Yさんの絵

2009-04-27 17:58:32 | アート・デザイン・建築

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住宅「庭師と画家の家」のクライアントであり、画家のYさんが出展している展覧会に行きました。国立新美術館で開催されている「春陽展」。年に一回の大きな展覧会なのだそうですが、今年で第86回を数えるとのこと。その歴史に裏付けられるように、今年の展覧会も大作揃いで、会場に入った瞬間に気圧される雰囲気でした。プロの画家が腕を競い合う場、楽しい雰囲気というより、凄まじい迫力に満ちています。

そのなかのひとつに、Yさんの絵がありました。この絵は「庭師と画家の家」に飾るために描かれたものでした。大作群のなかでも、独特の画風が目を惹きました。しかしここは蛍光灯の白い光に満たされた、美術館の大展示室。そっと目を閉じながら、その住宅に掲げられた光景を想像しました。黒い床。白い壁。そこにぼうっと降る天窓からの光。そんな雰囲気のなかに、この絵が掛けられるはず。そう思うと、この絵の構成やマチエールが、とても生き生きとしたものになることが想像できて、とても嬉しい気持ちになりました。

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この展覧会に集結した大作の数々は、それぞれのアトリエで生み出され、ここに運ばれてきたものです。大きなアトリエ、小さなアトリエ。夏は蒸し風呂のような、冬は冷凍庫のようなアトリエのなかで黙々と描かれたものも多いことでしょう。それぞれの環境で生み出された絵は、少なからずそれらの背景を映し込んだものだと思います。六本木の国立美術館での展示は、当然華やかで晴れがましいことには違いないのだけれど、この白い蛍光灯の下の無味乾燥とした展示室で見られることが、果たして絵にとって喜ばしいことだったかどうか。

絵は額縁のなかで完結しています。ですから時代を超え場所を越え、いろいろな人の手を渡り、流浪していくこともあるでしょう。でもそれらの絵が最後に行き着く場所を、そっと用意してあげたいというのが、僕の希望です。展覧会という晴れ舞台とは別に、絵がもっとも静かにそして美しく浮かび上がるような場所を。

「庭師と画家の家」が、そんな場所になり得ていることを心から願っています。

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パリのアパルトマン

2009-04-19 19:27:31 | 庭師と画家の家

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春先に引き渡しをした「庭師と画家の家」に訪れました。

アプローチとなる前庭には、住まい手の庭師によって植栽がほどこされました。主木はアオハダ。左官塗りの壁を背景に、落ち着いた雰囲気になってきました。

内部にはダイニングテーブルが置かれ、ペンダントライトが取り付けられ、ひとつずつ、場所が形づくられてきていました。

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引っ越し後に訪れたご友人によると、天窓から光の降る階段を上がる感じ、素朴な天井の雰囲気、テーブル脇の小窓から街並みを見る感じなど、以前に暮らしていたパリのアパルトマンを思い出す、とおっしゃっていたそうです。たしかに、古びた陰影深いアパルトマンの屋根裏部屋に、ひっそりと飾られた絵の数々・・・そんなこともイメージしながら設計をしていましたので、とても嬉しい言葉をいただいたなと思いました。

この住宅は全体がギャラリーのような空間になっています。現代の住宅デザインらしいシンプルさとは少し距離を置き、さまざまなオブジェや絵が飾られるなかで立ち現れてくる独特の質感と雰囲気を、大事にしたかったのです。

階段の吹き抜け部分に飾られる大きな絵は、画家である奥様によって描かれ、今は展覧会に出展中です。そこから戻ってきたら、ついにこの家にかけられます。それから次第に、大小さまざまな絵が飾られていく予定です。一足先に、石膏の彫刻も随所に飾られ始めました。それは時に電話台になったり。若い頃の思い出が詰まっているという古びた石膏の彫刻が、静かな雰囲気の光のなかに係留されています。いろいろな思い出とか記憶とかが、ゆっくりと流れ出すように。

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新しい住宅でありながら、ずっとそこに在りつづけてきたような、古びた美しい雰囲気の空間であること。この住宅ではそんなことを求めました。少しずつそれが雰囲気として表れ始めたことに、ちょっと幸せを感じました。

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京都さんぽ7 ~雑木の庭~

2009-04-12 15:41:58 | 京都さんぽ

前々回のブログで書いたことの続きになりますが、京都には「見る」ための庭ではなく、「環境」としての庭がつくられ、残されています。雑木の庭に造詣の深い庭師の方に教えてもらって、今回の旅行で訪れた庭園が、東山にある無鄰菴。「むりんあん」とよびます。

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「見る」ための庭は、特に室内から見たときに美しくみえるよう、整った形の樹木を選び、バランス良く見えるように構図を決めて配置していきます。それに対して、「環境」としての庭は、クヌギやコナラなどの雑木を多用します。雑木というのは形も細く曲がっていたりして、従来の日本庭園にとっては、まったく価値のないものとして扱われてきたものでした。これらを思い切って6,7メートル以上の高さのものを、ある間隔で植え、上の方には葉を残し、下の方は枝をはらうと、おもいがけないぐらいに地面にはゆったりとしたスペースができあがります。そう、小さなテーブルとチェアを置いてお茶を飲んだり本を読んだりするのにちょうどいい感じ。上を見上げると葉がざわめき、緑を通した光線が心地よく感じられます。冬には落葉するので、地面には明るい光が注ぎます。

シンボルツリーなどがあるわけではないので、庭の中心もありません。だから、庭木が一番よく見える特等席があるわけでなはく、すべてが居場所になる感じ。もともと雑木を用いた自然な庭ですので、逆に掃き掃除もこまめにする必要もないようです。

季節ごとの熱環境をコントロールするのに、雑木の庭を採り入れるのは良い方法だとも言われます。たしかに、人間の知恵で、技術力で、人間の住む環境をコントロールするよりも、なるべく本来の自然の力に委ねる方が、地球にすまわせていただく、という謙虚な感じでいいかもしれません。

思い切って建物の際に雑木を植えると、窓のそばで葉がそよいでいる光景も心地よいでしょうし、細い幹が互いに重なって、フレームを切り取るように風景が見え隠れするのも、おもしろいと思います。

まだ4月ですが、あっという間にどんどん暑い季節になっていきます。窓際の庭木によって遮光や遮熱の効果もあるでしょう。それはなるべくエアコンを使わずに涼風を呼び込む工夫にもつながっていくことでしょう。そのためには、それを実現するための敷地内のプランの検討が不可欠なのですが・・・。

いつのまにか、建物と庭、という風に分かれて捉えられることが多くなってきていますし、建築に関する学校教育も、建物の力でものごとを解決しようとする観点がいまだにほとんどです。前近代の時代の価値観に目を向けると、むしろ新しい発見があるような気がしてなりません。

無鄰菴、勉強になりました。

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パリと骨董

2009-04-03 16:07:23 | アート・デザイン・建築

雑誌「芸術新潮」の今月号の特集は、「パリと骨董」。僕は特に骨董趣味もないし目利きでもありませんが、「パリ」と「骨董」という組み合わせ、そして味のある表紙や中味の写真に惹かれ、またもや今月号を購入。いろいろと難儀な論戦が繰り広げられそうなテーマでも、ほどほどにお軽く、素人目線を意識した適度に茶化したコメントを織り交ぜつつ、美しい写真と味のあるエッセイでうまく構成してくれるのが、この雑誌のいいところ。それに釣られついつい買ってしまい、いつの間にかだいぶたまってしまった・・・。

さて。パリと骨董といえば、パリの下町クリニャンクールの蚤の市を思い起こす人も多いのではないでしょうか。実際に「芸術新潮」でもそのことが取り上げられていて、界隈のいきさつからはじまって、最近の名物商人のことなども紹介されていました。

僕自身は、12年前にはじめて海外旅行に行ったときに、クリニャンクールの蚤の市を訪れました。とにかく見る風景がすべて新鮮に目に映ったときのことですから、この市場でも、やたらと写真をパチパチとって、一生懸命スケッチをしてまわった記憶があります。そして、記念にひとつだけ何か買って帰ろうといろいろ物色してまわったのですが・・・蚤の市とは言っても、今はなかば観光客相手の商売、単なる雑貨が必要以上の値段で売っていました。なかには本当に貴重なものもあるのでしょうけれどもね。

結局、僕が選んだのはこの燭台。

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とりわけ怪しそうな店で、怪しそうな物があれこれと並んでおり、そのなかで妙に味を出しているように見えたのでした。実際のところ、これがどういうものなのかはわかりません。古くから使われてきたことは間違いなさそうでしたが。パリのどこかの廃屋で拾われてきた、ような。時を味方につけて、この単なる真鍮の燭台は、静かな存在感をたたえています。

日常にある、たんなる物が、美しいものに思える。誤解を恐れずに単純に言えば、骨董のもともとの魅力はそんなところにあるかもしれません。そう考えれば、普段僕が使っているお箸やお皿、コップ、テーブルやソファだって、そしていつも眺めている緑だったって、ぜんぶみんな「骨董品」として高い位を授けられるのかも知れません。

とまあ、それは言い過ぎですが(笑)、でも、物には、デザインや値段とは異なる価値が備わってくると思います。それは使い続けたり存在し続けたりすることで、個人にとっての思い入れなどの特別な価値のことです。他人の目にはたんなる普通の物に見えても、別の人には特別な物に思えるかも知れない。物の姿かたちは誰の目にも同じですが、それを通して何かを連想したりイメージさせたりする物は、より味わいの深い「物」と言えるのかも知れませんね。普通だけど、普通じゃない物。イメージのなかで、奥深い何かが流れ出す物。そういうものを意図的にデザインできたら素晴らしいなあ、と、常々思います。カタチが同じであるならば、その置き方や見せ方で、そんな雰囲気はつくることができるかも知れません。そういう置き方なり見せ方をつくれるところも、建築がもつ大きな可能性かなあと思っています。

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