徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

漱石と済々黌

2015-12-02 18:03:19 | 文芸
 昨日に続いての漱石ネタで恐縮だが、昨年11月、ホテル熊本テルサで行われた「“SOHSEKI”トークス 熊本の漱石」におけるトークショーで、パネラーのお一人が、熊本時代の漱石が、五高と済々黌を掛け持ちで授業をしていたという話に、記録も残っていないし、当時の漱石の状況からみて考えにくいと否定的な見解を示された。
 最近、調べることがあって、昭和37年に行われた済々黌創立80周年の記念誌を読んでいたら、下記の記事を見つけた。なんと、実際に漱石から授業を受けた済々黌の大先輩の寄稿だった。
 自分が知り得た情報だけで軽々に判断を下すことへの戒めとして、以て他山の石としたいものだ。

明治三十一年卒 奥村政雄

 明治26年の春、十五才で下益城郡高等小学校を卒業、すでに兄のいっている済々黌に入学した。はいってから一、二年は、いわゆる“済々黌兵学奥義”と称するものを上級生から指南を受けるのが主で、勉学の方はみるべき進歩はなかった。この奥義なるものは、いわば“けんかのコツ”で、機先を制することとか多勢に無勢のときは頭を下げた方が無難だ。ひきょうなまねはするな、などいったけんかの手ほどきであった。当時は、今ならはしごをかけても乗り越せそうもないところでも軽々と飛び越したり、屋根、板べいなども乗り越すなど存分にきたえられた。もともと熊本地方は、質実剛建の気風の強いところで、済々黌の校風もやゝ蛮風がかったところがあった。
 私の二年在学中に九州全体の中学校の統合が行なわれて九州学院が誕生した。済々黌は九州学院普通部となり、われわれのけんか相手であった熊本医学校や英学絞もそれぞれ医学部、文学部となった。医学部は卒業すると開業医の資格がとれたから医専というわけだろうが、文学部には佐々木蒙古王というあばれん坊でのちに代議士となった人が在籍していた。
 しかし、この九州学院も私の三年末ころ解散になり、ここにはじめて熊本県中学済々黌となった。このときの校長は八重野範三郎、教頭にはのちの全国中等学校長会議長になられた東京高等師範出の井芹経平という人が赴任してきた。
 前にも記したように、済々黌は伝統的に武道偏重のきらいがあり、どちらかというと英語などは毛唐のことばとして軽くみるところがあった。そのうえ、中学時代は間に合わせというか、旧幕の流れをくむ先生方が多く、中にはKnife(ナイフ)をローマ字式にクニフェと発音したり、図画の時間には画用紙を真黒に塗りつぶして「ヤミ夜のからす」として出したら、なるほどといって百点をくれたなどという話がほんとうにあったのである。
 井芹教頭は高い見識と抱負を持った人で、こうした旧式の教授法をしだいに改善し、近代的教育に切り替えていった。井芹さんが校長になると、今川覚神先生が教頭になられた。今川先生はのちに明治専門学校校長になられたが、理学博士で非常に頭のいゝ人だった。私が四年のとき五高で「地震の話」という講演をされたが、その中で先生は「地震はなかなか予知できない。しかしこれから先人間の知識が進んでもし予知する機械が考案されれば、われわれは前もってこわれやすいものをタナからおろし、用意万端ととのえて地震のおいでを待っていることができる。それでは地震の方でもせっかくやってきたかいがなかろう」と、かいぎゃく混じりの話をされ、私は非常に感銘を受けたことがあった。
 中学時代の思い出の一つは、夏目漱石先生から英語を習ったことである。当時五高の校長は講道館柔道の嘉納治五郎さんであったが漱石は五高の少壮教授として迎えられ、済々黌の講師を兼ねていた。それまでのわれわれは、英語らしいものを習うには習ったが、漱石によってはじめてほんとうの英語に接したような気がした。しかし夏目先生としては「こいつらに英語を教えてもわかるまい」という気持ちがあったのか、英語そのものよりもシェークスビヤやモンテクリスト伯ジャンバルジャンの話などをしてくれた。われわれもそれが面白いので「先生、なにか話をして下さい」と頼むと「さて何を話そうか」と十分なり十五分はそういう話を聞くのが常であった。いま思うに、夏目さんは熊本時代に俳句にみがきをかけられたのではないだろうか。熊本市内の北部は俳句の盛んなところで、夏目さんのお住まいの近所にも同好の士がたくさん集まっていた。後年こういう人たちで、“坊っちゃん”や、“吾輩は猫である”に登場した人物が少なくなかったと思う。済々黌時代のテキストは英語はもとより、数学でも原書を使った。たとえば代数はトドホンターのアルゼブラで、いま考えてもなかなか程度が高いものだった。だからまじめな者は語学がどんどん上達するしくみになっていた。
『日本経済新聞私の履歴書より』
日本カーバイト社長

※写真は上が明治31年、大江の第三の家に住んでいた頃の漱石夫妻
 下は、松山から熊本に移る明治29年春に撮影された漱石(当時28歳)


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