東日本大震災で崩壊した学校の校舎の瓦礫を用いて、「がれきに花を咲かせようプロジェクト」が進行しているそうです。
これは福島県伊達市の保原高校美術部が発端となり、校舎の瓦礫に個々それぞれ、思い思いに花の絵を描き、メッセージをつけていろいろな場所での展示やメディアを通して、再生への思いを様々なかたちで綴ろうとする趣旨のものです。AKB48のメンバーもこのプロジェクトとリンクしたり、活動にも広がりが出てきているようです。
大切にしたいことをカタチに残そうとするのは、とても難しいことです。校舎の瓦礫も、本来はただのモノです。でも、その校舎あるいはその地域と関わりのある人々にとっては、たんなるモノではなく、直視しがたいほどの記憶を背負ったものになるのだろうと思います。それを前向きなメッセージを放つものにしようと、瓦礫のひとつひとつに丁寧に花の絵を描いていこうとすることは、とても自然に、人の心に働きかけてくるものがあるように思います。
大きな記念碑が何かをメッセージを放とうとするのではなく、とてもちいさな、でもとても意義深い断片が何かを物語ろうとすることに、慎ましやかで、等身大で、押しつけがましくない、だからこそ人の心に入りやすいものが生まれるのでしょうか。
話はずいぶんと遠くに離れますが、スペインの建築家・ガウディが残した建築作品の多くは、そうした小さな意義深い断片の集まりによって、ひとつの大きな全体ができています。まだ未完成であったり、大きく欠落していたりして、むしろ全体像が無いにも関わらず、十分にひとつの世界観をもっています。
建設が続くサグラダ・ファミリア贖罪聖堂の塔を上っていくと、地域の民家で使われていた食器や酒瓶が、割られ砕かれ、あるいはそのまま、いっぱい埋め込まれているのを間近に見ることができます。地域の食器の持つ独特の明るい色使いと、着飾ることのない日常がそのまま建物を覆い尽くしている様は、圧巻でもあり、美しくもあり、ユーモアでもあり、そして郷土心をくすぐるものでもあるのでしょう。
福島の「花がれき」が、どのように活用されると、もっと強いメッセージをもつのだろうか。そんなことが気がかりにもなります。
先日、講師をしている学校の学生さんと話しながら、少しガウディの話題にもなりました。そういえば、学校の授業でガウディが登場することはほとんどないなあ。それは、そのままマネをするような余地が無いから当然といえば当然でしょうが、捉えどころがハッキリつかめないのが、その一番の理由のようにも思います。学校で触れられることのないけれど世界で一番有名な建築家の作品には、やはりとても大きなヒントが詰まっているかもしれない、というのに。