ヴェネツィアの悲しみ

2010-01-25 15:19:45 | 

先週の土曜日の朝日新聞「be」に、作曲家ビバルディのことが書かれていました。17~18世紀にかけて、ヴェネツィアに生まれ、愛され、そして捨てられた一人の作曲家として。
 ビバルディはいまだに謎の多い人物だそうで、有名な「四季」以外に、800以上の曲を生涯でつくり、いまだに毎年のように新しい譜面が発見されているそうです。
 ヴェネツィア・オペラの牽引役として一世風靡をしながら、新しいナポリ・オペラの流行に追いやられ、新天地をウィーンに求めたものの、人生の寂しい最期を迎えたそうです。そのウィーンで没した状況もほとんどわかっていない、とのこと。
 でも史実として残っている、ビバルディのもうひとつの顔。それは、ヴェネツィアの孤児院で40年以上にもわたり少女たちに音楽を教える教師だったこと。音楽という希望。その演奏会はレベルが高く、欧州中から音楽好きが集まってきたほどだったそうです。
一人の人間の影と光。それが、都市ヴェネツィアの悲しみと希望に、ゆっくりと溶け込んでいくような心持ちになります。

作家・須賀敦子さんが、ヴェネツィアについてのエッセイを遺しています。ある一つの謎を追いかけていったときに発覚した、梅毒にかかってしまった娼婦たちが押し込められた、悲しい施設の話。その窓から対岸に希望のような存在として見える、建築家パラディオがつくったレデントーレ教会のこと。

「思いがけなく、ひとつの考えに私はかぎりなく慰められていた。治癒の望みがないと、世の人には見放された病人たち、今朝の私には入口の在りかさえ見せてくれなかったこの建物のなかで、果てしない暗さの日々を送っていた娼婦たちも、朝夕、こうして対岸のレデントーレを眺め、その鐘楼から流れる鐘の音に耳を澄ませたのではなかったか。人類の罪劫を贖うもの、と呼ばれる対岸の教会が具現するキリスト自身を、彼女たちはやがて訪れる救いの確信として、夢物語ではなく、たしかな現実として、拝み見たのではなかったか。彼女たちの神になぐさめられて、私は立っていた。」  須賀敦子「ザッテレの河岸」より。

今は人工的に照明されているこの教会も、これが設計された16世紀には夜には闇に包まれていたことでしょう、月夜にだけ、その外観が治癒の約束のように白く光り輝いていたのではないか、という印象を、須賀さんは別のエッセイで語っています。須賀さんからパラディオについての話がでてくるのは想像だにしていなかったけれど、僕が学校で習った大建築家パラディオ「論」のどれよりも、はるかにパラディオの遺した建物の存在意義を感じさせられる文章でした。

数年前に僕が訪れたヴェネツィアは6月。暑く、混雑し、快活で楽しい場所でした。そんなヴェネツィアに秘められた、多くの悲しみ、そして希望。ビバルディの曲やパラディオの建築を、ただ漠然と「芸術」として楽しむのではなく、それらが背負っているものを感じ取れたら、と思います。

ヴェネツィアを撮った写真集は数多くありますが、僕が好きな写真集のひとつがこれ。F.ブローデル著「都市ヴェネツィア」(岩波書店)。たまたま手に入れたものですが、「銀残し」の風合いのある写真にメランコリックな情趣が漂い、先ほど述べたところの、悲しみや希望、そういったものがページをめくるごとに静かに織り込まれているような、そんな写真集です。

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ライブ・アルバムを聴きながら。

2010-01-19 22:52:57 | 音楽

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最近、ずっと聴いているCDがあります。
Eva Cassidy「Live At Blues Alley」。33歳という若さで癌で夭逝した女性ミュージシャンです。施主のOさんが「趣味の押しつけ」と笑いながら渡してくれた1枚。僕がリッキー・リー・ジョーンズが好きだと言ってたら、ちょっと退廃的なジャケットなんかも好みなんじゃない?と。いやあ、すっかり見抜かれてます(笑)。

カバー曲を中心としたライブアルバムで、原曲がジャジーにアレンジされているのもカッコイイし、ちょっとハスキーな声と歌いまわしが、直に心に触れてくる。そんなミュージシャンに久々に出会ったという感じ。
ライブアルバム特有の、即興的で自由な雰囲気を楽しみながら、現在設計中の住宅の模型を作ったりしています。ライブとは逆に、設計の仕事は、入念にじっくりと検討して、3歩進んで2歩下がる、といった遅々とした進行具合です。もちろん建築家のなかにも、即興的に描いたスケッチがとても魅力的、だとか、工事現場で、その瞬間のひらめきでデザインを変更したり、といった人もいるのだろうと思います。僕の場合はというと、うんうん唸りながら図面検討をし、現場ではデザイン変更することはあまりありません。即興的につくっていく才は無い・・・と自覚しています。だから、即興で曲をどんどんつくったと言われるモーツァルトというより、20年かけて1曲つくったブラームスのような曲の質を、自身の設計に求めたいと思います。もちろん、住宅設計に20年もかけるなんてあり得ませんが(笑)

夭逝歌手の、即興性のある才能と個性に憧れを感じながら、作り上げたこの模型。さて、じわりと味がでてくるものになっているだろうか。そんなことに思いを馳せたりもしています。

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かすみ草から始まること

2010-01-11 20:43:52 | 日々

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正月用に玄関に飾っていたかすみ草。他の花と一緒に活けてありましたが、今はかすみ草だけが残って活けてあります。普段はドライフラワーとなったものを、模型の樹木表現に使うことも多いのですが、本来の姿をあらためて眺めたのはひさしぶりでした。
 青みがかった釉薬の花器に、うぐいす色の細い枝が綺麗な直線で枝分かれし、白い小さな花は幾重にも花びらをもち、静かな陰翳を宿しています。そのまわりでこれから咲かんとする小さなつぼみは、何かを一身にためこんだように丸まり、とてもかわいい。そこに、天窓から光が静かに降り注いでいる、そんな情景。
 決して目立つ草花ではないし、主役を張るような存在ではないのですが、美しいなと思います。「日本的」な心情を言葉で定義するのは難しいですが、今、目の前で見ているこの情景の色や姿かたちのニュアンスは、やはりどこか日本的な、というべきものなのだろうと思います。
 最近になって、少しずつ日本画が好きになってきました。寺が好きなのは、仕事のせい?ということもあるけれど、そのうち、仏像なんかも好きになってくるのかな。日本で、京都で生まれ育つ中でできあがった価値観の回路が、年を追うごとに少しずつスイッチオンされてきているのでしょうか。そしてそれは、ひろく共有できるはずの感覚なのだろうと思います。

年末年始に、新聞やニュースでは世の閉塞感がさかんに言われていました。たしかに経済的にはそれを実感するけれど、そんななかでも、心の豊かさをを大切にしたいですね。あらゆるものが満たされていなくても、その日常のなかに、豊かに思える感情はあるはずだと思います。日本的な美意識って、日常のなかにおのずと含まれている豊かさを見出すことにあるように思います。足りないモノを足していくような在り方ではなく、たんなる日常が豊かなものだと感じ取れるような居場所を、ひとつずつ創っていきたいと思います。日常こそが美しく豊かで幸せであると感じられなければ、世の中はずっと無いモノねだりの不足感のままだと思うのです。

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小さな模型の大きな役割

2010-01-05 10:53:53 | 住宅の仕事

明けましておめでとうございます。今年も、このブログにぜひお付き合いくださいますよう、お願いいたします。

年初めにあたって何を書こうかな~と考えていたら、ふと模型の山が目に入りました。そこで撮ったのがこの一枚。

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実はこれ、昨年一年間で案をつくった、いくつかの仕事の模型です。と言っても、クライアントにお見せするプレゼンテーション用のものではなくて、検討用に作った、言わば建築家自身のための模型。だいたい縮尺は1/100で、短時間でサッと作ってしまうのがポイント。おかげで、アップでは見せられないほどの恥ずかしい出来です(笑)。でも、模型を見ながら何かを想像するためのものですから、これでいいのです。

 

ひとつの仕事で、いくつもこういう模型をつくります。何となくいつも気に掛けているのは、次のとおり。

敷地の隅々まで居場所と風景をつくりたいから、敷地までつくる。木も植える。

植えた木が映えるように、背景としての外壁は左官塗り。だから色エンピツでそれらしい色を塗る。なんとなく左官のコテの塗り跡もイメージしつつ。

中味は白。一番いい光がはいる雰囲気をイメージして、壁に穴をあける。穴から覗き込むと、美しい陰翳が宿りそうかどうか、なんとなくわかる。

 

そんな風にして模型をつくると、パッと見には、全部同じような雰囲気の模型に見えます(笑)。そしてどれも窓が少なそうに見えます。(でも、実際に家ができると、じわりと明るい家になるのですが。)

住宅設計の仕事に、正解はありません。だから、何か確かなものを見つけたいという気持ちが、そのまま模型をつくる原動力にもなります。いくつもいくつも作りながら、自分がよいと思えるものをしっかりと見定めていかなくてはなりません。だから設計には時間がかかるし、忍耐力も必要だと思います。その忍耐力と情熱を持続することを、まず今年のはじめに誓いたいと思います。

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