オキーフの絵から

2011-12-31 12:24:33 | アート・デザイン・建築

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秋に国立新美術館で開催されていた「モダン・アート,アメリカン」展に行ったときに購入した、一枚の絵ハガキの写真です。ジョージア・オキーフ作「葉のかたち」という油彩。画面からはみ出さんばかりに、草花をバンッ!と大きく描くのがオキーフ流。この絵を、ずっと眺めていました。

どこか抽象化されたカタチに思えます。でも記号的ではありません。

具象的な図像にも思えます。でも写実的ではありません。

つまり、抽象と具象の狭間の深いところに、この絵はあるのだろうと思います。

血が通るような葉脈の表現。鮮烈な葉の裂け目。でもその表現には、作者の感情移入は無いかのような、淡々とした表現です。それを観ていると、視覚的なことではなく、ものごとの「存在の在りよう」だけが抽出されているのかな、と思えてきました。それは、ものごとの本質を観ているような感覚でもあります。

この絵には物語性は感じられず、ただ観ることしかできません。ただ、形と色と質感があるだけ。その表情を確かめるようにずっと観ていると、だんだんと穏やかな気分になってくるから不思議です。

写真だとなかなか伝わりづらいですが、実際にこの絵を観ていることによって感じられる静けさや穏やかさ。絵画がもたらすべきもののあり方として、とても意義深いものを感じます。本当にいろいろなことがあった一年ですから。

また来年もブログによろしくお付き合いください。どうぞ良いお年を。

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残りつづけることに向かって

2011-12-25 17:46:12 | 日々

物をデザインする、という言い回しはなかなか難しいもので、常に前向きなイメージが伴いがちです。これまでに無かった新しいものを生み出す、といったポジティブな印象は、常に「個性的」であることとワンセットであったようにも思います。それが商売となれば当然のことかもしれません。でもその過程で、忘れ去ってきた、あるいは落としてきてしまったものも多かったのではないか、と思うことがあります。近代よりも昔、まだ芸術が宗教と一体であった頃、絵を描いたり彫刻を彫ったりすることに、個性など求められない時代がありました。個人的な表現を求めるのではなく、宗教的な含意を表出することに目的をしっかり定め仕事をしていた時代のことに思いを馳せると、どこか心地良い気分になります。

ロマネスクとよばれる教会堂は、そんな時代につくられました。今から見れば技術的にも稚拙で、土地の形状なりに曲がった間取りは、個人的な作為とは無関係につくられました。でも、それから何世紀も経て残り続けるそれらの小さな教会堂が、慎ましやかで物の理に背かない姿を今だに保持し、現在に生きる私たちの心に、すっと沁みるように感じられ、今だに使われ続けているというのは、とても示唆的であるように思います。建物の佇まいを見たとき、あるいは中に入ったときに、あ、これでいいんだ、と素直に思えるような感じ。そんな感じをつくりだすことは、案外に難しいことのように思います。

どんなに考えを重ねて物をデザインして造っても、年月を経れば古びるし、時代に即した実用性に合わない、ということになるかもしれません。それは物の宿命とも言えそうです。でも、日常のなかにすっかりとはまり込んでしまったそれらの物が、いつまでも愛らしく、独特の存在感をもっていたとしたら、それは先ほど言ったところの、あ、これでいいんだ、という感じに近いのだと思います。たとえば古びたドアや窓が、人の心にすっと沁みるものになるようにすることは、今後、ますます大切なことのように思います。日々の暮らしのなかの、ありふれたものこそ美しい。画家・ジョルジョ・モランディが描き続けた静物画のような、ものごとに対する美徳を大切にしたいと思っています。

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引き渡し

2011-12-19 19:50:21 | 青葉の家

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仙台に建つ「青葉の家」が、ついに引き渡しの日を迎えました。

3月の震災後、建物本体を着工しました。材料不足、人手不足のなか、無事に最後まで工事をすすめてくれた工務店には、本当に頭が下がる思いです。

引き渡しの日、あろうことか僕は、思いきり風邪をひいてしまうという失態!!をしてしまったのでした。なんとなくモウロウとしながらも、いつも以上に引き渡す感慨にひたってしまいました。

家具はまだ、無い。

植栽もまだ、これから。

でも、柔らかい陰影に彩られた、自然素材の素朴な質感が、5年後、10年後と時間をかけて、ゆっくりと味わいを増していく家になっていくことを予感させてくれました。

うーん、名残惜しかった。

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見えない窓

2011-12-06 18:46:33 | 旅行記

学生時代にスペインを旅行したときのこと。バルセロナ近郊のリポールという小さな街の、小さなホテルに泊まりました。そこで通された簡素な部屋の壁には、不思議な窓がありました。その窓のことが、それ以来ずっと心の片隅に残っています。

不思議な窓とはいっても、姿かたちが変わっているわけではなく、ただの四角い窓が3つあるだけなのですが、なぜかその存在に惹かれたのでした。

何がどのように良いのかがわからないので、実測をしてみることにしました。そのときのスケッチがこれ。

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天井高さは2メートル70センチ。そこに、高さ80センチの机が壁に造り付けられていました。窓の下端の高さは、そこからさらに40センチ強の高さにありました。床から測ると1メートル20センチ強の高さ。イスに座ると目線は窓よりも下になるため、外の風景は見えません。実測して、ちょっと高めの机に向かってメモをとりながら、ふと気づきました。もしかして、外の風景が見えないのがいいんじゃないか・・・?

窓からはいってくるのは、風景ではなく、光と音だけ。そして空の気配。上から降ってくるような光は机の上を優しく照らし出し、気持ちが集中するような気分になります。遠くから聞こえる鉄道の音や犬の鳴き声は、どこか旅愁を誘ってくれるようでした。

そういえばル・コルビュジエが両親のために設計した、レマン湖畔の小さな家にも、見えない窓があります。窓が高い位置についていて、湖を眺めるためには窓辺のステップをよいしょと上がらないといけません。僕は行ったことはないのですが、そこからの眺めは格別だとのこと。湖に面しているなら、湖が見えるように窓を開ければいいのに、とも思いますが、それがコルビュジエ流の「居心地のよい場所」のつくり方だったのかもしれません。もともとこの部屋は「納戸」と申請されていたようなので、法規上の制約があったのかもしれません。真相はわかりませんが、常に風景が見えているよりも、見ようと思って見る方が、印象が格別なのだろうと思います。

リポールのホテルの、座っていると風景が見えない窓辺。その窓辺で、机に向かってスケッチを描いている時間は格別でした。窓をデザインするということは、そんな時間をデザインすることでもあるのでしょう。

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