自宅の近くに、好きなフレンチレストランがあります。気軽に入れるお店ですから、ビストロとよぶのが正しいのでしょうか。初めてそのお店を見つけたのは偶然でした。自転車に乗って走っていると、「気配に呼ばれる」ようにして、いったん通り過ぎたのを店の前まで戻りました。
少し古いマンションの1階の店構え。小豆色に塗られた壁にシンプルに窓が横長に開けられ、そのなかには、真っ白なクロスが掛けられたテーブルに、カトラリーが印象的に鈍く光っていました。時間はまだ朝、開店前でした。客席には電気はまだ灯されず、朝日がそっと忍び込む室内は時間が止まったようで、どこか神秘的で、そう、シャルダンの静物画を観るような思いでした。
「発見」からしばらく経って、それでも気になって食事に行ってみた時に、はじめて壁・天井がすべて真っ白に塗られ、いたってこざっぱりとしたシンプルなインテリアであることがわかりました。ちょっと狭い店内で、テーブル間隔もやはりちょっと狭め。でもそれが心地よく感じられるような、ちょうどよい案配でした。
低く吊り下げられたテーブルランプ。使い込まれたカトラリー。親密なスケール。美味しい料理。それ以外の余計なものはいらない、と言わんばかりの体裁は、むしろ今まで経験したことのないものでした。要素が少ない分、そのひとつひとつの存在が際立っているようでした。
ある朝から、そのお店の窓にはカーテンが閉められたままになってしまいました。開店前のひっそりとした人気のない時間に、朝日がそっとさしこんで、清潔なテーブルクロスと美しく光るカトラリーを観るのが好きだったのに。この10年間で数度しか行かなかったけれど、思い起こすと心が温まるような時間と空間でした。
でもそのような場所がひとつ、なくなってしまいました。