今年はじめから連載エッセイを書かせていただいている住宅雑誌「ニューハウス」。10月号が手元に届きました。「家づくりは楽し」というコーナーで、毎回自由にテーマを決めて書かせて頂きました。ベテラン設計者の黒木実さんと交互に書くということで、気の利いた文章が書けるか少々不安でしたが、なんとか、やってこれました。
少しは文章力があがったカナ・・・と思った矢先、「ニューハウス」が今号をもって休刊になるとの連絡を受けました。75年間も続いた雑誌だそうです。75年前といえば、まだル・コルビュジエらが提唱した「モダニズム建築」が勢いをつけ始めていた頃。そんな時代からあった雑誌です。
永く続くということは、本当に貴重なことだと思います。老舗雑誌の休刊、本当に残念に思います。
先日、京都に日帰りで同窓会に行った際、せっかくなので足を伸ばして、高山寺に行きました。京都駅からバスで1時間弱、栂尾の山中にある小さな山寺です。
僕がはじめて高山寺を訪れたのは6年ほど前、写真家・土門拳の著作「古寺を訪ねて」(小学館)を見たのがきっかけでした。元旦。とても寒い日でした。土門いわく、「冬ざれの高山寺こそ、もっとも高山寺らしい真面目にふれる」そうで、その追体験を求めたのでした。
今回は、真夏。しかも猛暑つづきのまっただ中。紅葉の名所ですが、冬と同様さすがにこの季節も人はまばらで、蝉の声だけが延々に鳴り響きます。
土門はその著作のなかで、高山寺石水院の釘隠しについて語っています。とにかく、鎌倉時代からの風雪に耐えた愛らしい六葉の釘隠しをなでているだけで、心が落ち着くのだそうな。僕もついでに、釘隠しをなでながら、いろいろなことに思いを巡らせてみました。
建物は「間に合えばそれでよい」という簡素古朴な佇まい。しかも移築。全体よりも、ほんの小さな釘隠しのなかに、積み重ねられてきた長い年月を感じ取る。
それらはどれをとってみても、現在流布している建築学的な評価軸とは、少し距離があるように思います。しかしながら、とても簡素で美しく、これでいいんだ、と思えるような懐の深い雰囲気に満ちています。
建築を勉強し始めてから、大学ではいろいろなことを教わりますが、いつの間にか、建物の見方の判断基準がかたよってきているかもしれません。ひとつの寺に対してだって、建築学的な見方もあれば、写真家からの見方、あるいは宗教からの見方など、解釈の仕方も評価も様々です。盲目的になることなく、懐の深いモノの見方を養いたいものだと、盛夏の小さな古寺にて、つくづく思ったのでした。
先日、京都の小学校時代の同窓会がありました。今は東京暮らしで京都から離れているとはいえ、旧友に会うこういう機会は大切です。日帰りで強行出席(!)してきました。
会場は、祇園の料亭。幹事の知り合いがオーナーだそうで、その縁でその店に決まりました。その店は、いわゆる祇園らしい風情が残る一角にあり、のれんをくぐるのがちょっと勇気がいる感じ(笑)でした。比較的新しい店だそうですが、和室の内装など処理が上手で好ましい雰囲気でした。単に古く由緒正しいことを売りにするのではなく、料理・内装ともに質が高いことが、何よりいいですね。
写真は会場に向かう途中、鴨川・四条大橋の上から撮ったもの。真夏の夕暮れ時も、独特の風情がありますね。僕が小さい頃、誰かに「賀茂川(鴨川)は日本のセーヌ川や」と教え込まれた記憶がありますが、きっとそれは京都人の誇りの表れのようなものでしょう。
実際に比較すると、ふたつの川はずいぶん異なります。ただ、セーヌ川の岸壁が石で徹底的に人工的につくられた雰囲気がシックで美しいのに対し、賀茂川(鴨川)は植生が多く残されのどかな雰囲気があります。川を北方向を望むと北山の風景が印象的で、これが僕の原風景のひとつになっています。
最近は、真夏日つづきで、外にいるだけで汗がふきでてきますね。
一軒の家のなかでも、一日のなかの時間帯によって、日差しの強い場所、涼しい場所は移ろっていきます。
自由が丘の家では、西日の強い午後になると、中庭は多少日影になって、少し爽やかな風が抜けていくようになります。そこに登場するのが、そう、フォックステリアのロビン。よく言われることですが、イヌやネコは居心地の良い場所をよく知っています。
幾分涼しい中庭をうろうろしては、少し身をかがめるようにして見つめる視線の先にあるのは・・・。
大きな鉢。その中には水がたっぷり張られ、水草が浮かんでいます。バード・バスのつもりで置いたところ、ごく稀に小鳥が縁にとまるようです。夏の午後、少しタイクツ気味なロビンの遊び相手なのでしょうか。今日は来るか来ないか。ところで小鳥をいじめちゃダメだよ、ロビン。
ちなみにロビンはこんな顔。こりゃ暑いわ。