JIN -仁-」


メグスリノキ

2024-06-10 21:17:47 | 歴史
 どうも白内障が進行しているようなので今日生まれて初めて眼科病院に行った。熊本では最大の眼科専門病院である出田眼科病院。先日予約だけはしていたので指定された朝8:30に行ってみると、70~80名は収容できそうな待合ロビーは受診者で既に一杯。いろんな検査を受けて結局、会計を終えたのはもう午後1時に近かった。エントランスを抜けて外に出ると前庭に「メグスリノキ」があった。この病院のシンボルなのだろう。説明書のプレートを読みながら、ふと随分前にブログに書いた「メグスリノキ」にまつわる話を思い出した。

向台寺目薬のはなし(2012.5.25.)
 わが家からも近い京町1丁目に向台寺という古いお寺がある。京町台の西南端に位置するが、上熊本方面に降りる坂には向台寺坂という名前が残っている。この向台寺、実は「向台寺目薬」と言って、かつては相当名の知れたよく効く目薬を処方・販売するお寺だったそうである。この話を僕が知ったのは、中学校の同級生Sさんのお父さんがまだ師範学校の学生だった昭和10年に、京町の歴史についてまとめたレポートの中だ。Sさんの家が向台寺に近かったので、昭和10年当時でもSさんの家に、遠方からの患者が向台寺を訪ねて来たそうである。ところがこの話には裏話があって、実はこの目薬の秘伝の調合などを元々持っていたのは向台寺からちょっと北に行ったところにある西方寺だったというのだ。その当時の住職からさかのぼること3代、つまり明らかに江戸時代の話になるが、両寺の住職が極めて仲が良く、檀家が少なくて経済的に困窮していた向台寺を助けるため、西方寺の住職が向台寺の住職に秘伝を譲ったというのだ。そしてそのことは永い間、両寺の秘密とされてきたという。なんともハートウォーミングな話ではある。ところでこの目薬の原料が気になるところだが、現在の向台寺の奥様におたずねしてみたのだが、今はもう書付けも何も残っていないそうだ。司馬遼太郎の「播磨灘物語」には「戦国武将・黒田官兵衛の祖父がメグスリノキを原料とした目薬を開発して巨万の富を得た」と書かれているので、おそらく戦国時代よりも前に既に民間療法としてメグスリノキが使われていたと思われる。


メグスリノキ


祇王寺祇女桜

2024-06-08 22:35:54 | 歴史
 監物台樹木園が3年ぶりに開園したが、開園日が4月25日だったので、残念ながら今年の桜開花時季は過ぎていた。何種類かの桜の中でも残念だったのは「祇王寺祇女桜(ぎおうじぎじょざくら)」の花が見られなかったことだ。この「祇王寺祇女桜」という桜の種類があることを知ったのは、10数年前、あるブログ記事で見つけた京都市右京区嵯峨の祇王寺の写真が、立田山麓にあった父の生家のイメージとそっくりだったことがきっかけだった。
 「祇王寺祇女桜」は祇王寺に植栽されていた桜で「平家物語」に登場する白拍子、祇王・祇女の姉妹がその名の由来である。

▼『平家物語』巻一「祇王」のあらすじ
 祇王は容姿にすぐれた白拍子(しらびょうし=「今様」という当時の流行歌謡を歌い、舞を舞う男装の遊女)の名手として、京の町中に知れ渡っていた。
 祇王は平清盛の寵愛を独り占めにしていた。清盛は彼女の母「とじ」をも立派な屋敷に住まわせ、毎月、米百石・銭百貫を贈ったので、一家の豊かさ華やかさは例えようもないほどであった。そんなある日、清盛の住む西八条の御殿に仏御前(ほとけごぜん)と名乗る年若い白拍子が訪ねてきた。
 彼女は、自分の舞を清盛にご覧に入れたいと申し出る。しかし、清盛は仏御前を門前払いにした。祇王は、「そんなに素っ気なく追い返すのはかわいそうです。せめて出会うくらいのことは」と清盛にとりなした。
 祇王の頼みを聞き入れ、清盛は仏御前を呼び戻した。彼女の姿は、驚くほどの美しさ。今様を歌わせてみると、その声、節回し、ともに見事であった。つづいて舞を舞うよう命じたが、舞い姿もまたまた見事。清盛はその場で、すっかり仏御前にこころを移してしまった。そして、仏御前が辞退するのも聞かず、祇王を追い出し仏御前に御殿にとどまるよう命じた。
 祇王は障子に人情や運命のはかなさを詠んだ歌一首をしたため、清盛の西八条殿を去った。
 一年が経った。妹の祇女とともに御殿を追い出された祇王に、清盛から「いちど仏御前の前で舞を舞い、彼女の退屈を慰めてやってくれ」という命令がとどいた。
 「言いつけに背けば、都を追い出される。恥をこらえてでも出仕しておくれ」という母・とじの、たっての頼み。祇王は泣く泣く妹・祇女とともに清盛の御殿を訪れた。
 祇王は、下座に侍らされ、今様歌を歌い落ちる涙をぬぐいつつ舞いを舞う。
 我が身のあまりの惨めさに、世をはかなんだ祇王は母・とじ、妹・祇女とともに、嵯峨の山里の小さな庵に移り住み二十一歳で出家した。
 春が過ぎ夏も終わり、秋風の吹くころとなる。三人が念仏をとなえる粗末な庵を、ある夜、訪ねてきたものがあった。不思議に思った祇王がよく見ると、それは黒髪を剃り落とし尼僧姿となった仏御前であった。
 「つくづく物を案ずるに娑婆(しゃば)の栄華は夢の夢」と悟り、彼女はみずから念仏の輪に加わりたいと祇王たちの庵を訪ねてきたのであった。
 それいらい四人はともに朝夕念仏をとなえつつ、「往生の素懐」をとげたという。
(平成23年1月2日滋賀報知新聞記事より)


祇王寺祇女桜


父の生家(今は痕跡も無し)からほど近い泰勝寺跡

白拍子の舞

D-Day

2024-06-06 22:22:53 | 歴史
 今日は日本では令和6年6月6日と「6」が並ぶので、メディアでもいろんな意味付けが話題になっていたようだ。
 一度だけ熊本城城彩苑でお会いしたことのあるフランス人のゲール・フォン(Gaël Fons)さんがご自身のフェイスブックに、ヴェルレーヌの有名な詩の冒頭
 "Les sanglots longs des violons de l’automne
  Blessent mon coeur d’une langueur monotone"
 【和訳】
  秋の日の ヴィオロンのためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し

とともに、1962年の映画「史上最大の作戦」(The Longest Day)の1場面の動画が貼り付けてあった。
 それを見て思い出した。そうか80年前の今日、「D-Day」つまり「ノルマンディー上陸作戦」が開始された日であったことを。
 動画にはドイツ人俳優のペーター・ファン・アイクがドイツ軍将校の制服を着て登場するので、ドイツ側から見た一場面なのだろう。高校時代に一度きり見た映画なのでディテールは憶えていない。
 そういえば、前述のヴェルレーヌの詩は作戦開始をフランスのレジスタンスに知らせる暗号だったことを思い出した。そのことをゲール・フォンさんのフェイスブックにコメントしたら、次のようなリプライが返ってきた。
「はい、この記念日は私たちにとって非常に重要です。今日はフランスのテレビを見ることをお勧めします。 D-Dayにはたくさんの放送が行われます。」
 そうか、今日はフランスにとってとても重要な日だったのだ。


旧坪井川河道の跡

2024-05-31 21:49:53 | 歴史
 壺川小学校裏の民家(下の地図の〇)が解体され更地になっていた。この家は旧坪井川河道(地図の黒いライン)が湾曲している場所にあたる。既に整地が始まっていたのでわからないが、旧河道の土手の痕跡があったのではないかと思う。10年ほど前、黒ラインの上端辺りの家の長老に会ってお話を聴いた時、家の裏に古い土手の跡があるとおっしゃっていた。普通の民家なので調査などは行わずに工事を行ったものだろうが、坪井川の歴史を確かめるいい機会ではなかったかとちょっと残念な気がした。


解体前の民家(正面突き当り)


家の位置と旧坪井川河道


解体され整地が進む更地

大相撲と熊本

2024-05-29 15:05:16 | 歴史
 大相撲五月場所は、初土俵から7場所目という、まだ大銀杏も結えない大の里の優勝で幕を閉じた。評論家が口を揃えて「横綱の器」だという大の里はおそらく大関昇進までそれほど時間はかからないだろう。最近、やたらと多い短命大関にならないことを願うばかりだ。

 かつて熊本は相撲の聖地だった。それは相撲の宗家である吉田司家があったからである。僕らが子どもだった頃、新横綱が誕生すると藤崎八旛宮の参道沿いにあった吉田司家で免許状の授与が行われていた。吉田司家はもともと越前国の武家。後鳥羽天皇(平安末期-鎌倉初期)の時代、初代の吉田家次が節会相撲の行司官に任ぜられ、以後、相撲の宗家として代々「追風」の号を名乗った。肥後細川3代の細川綱利公の時、招かれて熊本藩に仕えた。寛政元年(1789)19代吉田追風が「横綱」を考案し、谷風梶之助と小野川喜三郎に横綱を免許した。これが、現在に至る横綱制度の始まりである。この免許を与えるに当たって、熊本城内で審議会が行われ、肥後熊本藩8代藩主細川斉茲公が事実上の審議委員長を務めたと伝えられる。以来、第40代横綱の東富士欽壹が昇進した昭和24年(1949)まで、代々の横綱に吉田司家が免許を与えた。横綱への免許授与は第4代横綱の谷風梶之助から第40代東富士欽壱までの160年間、37人にのぼる。 
 熊本市内の光琳寺通りから下通りを横切って東の方に進む界隈は、かつて「相撲町」と呼ばれていた。細川綱利公は越前より招いた吉田司家の屋敷をここに構えさせた。以降、この界隈に力士など相撲関係者が多く住むようになったことによりこの名がついた。
 しかし、時代が下って吉田司家24代追風・長善の時、吉田司家の内紛がもとで日本相撲協会とは徐々に疎遠になり、現在では事実上断絶した形となったことは残念だ。
 実はこの24代当主・吉田長善氏は僕の高校の大先輩、小堀流踏水術の練達だったこともあり、わが済々黌水球部の初代部長として選手たちを物心両面から支え、後に済々黌水球部を高校水球のトップレベルに押し上げる基礎を築いた。その功績は大きいだけに吉田司家のその後を思うと残念でならない。

▼関取と少年
 吉田司家から400㍍余り南の白川公園で毎年行なわれる熊本巡業は県内外から見物に来る大勢の人たちで賑わった。僕が初めて熊本巡業を見に行ったのは小学4年(昭和30年)だったと記憶している。小学校の同級生数人で見に行った。当時、日下開山は吉田司家の手を経ずして推挙された初めての横綱千代の山。その熊本場所の入場門で見た光景が未だに忘れられない。終戦後まだ10年経っておらず、繁華街などでは孤児と思しき子どもの姿をよく見かけた。この時も入場門の近くに一人の少年が佇んで入場する人々を眺めていた。すると幕内力士の嶋錦が場所入りでやって来た。嶋錦はその少年に目をやると立ち止まり、少年を手招きした。けげんな顔をして立ち尽くしている少年に「一緒においで」と声をかけた。少年が近づくとやさしく肩を抱き一緒に入場して行った。嶋錦は大阪の出身できっぷのいい力士として結構人気のある関取だった。中アンコ型の嶋錦と少年の姿を見送りながらほっこりする気分になった。この出来事はその少年のその後にどんな影響を与えただろうか。


藤崎八旛宮表参道


表参道沿いにかつてあった吉田司家


現在は跡地の記念プレートだけが残る


1982年、吉田司家で行われた初代吉田追風の追悼750年祭で、第58代横綱・千代の富士が奉納土俵入り

「光る君へ」と藤原保昌

2024-05-26 19:13:22 | 歴史
 大河ドラマ「光る君へ」には肥後国司を務めた清原元輔(清少納言の父)が登場しましたが、もう一人、同じく肥後国司を務めた藤原保昌(ふじわらのやすまさ)は武勇の誉れ高く「道長四天王」の一人とも呼ばれた人物ですので登場してもおかしくありません。
 熊本県観光連盟のウェブサイト「ふるさと寺子屋」には肥後の名国司の一人として保昌のことが次のように紹介されています。

▼強盗の親玉も恐れる国司 藤原保昌(ふじわらのやすまさ)
 昭和の初めまで藤原保昌が肥後の国司であったことは、伝承でしかありませんでしたが、『御堂関白記(みどうかんぱくき)』と称される藤原道長の日記に「藤原保昌を肥後守にした」と記されてあります。保昌は有名な武士で、強盗の親玉が恐れる程の人物でした。寛弘二年(1005)に肥後の国司が殺される事件があり、強剛な保昌が任命されたのです。
 また熊本の各地に「ほうしょうという国司があちこち神社を修繕した」という言い伝えがあり、それは保昌(ほうしょう)のことのようです。保昌の妻が歌人の和泉式部です。

 また、熊本の北岡神社のサイトには
「平安時代中期。今からおよそ1100年前の承平四年(934)年、時の肥後国司・藤原保昌が、疫病と兇徒の乱に見舞われていた肥後の国を鎮めるため、京都の八坂神社のご分霊を迎え創健されたのが北岡神社のはじまりと伝えられています。」
と書かれています。

 「光る君へ」に登場し、非業の最期を遂げた散楽一座の一員で盗賊の直秀というオリジナルキャラクターのモデルは、藤原保昌の弟・藤原保輔だという話もあります。


北岡神社


北岡神社の例大祭・祇園まつり


祇園まつりの御神幸

 京都の八坂神社から勧請され今の北岡神社が創建された時、京都から供奉した楽人の末裔の一つが、能楽の友枝家です。


2021年3月9日、水前寺成趣園能楽殿での「翁プロジェクト熊本公演」で「翁」を演じる人間国宝・友枝昭世師

清少納言と清原元輔そして檜垣媼

2024-05-16 18:32:15 | 歴史
 昨夜のNHK「歴史探偵」のテーマは「清少納言と枕草子」だった。大河ドラマ「光る君へ」を放送中なので番宣の意味もあったのだろう。「清少納言と枕草子」についてはこれまでも「100分de名著」などいろんな番組で取り上げられてきたので、あらためて内容については触れない。そこで、清少納言の父親、三十六歌仙の一人で肥後国司を務めた清原元輔との関係について気になっていることを記しておきたい。
 清少納言は生没年不詳とされているが最近では康保3年(966年)生まれとする説が有力のようだ。ということは、元輔が59歳頃に生まれたことになる。現代でも70歳前後で子を生す人はいるので不思議ではないが、平均寿命が50歳くらいだった平安時代に随分お元気だったのだなぁと思う。
 元輔が天延2年(974年)周防国司として赴任した時、清少納言はまだ8歳、当然帯同した。「枕草子」の中にもその船旅が書かれている。僕が防府に在勤中、何度も周防国衙跡を見に行ったが、清少納言のことは全然頭に浮かばなかった。それはさておき、昭和7年に出版された「熊本市史」には、元輔が寛和2年(986年)79歳の高齢で肥後国司として赴任した時、清少納言も一緒にやって来た形跡がないか調べたような記述がある。残念ながらそれらしい史料は見出だせなかったようだ。この時、清少納言は20歳くらいになっており、既に結婚、出産などを経験していたので肥後へ来ることはなかっただろう。
 元輔が肥後国司在任中、伝説の女性歌人檜垣との交流が始まる。かつて清少納言を元輔と檜垣との間に生まれた子であるという俗説もあったらしいが、元輔が檜垣と出会ったのは肥後下向後のことであり、清少納言の年齢などつじつまが合わない。単なる俗説の類であろう。元輔は永祚2年(990年)に任地肥後にて83歳で亡くなるが、当時としては極めて長命であった。元輔は北岡神社(熊本市西区春日1丁目)境内飛地の「清原神社」に祀られている。小さな祠には元輔と親交のあった檜垣も祀られているという。この小さな祠の中を覗いてみると四体の座像が収められている。束帯姿が元輔だろうが、あとの三体のうち二体は明らかに女神。妻の周防命婦と檜垣媼なのだろうか。もう1体の小さな座像が大黒様のような態に見えるが、ひょっとしたら幼い頃の清少納言なのかもしれない。元輔の死後3年の正暦4年(993年)頃から、清少納言は一条天皇のきさき定子に出仕する。そしてその数年後から「枕草子」の執筆を始めたと考えられている。


清原神社


祠の中の四体の座像

伝説の起り

2024-05-14 22:12:20 | 歴史
 先月、NHK「歴史探偵」で平安時代の名僧・空海を取り上げていた。日本各地およそ3,000ヶ所に空海伝説が伝わるという。それは、「高野聖(こうやひじり)」と呼ばれた下級僧たちが全国各地に赴き、勧進をし空海の教えを説いたからだという。それはいつの頃からか空海本人が訪れたという話に変わっていった。
 見ながら僕は「小野小町」のことを連想した。小野小町も全国いたるところに生誕地や墓などゆかりの地が存在する。柳田國男は著書「妹の力」の中で、「小野小町の遺跡が全国に(西は九州の熊本付近から、一方は奥州羽州にかけて)充満している事実に対しては、(中略)わたしはこれを小町の物語をもってあるく女性が、もとはおおよそ一つの中心から、発足したからではないかと想像している。(中略)小野小町の物語をしてあるく者を、直接にその小町が来たという風に伝えることは、今日ならばもちろんおかしいことであるが、これはその語り手が自身も上臈であり、しかも神憑きなどと同じ形式に、一人称を以って昔のことを述べたとしたならば、誤解でなくともそういう風に呼ぶことはあり得る。」と述べている。(※上臈:高級女官)
 しばらく行っていないが、熊本市の北部、植木町には小野小町が産湯を使ったという「小野泉水」があり、植木方面に行った時には憩いの場としてよく利用していた。
※上の写真は2014年京都葵祭において小野小町に扮した祇園舞妓(当時)のまめ藤さん


小野泉水

中将湯と中将姫

2024-05-09 20:18:56 | 歴史
 ブログをフォローさせていただいている「りぼんの部屋」さんが、朝ドラ「虎に翼」に違和感を感じるという記事をアップされていた。りぼんさんは「昭和初期の家庭内で女性の生理について大っぴらに会話するなどあっただろうか」という主旨だった。実は僕も見ていて同じことを感じていたのでさっそくコメントを入れさせていただいた。同意を伝えると、りぼんさんからリプライがあり、その中に「ドラマでは、生理痛の時に、三陰交のツボ押しの話は出てくるが、「中将湯」の話が出て来ないのはなぜ…」という疑問を抱かれたようだ。「中将湯」というのは生理痛など女性特有の症状に幅広く用いられる生薬のこと。女性ならではの気付きだと思うが、たしかに「中将湯」は明治26年に発売されたとあり、昭和初期にはかなり普及していたはず。僕らが子どもの頃、あちこちで「中将湯」の看板を見かけたものだ。NHKだから固有の商品名は使いづらかったのかもしれないが、あの会話の流れの中に出て来ないのは、りぼんさんが言われるとおり不自然と言えば不自然だ。
 その「中将湯」は、奈良時代の当麻寺で中将姫(藤原郎女)がこの寺で学んだ薬草の知識から生まれたと伝えられている。中将姫と言えば、当麻寺に伝わる「当麻曼荼羅」を一夜で織ったという伝説がある人物。

 この中将姫をまつる熊本のお寺が金剛寺(熊本市中央区新屋敷)。別名「中将姫」として広く知られている。この金剛寺はもともとわが家にほど近い中坂の登り口にあった。熊本城の鬼門にあたり、かつては加藤神社の別当を務め、熊本民謡「ポンポコニャ」にも唄い込まれたほど栄えていた。明治維新の廃仏毀釈により衰退したが、現在は新屋敷で再興されている。
 この中坂は日頃、僕の散歩コースでもあるが、かつての金剛寺入口あたりに小さな石仏が鎮座している。この石仏、いつ誰がここに安置したのか誰も知らない。僕はこの石仏に手を合わせる度に、かつてこの地にまつられ、そして去らねばならなかった中将姫の身代わりではないかと思えるのである。


金剛寺
【金剛寺のご詠歌】
 極楽を 何処ときけば 金剛寺 中将姫のいます浄土ぞ

清正公(セイショコ)さんと木遣

2024-04-29 20:19:03 | 歴史
 昨日、加藤神社で行われた「清正公まつり」で「木遣」と「梯子乗り」が奉納された。このまつりで「木遣」を見たのは初めてだったので「オヤ?」と思ったのだが、考えてみれば清正公と「木遣」は縁が深い。なるほどなと思った。

 慶長15年(1610)、徳川家康による名古屋城の天下普請の際、加藤清正は最も難工事といわれた本丸の石垣工事を担当した。この名古屋城築城時の清正公の働きぶりについては江戸時代に書かれた古文書「続撰清正記」に詳しい。これを「肥後史話」(卯野木卯一良著・昭和56年)では次のように解説されている。

 この時の清正の工事の活動振りは目ざましいものであった。かつて熊本大築城の経験もあり、慶長11年には江戸城の築城にも参加していたので、今度の工事は知れたものである。自ら進んで天守閣の築造を引き受け、寵臣である飯田覚兵衛をして朝鮮陣の当時に習得したという築造法の手腕を振わしめ、その成績は人目を驚かした。そうして巨大な角石などを運搬する時には、ことさらに華々しい装いをして人目をそばだたしめた。まずその大石を赤い毛氈で包み、大きな青色の綱でからげて、その上に突っ立ち上って大音声で、木遣り音頭などを唄われる。5、6千人の老若男女、いずれも華美な衣装に身を飾って、唄に合わせて綱を引く。酒は飲み次第、行商や露店の飲食物を値段かまわず買い上げて、食い放題飲み放題というので、後には見物人も商人も飛び込んで綱にとり付き、手拍子合わせて浮かれながら、えいやら声でみるみるうちに、大石を名古屋に運び着けるという賑わい。こうしてさすがの大工事も同年3月から8月までの間に無事竣成して、9月清正は熊本へ帰国せられたのである。
  「音に聞えし名古屋の城を踏みや馴らいた肥後の衆が
   及びなけれど万松寺の花を折りて一枝ほしうござる」
これは当時、名古屋市中で謡われた小唄である。万松寺というのは清正の本陣で、その寺の庭に大木の桜があったのを、美しい肥後武士によそえて謡った肥後衆賛美のものであるという。

 その時唄われた木遣唄は、伊勢神宮の御神木を曳くときに唄われるようになり、それをもとに伊勢音頭へと発展し、全国に広まったのである。「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」 という歌詞はそんな故事にならったものかもしれない。
 なお、名古屋城には「清正公石曳きの像」(上の写真)が建てられている。

続撰清正記「尾州名護屋普請の時、大石引く事」


尾張名所図会「加藤清正石引の図」


清正公石引の木遣唄をもとにした「伊勢音頭」

慶長十二年 丁未(ひのとひつじ)の條

2024-04-15 18:48:07 | 歴史
 今日4月15日は出雲阿国の忌日である「阿国忌」(生没年不詳)とされている。
 慶長15年(1610)春、加藤清正は八幡の國(出雲阿国)を肥後に招き、鹽屋町三丁目(現中央区新町2丁目)の武者溜りで歌舞伎を興行したことが「續撰清正記」」に書かれている。しかしこれ以外の史料がなく詳細は分からない。何か未知のことでも書かれていないかと思い、「国立国会図書館デジタルコレクション」の中の「江戸年代記(明治42年出版)」を調べてみた。すると「慶長十二年・丁未(ひのとひつじ)」の2月に面白い記述を発見した。そこには次の2項目が並記されていたのである。
  • 二月細川幽斎室町家の儀式三巻を上る
  • 同月観世金春勧進能興行出雲阿国歌舞伎興行
 まず最初の項目は肥後細川家の礎である細川幽斎が徳川家康に重用されていたことを示すもの。この時には既に家康は将軍職を嫡男の秀忠に譲り、駿府を大御所として移っていたが、家康の要請で幽斎がまとめた「室町家式」は武家の伝統、儀式、作法を記したマニュアルで、中世の武家の儀礼を江戸幕府に継承させ、スムーズに政治を主導させる橋渡しの役割を果たした。そのマニュアル3巻を仕上げて納めたのがこの時だったのである。※上の写真は細川幽斎銅像(水前寺成趣園)
 2番目は、この年江戸城天守閣が落成、京で人気の出雲阿国を江戸へ招き、江戸城本丸・西の丸にある観世・金春の能舞台で、女歌舞伎がお披露目された。その後、亜流の芸能者が陸続と江戸へ下り、いわゆる江戸歌舞伎の歴史が始まった。

 これを読みながら細川幽斎と出雲阿国が同じ時代だったことをあらためて認識した。
 ちなみに、京都市北区にある臨済宗大徳寺の塔頭高桐院は細川忠興によって創建された細川家の菩提寺の一つであるが、ここには忠興とガラシャ夫人の墓塔などとともに出雲阿国の墓があり、すぐ傍には阿国の恋人とも夫ともいわれる名古屋山三郎の墓もある。

日本舞踊協会公演「阿国歌舞伎夢華」より

「御馬下の角小屋」番頭の話

2024-03-29 21:40:55 | 歴史
 2008年に放送されたNHK大河ドラマ「篤姫」が今、NHK-BSで再放送されている。現在、篤姫が将軍家定へお輿入れするあたりまで進んでいる。先月、「津々堂のたわごと日録」さんが触れておられたように、このドラマではお輿入れのルートを船旅として描かれているが、実際は陸路ルートだったことがわかっている。
 薩摩藩の参勤ルートは江戸前期には日向細島港から船出する東ルートや川内川河口あたりから船出する西ルートなどの海路もあったようだが、江戸後期にはほとんど陸路を使っていたらしい。薩摩街道を北上すると当然熊本藩を通過することになり、しかも薩摩街道(豊前街道)は熊本城二の丸を通ることになるので、熊本藩士との間で一触即発ということもあり、街道を避けて脇道を使うこともあったようだ。もちろん篤姫のお輿入れの時は熊本藩も最大限の配慮をしたことだろう。熊本城から北へ豊前街道を7㌔弱進んだところに「御馬下の角小屋」という庄屋の屋敷があり、薩摩藩もここを休息所として使っていたが、ここに篤姫のお輿入れのエピソードが残っている。「御馬下の角小屋」で永年番頭を務めた利平の目撃談が、今は資料館となっている屋敷の一角に貼られている。




式子内親王と藤原定家

2024-03-22 20:45:44 | 歴史
 先日、学習院大文学部を卒業された天皇、皇后両陛下の長女愛子様は、卒業論文に「式子(しょくし)内親王」を取り上げられたとニュースで報じられた。式子内親王とは、後白河天皇の第三皇女で、平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた「新古今和歌集」の女性歌人の代表といわれる。不勉強で式子内親王が詠まれた歌を知らないので「新古今和歌集」をパラパラとめくってみた。春の歌の中に次の式子内親王の歌があった。

  いま桜咲きぬと見えてうすぐもり春に霞める世のけしきかな

 愛子様卒業のニュースを聞いて僕がまず連想したのは「定家葛(テイカカズラ)」(下の写真参照)のこと。「定家葛」の名は、式子内親王を愛した藤原定家(ふじわらのていか)が、死後も彼女を忘れられず、ついにテイカカズラに生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説に基づく能「定家」から付けられたという。
 もう3週間もすればわが家の近辺にもテイカカズラがそこらじゅうに白い花を咲かせ甘い香りを漂わせる。テイカカズラは繁茂の勢いが凄い。定家の妄執の強さを感じてしまう。


テイカカズラの花

   ▼能「定家」(シテ:観世清河寿)