コンクリートの窓

2010-12-31 12:53:54 | 東山の家

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ゴリゴリ、ゴリゴリ。そんな鈍い音をたてながら、鉄筋が上下左右に組まれていきます。「東山の家」の現場の光景。

木造住宅の棟上げは、材木を一気に組み上げていくので、家が一気に形になっていく独特の高揚感と華やかさがあります。

一方で鉄筋コンクリート造の建物の現場は、1階分ずつの壁の型枠を建てこみ、鉄筋を組みながら、ゆっくり徐々に形が現れてきます。コンクリートを打設したら、上の階の作業へ。そんな風にして粛々と進んでいきます。冬の空に鉄筋を伸ばしながら、1階の窓の位置が徐々に姿を現してきました。この住宅は、茶室のある家。本来は木造である茶室とは異なり、コンクリートの厚い壁を通して自然光がはいってきます。コンクリートという頑強な構造体であっても、場所の雰囲気をつくる自然光は、やわらかく親和的なものにしたいと思います。そのために窓の配置やプロポーションを吟味してきました。重心の低い窓。障子を通した光。

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今月の芸術新潮で、「沖縄の美しいもの」という特集とともに、いくつかの美しい写真が掲載されていました。民芸的なものであるのだけれども、撮影時の程よい光のなかで、素朴な事物が内側からぼぉっと光るような美しさをもっているように感じられました。日常の生活道具が、そんな風に美しく浮かび上がる空間をつくりたいと、つくづく思います。フェルメールの絵画のなかの、自然光に照らされた事物のように、日常のなかにこそ美しさがある、というような。

同じ本のなかに、ある工芸作家のコラムがありました。四畳半の茶室を工房として、製作に励む姿の写真。にじり口の前に小机を置き、開け放ったにじり戸と連子窓からの自然光のなかで、象牙をカリカリと彫刻刀で削る姿は、とても趣がありました。本来の部屋の用途は茶室なのでしょうけれども、こじんまりとした美しい工房に見事に変貌しているように感じました。あるときは茶室。またあるときは工房。美しい光のある場所は、いろいろな使い方ができる懐の深さがあるのかもしれませんね。「東山の家」に、そんな懐の深さが宿ってくれることを思い描きつつ、今年の現場を終えました。

どうぞ、良いお年を。

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集まるカタチ

2010-12-23 23:30:13 | 富士の二つの家

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「富士の二つの家」の工事が進んでいます。

棟上げから一週間、棟梁を頭にして数人の大工さんの手によって、一気に形になってきました。大きな壁面をもつ、片流れ屋根の群造形。そんなイメージを目の当たりにして、建築家C・ムーアが設計したシーランチ・コンドミニアムのことを連想しました。シーランチは崖地に建って海を臨んでいるけれど、こちらは富士山を臨んでいます!・・・と言っても決して張り合っているわけではありません(笑)

この日のメインの打ち合わせは、庭に面した木製窓や板壁の作り方について。風合い、質感、いろいろな意味で、僕は住宅設計のなかに、なるべく木製の建具を使いたいと思っています。師匠の村田さんから教わった木製建具の勘所を思い返しながら、図面を引き、現場に持ち込みます。ただ肝心なのは、実際に大工さんが造れるようになっているかどうか、ということ。

こんな風につくりたいんです、と、工事監督と棟梁の前に図面を広げ、説明をしました。しばらくの間、沈思黙考。これはちょっと緊張する時間です。でもそのうち、棟梁が静かに二度三度、ゆっくりとうなずいてくれました。この現場が、うまくいってくれることを何となく感じ取れる瞬間でもあります。ほっとしました。

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夕方になり薄暗くなってきて、照明を点けての作業。工事中なのに、明かりがともった家というのは、どこかほっと和みますね。

上棟の際には、お施主さんが、工事関係者の皆さんのために、家の模型写真がはいったオリジナル・クオカードをつくってプレゼントしてくださいました。施工担当・富士木材の川口さんのブログにもありましたが、僕もこれはもったいなくて使えません(笑)

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石の光

2010-12-06 00:47:14 | アート・デザイン・建築

設計を手がけているいくつかの住宅の現場が始まり、具体的に「材料」に向き合う機会が増えてきました。どれもがまだ工事の序盤。一軒の住宅の骨組みとなる材木の塊に触れていると、そのぬくもりのなかに、木が生きているように感じるときがあります。文化が異なれば、異なる材料に、同じような感覚をおぼえるかもしれません。

石が光をとらえているだろう?

そう語ったのは、いつかテレビ番組で観た、クロアチアに生きる老練の石工でした。何の種類の石だったかは今となっては判然としませんが、切り出された大きな石の塊を、マルテリーナとよばれる素朴な道具で、小気味よいテンポで削り始めたのでした。ごつごつとした表面が、微妙な皺のような表情を徐々に帯び始め、画面を通してみても、石が輝きだしたのがわかりました。磨きだすのではなく、ノミで削ったような荒い表面なのに、光の微妙なニュアンスをとらえて、くるくるといろいろな表情を見せます。これは機械では絶対に出せない味なのだそうです。

それは、老匠いわく「石に光をあたえる」こと。石という材料が日常の傍にあって、そこに光が共にあるということ。そんな感性が、うらやましいぐらいに素敵だと思います。

クロアチアには石工を養成する学校があって、学生たちが毎日コツコツと石に向き合って修練しています。石を彫るというのは、どんな感覚なの?そんな問いかけに、20歳に満たない学生がちょっと考えて答えたのは、「石が僕に平穏をあたえてくれる」という言葉でした。

石に光をあたえ、石から平穏をあたえられる。

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リスボンの街を旅したとき、いろいろな石に出会いました。

砕かれた石が敷き詰められただけの、波打つような表情の歩道。あるいは、神に捧げられた至美なる彫刻で満たされた修道院。クロアチアのそれとはまた異なるのだろうけれど、ここにも光と平穏が溢れていたように思います。

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