住宅には玄関ドアが必要になりますが、思い返してみるとぼくの場合、防火規制が避けられないときを除いてほとんど、木製の玄関ドアをデザインしてきました。
防火用の既製品の木製ドアも発売はされていますが、できれば、自分で図面をひいて建具屋さんに造ってもらうオリジナルのドアがいいなと思います。
写真は、遠くリスボンの街にある、とある教会のドア。
教会ですから「玄関ドア」という呼び方はしっくりこないけれども、でも役割としてはそんな感じのものです。
日本の神社や寺のように、道路から何層もの門扉や結界をくぐりぬけて深奥にたどり着くのではなく、ヨーロッパの教会は、道路に面したドアを開けると、いきなり礼拝堂があります。
ドア一枚で隔てているだけだから、否応なしに街の喧騒が堂内に入り込んできます。
それでも、キリスト教徒ではないぼくにも、安堵感であったり静寂が沁みてくるのです。
その気分はきっと、この古ぼけたドアの前に立ち、開けた時から始まっているようにも思います。
ギイっと軋みながら開く音。長年の間使われ続けてすっかり黒ずんだドアノブ。歪んだ木の板。無数の傷。
そんなものを通り抜けることによって、心のどこかで、自分以前から続く時間の厚みが胸の内に沁み、変わらぬものがあることへの安心感にじんわりと満たされていくのだろうと思います。
引き戸のように持ち上げて取り外されるものではなく、もう離れませんよと言わんばかりに ちょうつがいでしっかりと壁につなぎ留められ、ついでにちょうつがいもしっかりと年季を帯びているような。
そんなドアが好みです。
ぼくにとって、木の玄関ドアをデザインすることは、そんなことへの憧憬なのだろうと思います。
耐震や断熱などのように、性能として住宅を評価できるものではないけれども、古びたドアのように、心のなかに関与してくることを大事にとりあげながら、住宅をつくりたいと思っています。