「ミシュランガイド 京都・大阪」が発売され、ちょっとした波紋をよんでいますね。「味」だけに着目し格付けすることは、京都の料理文化と相容れないと。
三つ星の評価が与えられた料亭「菊乃井」に、以前行ったことがありました。通されたのは、東山の山襞がせまる簡素な茶室。こざっぱりとした室内意匠でありながら幽玄な光に満ちた、美しい部屋でした。
抜きんでるものなく抑制と調和の効いた色彩の部屋のなかで、盆の上の器や料理の、鮮やかな、あるいは渋い色彩が際立っていました。その雰囲気のなかで料理をいただく時間そのものが、妙な言い方ですが、文化の記憶のなかに身を沈めていくような、そんな感覚でした。
いろいろな地域から運ばれてきた食材に、あらゆる手をかけて美を見出す。その道筋は時に宗教や思想とともにあったわけですから、美食の捉え方も、味覚とはまた別の価値観があることでしょう。精進料理をいただきながら、何を想うか。同じように、懐石料理をいただきながら、どんなことを想うか。きっと食材の取り扱い方にうんちくを並べることだけでは読み解けない、精神的な意味での深みがあるのだろうと想います。
京料理の評価をめぐる論議。もてなしのすべてが文化だとする主張が、世界に通用するかどうか。ただ、もてなしのひとつに、料理の背景としての室内や庭があるとするならば、僕も建築家として文化に深く関わっていきたいと思います。京料理のように、渋く奥行きのあるものとして。