
細川藤孝(幽斎)公は肥後細川家の祖であり文武両道に秀でた人だったそうだが、番組を見ながら、あらためて凄い人だったんだなぁと実感した。室町幕府の足利義輝・義昭両将軍に仕えた後、織田信長、豊臣秀吉に重用され、徳川家康が徳川幕府を開いた時には、武家の在り方をレクチャーし、さらには「古今和歌集」を後世に伝承する古今伝授の役割を担った文化人として天皇家からも大事にされたという人物。細川家は江戸時代、肥後熊本藩藩主として維新まで勤めた。室町時代から今日まで貴顕であり続ける稀有な存在となった細川家の礎を築いたのは藤孝公である。
※右の写真は水前寺成趣園の細川藤孝公像
これまで行ったことのある藤孝公ゆかりのスポットを振り返ってみた。
▼古今伝授の間

四百年ほど前、京都御所の中に建っていたという藤孝公ゆかりの古今伝授の間。
▼細川藤孝公御廟

泰勝寺跡(立田自然公園:熊本市中央区黒髪4)にある四つ御廟
▼鞠生松原(山口県防府市華浦2)

天正15年(1587)7月、この鞠生を藤孝公が訪れている。九州平定のために出陣した関白秀吉を福岡・筥崎宮で陣中見舞いした後、瀬戸内を船で帰る途中、山口見物をし、萩往還を通って周防国府(現在の防府)に入っている。この旅の様子は「九州道の記」に次のように記されている。
―― 十日、山口を出で、国府天神へ著きて、まりふの浦近き田しま迄、船のまはるを待ちて休み居たるに、當社の供僧圓楽坊、発句所望ありて、一面なりとも連ぬべしとて興業あり。入相の時分より初まりて、夜半過ぐるほどに百韻満じける。其時船著きたる由注進あり。天神の御計らひとて、衆徒喜ばれける。
色わけよまつこそ風の手向け草
田しまの港にて、まりふの浦を見るに、網の多く掛け干してあれば、
真砂地にあみ張り渡しもて遊ぶまりふの浦の風もたえつゝ ――
乗船する船が田島の港に着くまで鞠生の浦で休んでいたが、防府天満宮の供僧の申し出で連歌の会を催し、夕方から夜半過ぎまで百句を連ねた頃、船がやって来たようだ。幽斎公はやはり相当名高い歌人だったと見え、旅の各地で歌を所望されている。
今から40年前、2年半暮らした山口県防府市。自宅のすぐそばに鞠生松原があった。この鞠生は昔の海岸線。干拓による新田開発が進められて今では海岸線はずっと南の方に移動したが、その名残りとして松原が残っている。