徒然なか話

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ブラタモリ随想

2021-06-08 20:49:36 | テレビ
 ブラタモリも2008年12月に放送が始まって12年が過ぎた。最近はどうもアカデミックになり過ぎた感が否めない。地形や地質も興味がないわけではないが、かつてのゆる~い感じが懐かしい。
 その代表的な回が、2012年1月12日に放送された第3シリーズの「江戸の盛り場 ~吉原編~」。こんな感じで番組が進行した。

▼江戸の盛り場 ~吉原編~
 案内人は立教新座中学校・高等学校校長兼立教大学名誉教授の渡辺憲司さん。
 「吉原は江戸の流行の発信基地」とかなんとか言いながら、舟で吉原を目指す。柳橋から隅田川を北上、浅草を通過して吉原へと向かう。そこで一句
 「船宿へ家の律儀は置いてゆき」
 つまり、恥も外聞も打ち捨ててというわけか。
 かつて使われたのは猪牙船(ちょきぶね)。「猪牙船 小便千両」と言って、相当金をつぎ込まないと舟上に用意された竹筒へ小便ができるようにはならないという。
隅田川の西岸に見えてくるのが「首尾の松」。江戸時代から数えて七代目の松。
 「濡れてしっぽり首尾の松」
などと、同伴した芸者といい雰囲気になると、まさに「浮かぶラブホテル」状態。
やがて舟は吾妻橋を通過。江戸時代、一日三千両(朝は日本橋、昼は浅草、夜は吉原)の金が動くと言われたというエピソードを聞く。当時は「吉原細見」というガイドブックがあったという。
やがて今戸橋付近に到着。舟を降り、待乳山聖天にお詣り。夫婦和合の御利益がある大根を購入。新婚の久保田アナに進呈するも大根は聖天様にお供え用。
今では暗渠となった隅田川の支流の跡を辿って歩いて吉原へ。
女性の観光客もこぞって吉原へ来た理由。それは遊女の斬新な着物や化粧などを一目見たかったから。つまり吉原は流行の発信基地。
遊女が髪を洗うのは月に一回。遊女には厳然たる階級があり、江戸中期、二千人いた遊女のうち十人もいなかったのが太夫。美貌はもちろん高い教養が求められ、なんと時計を直せるかどうかまで求められたという。
紙洗橋に差し掛かると「冷やかし」の話。ここにはかつて再生紙の職人たちがいて、再生紙を溶かして冷やす。冷ます間にちょっと吉原の遊女をからかいに、これが「冷やかし」の語源だという。
暗渠と並行して走る土手を日本堤という。水害から守るために作られた人工の堤防。
八代将軍吉宗の時代から8代続くという提灯屋「土手大嶋屋」へ立ち寄る。
かつて遊客が振り返って名残を惜しんだという「見返り柳」は江戸から六代目。大きく曲がった道の先に吉原大門があり、そこからの直線道路が仲之町通り。

そんな感じで吉原探訪が進んでいく。



   ▼吉原を発祥とする「さわぎ唄」