窓辺の場所

2010-02-25 11:01:20 | 旅行記

居心地のよい窓辺の場所について、普段からよく考えています。たとえば、たまたま入った喫茶店やレストランで、あるいは旅先のホテルで。

大きな広場や空間があっても、落ち着くのは、その真ん中ではなくて端っこの窓辺だったりします。内と外が出会う場所。そこには本来、人を惹きつける何かがあるのだと思います。

昔々の日本の家屋は、床があって大きな屋根があって、その間の吹きさらしの部分を板戸や襖や障子で仕切っていましたが、そこには「窓」という概念はなかったのだと思います。壁の中に穿たれた「穴」。窓をそのように定義するのなら、日本の家屋に初めてそれが登場したのは、茶室の空間であったように思います。壁で囲われた暗い空間のなかに、光が差し込み、外の風景が印象的に切り取られること。普段、漠然と見ている風景も、窓を通して切り取られた姿としてみると、何か特別なもののように感じられることも少なくありません。

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以前、ポルトガルを旅行したときに、印象的な窓辺で時間を過ごしました。ポルトという町の小さなホテル。壁がうんとぶ厚くて、カーテンから窓ガラスまでの間に椅子が置けてしまうような、そんな窓辺。部屋のなかのもうひとつの小さな部屋のようで、居心地のよい場所でした。その窓辺は広場に面していて、古い教会が見えました。ライトアップされた教会と、時折行き交う人々を見遣りながら、日付が変わる頃から深夜しばらくその「特等席」で過ごしていると、自分自身のためだけに用意された場所のように思われてきて、ずっと座っているのに飽きることなく離れがたかったように記憶しています。

世の中にそっと用意された、自分だけの場所。そんな場所をいろいろ見つけていきたいし、設計する住宅にそっと作りこんでいきたいと思っています。

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オキーフの家

2010-02-17 20:31:57 | 

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ジョージア・オキーフという20世紀を代表する女性の画家がいます。彼女はアメリカ・ニューメキシコ州の荒涼とした土地で、日干しレンガの家に暮らしながら、素晴らしい絵画を次々に描き残しました。ニューヨークに暮らしていた彼女は42歳でこの土地を訪れるや、ひとめで魅せられてこの土地に移住し、98歳で亡くなるまでの実に40年もの間、ここに暮らしたそうです。

オキーフが暮らした家を、美しい写真と文章で綴った一冊の本。「オキーフの家」と題されたこの本に僕が出会ったのは、僕がまだ師・村田靖夫のアトリエで所員として仕事していた頃でした。
 思い切って端的に言ってしまえば、この本は、僕にとって理想の住まいを表したもの、そんな風なものでした。学校でずっと教わってきた学問としての建築や、あらゆる理念やデザインの潮流などとは価値を異にしながら、僕の心の深いところにずっと居座っていたのは、カタルニア・ロマネスクとよばれる素朴で初源的な古びた教会堂のある風景・・・。写真家・田沼武能さんの写真集をくりかえし眺めながら、僕自身にとって本当に大切にしたいことがらを、ひとつひとつ確かめるように考えてきました。

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生活のなかの、たんなる断片。それらのなかには、おのずと美しさと、かけがえの無さが含まれているはずだと、そんな風に僕は思っています。他人の目にはそう映らなくとも、ある個人にとってはかけがえの無い存在や場所。そういうことに、僕は心惹かれます。そして、この「オキーフの家」には、それがぎっしり詰まっている、そんな風に思うのです。

オキーフがこの家でとりわけ気に入っていた、黒いドア。その前に咲き乱れるサルビア。強烈な日差し。ゆらめく影。砕け散る光。家のなかの簡素な事物。ささいな生活のシーンの断片ひとつひとつが、まるでオブジェのように美しく、何かを物語り、かけがえのないもののように感じられます。そんな在りようを、僕は望みたいと思っています。

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村田さんのアトリエで僕が最初に設計を担当した、老夫婦Mさんの終の棲家。これまでにいくつか集めてきた、優雅な様式の家具。アーチのある南欧の風景の記憶。長年住み慣れた家にあった、古びた荘重な照明器具、どっしりとした木製の玄関ドア。できればそれらを新しい家に活かせないだろうか。そんなMさんの思いは、僕にとって願ってもない素晴らしいご要望でした。まさに、オキーフの家のような、そんな予感がしたのです。
 モダンでシンプルなデザインを信条としてきた村田さんにとっては、それらの存在は願わしいものではなかったようです。それらの存在を空間のなかで印象的に取り扱いたいと僕は主張し、村田さんにはものすごく叱られました。そのようなこともあって紆余曲折を経てできあがったプランは、もちろんモダンでシンプルな村田さんの作品のテイストに落ち着いたのだけれども、吟味して選ばれた箇所に配置された、それらの記憶の断片は、それ自身がかけがえのない存在感をもたらしていたように思います。
 古びた愛着のある玄関ドアは、新しい家のキッチンの勝手口に据えられました。そのドアを開けると、Mさんが楽しみにしていた、薔薇を育てる小さなキッチンガーデンを見晴らせます。「ここを開けて座ってる時間が好き。ちょっと行儀悪いかもしれないけど」と笑顔で話されるMさんを見ながら、オキーフの家をつくることができたのだと、僕はこっそり胸の内で思っていました。

 
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小村雪岱

2010-02-09 12:10:00 | アート・デザイン・建築

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時として絵画のなかには、かけがえのないほど美しい風景や場所が現れるときがあります。埼玉県立近代美術館で開催中の展覧会で、はじめて観た小村雪岱の絵は、僕にとってそんな絵でした。
 手元にいくつかの、小村雪岱の絵はがきがあります。抽象的に分割された画面構成のなかに、それぞれの室内外の光景が描かれています。

青柳を透かして見える瓦屋根と左官塗りの壁。濡れ縁。畳。その上に置かれた三味線と鼓。

室内を断片的に切り分けた構図のなかに現れる、月夜のなかの女。襖の向こう側の闇。そして衝立の奥に感じられる明るい灯りの気配。朱色の棚。畳に忘れられた扇子。

外に差し出されたテラス。外に向き合う文机。落葉に覆われる世界。

光も影も描かれず、実在しているようでありながら、決して実在することのないであろう、抽象的な世界。でも、そこに描かれる事物は、とても細密で具象的です。

抽象と具象。絵画芸術の誕生以来ずっと論議されてきたこの二つの概念の間を、小村雪岱の絵は行ったり来たりしながら漂っています。

ものごとの真実を表現しようとするとき、目の前にあるものを写実的に置き換えようとするのではなく、
部分的には省略し
部分的には誇張し
そうして嘘でできあがった画面のなかに、真実らしさを漂わせることが大切だと、小村雪岱は言います。
 それはきっと、「型」をつくることにもつながっていくのだと思います。そういえば柳宗悦も茶道論のなかで言っていました。直心の交わりにあたり、余計な要素を排し、所作を煮詰めていくことで「型」に入る、「型」に入ることで、ものごとは美しくなろう、と。映画「おくりびと」でも、その美しい所作が話題になりました。それも「型」に入った姿なのだろうと思います。

小村雪岱の絵も、「型」に入った姿なのだと、僕は思います。日常の光景をつくる断片ひとつひとつを等価に扱いながら、時に省略し、時に誇張し、もっとも美しいかけがえのない日常の瞬間をつくりだす、そんな「型」の絵だと思います。室内の描かれた構図にことさらに惹かれたのは、僕が建築家だから、ということもあるかもしれません。でもこれらの絵は、建物のデザインだけでは到底かなわないような、日常への徹底した美意識に貫かれているように思います。それは特殊なことではなく、むしろ日常のなかに本来おのずと含まれているような美。それを浮かび出せるというのが、小村雪岱の仕事だったように思います。
 そしてさらに素晴らしいのは、これらが「芸術」として描かれたというよりは、庶民が手にする本の装丁や挿絵として描かれていたということ。内面の吐露としての絵ではなく、人々の心に「伝わる」ものとして描かれていました。そんなところにも、小村雪岱という画家の奥深さを感じます。



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雪あかり日記

2010-02-02 22:34:16 | 日々

東京に雪が降りましたね。

雪が降っていいことばかりではないけれど、温暖化が叫ばれる中では、本来の冬の姿を取り戻したような、そんな印象とともに、ちょっとした安心感もおぼえました。
 いつものように昼食をとり新聞を読む空間が、ちょっと明るい。それはきっと、庭先に残った雪に反射した光のせいでした。雪が降ることで変わる日常。

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 庭木の枝葉につもった雪がとけ、なんとなく庭を見ていると、老いた梅に花が咲き始めていました。まだしっかり咲く前の、微妙な瞬間。

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もう何十年も植わっている、皮一枚で幹がつながっているような、そんな老梅。その枝から新しい枝が芽生え、つぼみがついているのを見ると、なんともいえず心が動かされます。
 最近にはめずらしく寒い冬の日に、たしかな春の訪れを感じつつ。

そういえば、知り合いの庭師が言っていました。梅が植わると庭は和風になるんだよね。
ヴェネツィアの話の次に書く話が梅。一気に日本の話ですね。華やかさとういう点ではわからないけれど、和の木には、日本人の心に直接響くなにかがあるような気がします。そしてそれがずっとあり続けるということにも、大切な意義を感じます。

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