学生時代に、ある一冊の本に出会いました。「林檎の礼拝堂」と題されたその本は、美術家・田窪恭治さんが、フランス・ノルマンディーにわたり、廃墟と化していた小さな礼拝堂を、作家活動を通じて再生させていくプロセスが記されたものでした。
床一面に敷き詰められた錆びた鉄の量塊。
壁一面に描かれた林檎の絵。
屋根から降り注ぐ、色ガラスを通した美しい光。
それらのイメージ写真に目が吸い寄せられました。そして何よりも心打たれたのが、以前から存在したものたちを大切にしたい、という思いに貫かれていることでした。ただ漠然と過ごしていると、身の回りに存在する「当たり前」のものごとの価値に気付かずにいることもありますが、田窪さんが礼拝堂のしつらえに手を入れることによって、「当たり前」のものごとが、かけがえのないもののように美しく浮かび上がっているように思いました。
学校で建築を学ぶなかでは、新しいものを創り出すことにどうしても意識の比重が傾いてしまって、すでに存在している当たり前のものを、つまらないもの、としてしまうような間違いに陥りがちだったように思います。僕は卒業論文でアントニ・ガウディに向き合うことを通じて、一見奇異に映るカタチのなかに、「日常」こそを大切にして美しく浮かび上がらせようとするガウディのイメージが溢れていたことに気付き、そのような価値観について考えるようになりました。そのような時期に、僕は田窪さんの本に出会い、いろいろな影響を受けました。ガウディのことについて触れられているわけではないのですが、どこか共通した普遍の意義が、詰め込まれているように思ったのです。
この度、東京都現代美術館で田窪さんの個展が開かれたのを機に、観に行きました。そこで何しろ感銘を受けたのが、結果を出すために費やされた数多くの辛抱強い探求でした。カタログを見て色や形を選ぶ、という類のものではなく、まだはっきりと判らない自分のイメージを具体的なものとしていくために、とにかくいろいろな手法を試してみる、その粘り強さの痕跡は、観ているだけで心が打たれました。
田窪さんの活動から受けた大きな影響を、学生時代の「マイブーム」としてしまっては、僕自身の考え方には一貫性や粘り強さがなくなってしまいます。でも幸いなことに、田窪さんの本を見ながら考えたいろいろなことは、今も僕の考えの核心にあります。
貸画廊で発表していた若かりし田窪さんが、恩師・東野芳明氏に、しょせん自己満足なんじゃないか?と問いかけをされたそうです。美術を志す人間にとっては、とても厳しい言葉だっただろうと思います。この本のなかでは、その問いに対する答えはまだ見つかっていない、とありましたが、この礼拝堂のプロジェクトは、個人の活動を超えて、社会的な行為になっています。それを支えているのは、10年以上も粘り強くこの礼拝堂のために表現方法を探求してきた、その粘り強さに他ならないと思うのです。そうしてはじめて、一人の個性は「普遍」になり得るのだと思います。
「林檎の礼拝堂」。もう表紙も外れて、フセンもたくさん貼られたままのこの本は、僕にとって思考の後押しをしてくれた、大切な「味方」本です。