独立して設計事務所を構えて以来、古本が少しずつ手元にたまってきました。それらはほとんどすべて、自由が丘の駅近くに構える古本屋さんで購入したもの。
種類は、画集や写真集が多いように思います。もともとは高価なものであったり、絶版になっているものだったり。あるいは記憶のどこかで探していた本だったり。古典的なものが好みの僕としては、本や画集が古びていること自体も好みだったりします。僕の好きな画家である有元利夫も、古典的なモチーフの絵画に古びた風合いをもたらそうと、画面や額縁に古色ある味付けをほどこしていたっけ。そんなわけで、僕の本棚も、シャープでスタイリッシュな建築作品集が並ぶというよりは、古びた画集や写真集、茶の本などに占められてきました。
最近ではインターネットで古本も多く検索できますから、欲しい古書が決まっているときには便利な時代になりましたね。でも、古本屋に身をおいて、目的無く背表紙を眺めている時間というのは、いろいろなことに思いを馳せられるし、気になる本を足早に目で追いながら、自分の好みが自覚されてきたりもします。普段は自転車通勤の僕が、外出や雨の日に電車に乗る日だけ、事務所に向かう道すがらちょっと立ち寄るのが、ささやかな楽しみ。たいていは気になる本に巡り会うことはないのですが、これまで何度も衝撃的な「出会い」がありました。もともと美術関係を中心に力を入れている、昔からあるこの古本屋さん。密かに、自由が丘で僕が一番好きな店です。
古本屋といえば、大学時代の卒業設計で、ある同級生が「古本屋」という題名で作品をつくっていました。学内でも群を抜いて優秀な人だったのだけれど、卒業設計ではギリギリ提出期限に間に合わなかったようで、評価の対象外になってしまったようでした。そのせいで、みんなの目に触れることがないままになっていました。その設計図面が、あるとき学校の廊下にポンと置いてあるのを見かけ、パラパラとめくって拝見させてもらったのでした。慎ましやかな造形のなかに、詩的なイメージの世界観がそっとつくりこまれていました。能力の差を多いに見せつけられてしまったのですが、素適な作品に引き込まれました。今では、どのような設計内容だったか判然とはしませんが、それでも断片的なシーンは覚えています。また、古本屋という存在が、こんな風にして残っていけばいいなと、そんな風にも思いました。自由が丘の古本屋さんに、僕はそんなイメージを重ね合わせているのかもしれません。
「ミシュランガイド 京都・大阪」が発売され、ちょっとした波紋をよんでいますね。「味」だけに着目し格付けすることは、京都の料理文化と相容れないと。
三つ星の評価が与えられた料亭「菊乃井」に、以前行ったことがありました。通されたのは、東山の山襞がせまる簡素な茶室。こざっぱりとした室内意匠でありながら幽玄な光に満ちた、美しい部屋でした。
抜きんでるものなく抑制と調和の効いた色彩の部屋のなかで、盆の上の器や料理の、鮮やかな、あるいは渋い色彩が際立っていました。その雰囲気のなかで料理をいただく時間そのものが、妙な言い方ですが、文化の記憶のなかに身を沈めていくような、そんな感覚でした。
いろいろな地域から運ばれてきた食材に、あらゆる手をかけて美を見出す。その道筋は時に宗教や思想とともにあったわけですから、美食の捉え方も、味覚とはまた別の価値観があることでしょう。精進料理をいただきながら、何を想うか。同じように、懐石料理をいただきながら、どんなことを想うか。きっと食材の取り扱い方にうんちくを並べることだけでは読み解けない、精神的な意味での深みがあるのだろうと想います。
京料理の評価をめぐる論議。もてなしのすべてが文化だとする主張が、世界に通用するかどうか。ただ、もてなしのひとつに、料理の背景としての室内や庭があるとするならば、僕も建築家として文化に深く関わっていきたいと思います。京料理のように、渋く奥行きのあるものとして。
アルベール・ラモリス監督の映画「赤い風船」を観ました。
1950年代のパリ。そのなかの一人の少年と、赤い風船をめぐる小さな物語。数世紀分の埃で真っ黒に汚れたパリの光景。暗く陰鬱でありながらなぜ、この街並みはたまらなく美しいのでしょう。そのなかを、赤色の風船が、ふわりふわりと舞っていきます。古く、動かないものの間を縫って、鮮やかで儚い風船が舞う様は、生けるものと死せるもの、というようなことについて、どこかしら暗示的であるようにも感じました。
この街のなかで物事を考える、物事をつくるというのは、独特の感情とともにあったのかもしれません。
以前、古本屋でたまたま手に入れた哲学者・森有正の著作では、1950年代のパリに在住し、黒ずんだノートルダム寺院に思いをはせながら多くの死生観あふれる論考を残していました。
僕のアトリエの室内に掛けてある岡本半三氏の1960年の「モンマルトル」と題された絵は、その筆遣いのなかにはっきりと、街が積み重ねてきた時間と陰鬱が塗り込められています。
よくは知らないのですが、その後、パリの街は大々的な「汚れ落とし」が行われたそうです。きれいさっぱり汚れを洗い流し、華やかさを取り戻したパリは、しかしながら、かけがえのない何かを失ってしまったのかもしれません。
映画「赤い風船」のラストでは、パリの空いっぱいに色とりどりの風船が飛び立ちます。それは「希望」のような感情として、観る僕たちの心にしっかりと届いてきます。日本でも見かける、風船のあの独特の色。なぜ風船がこのような色になったのか、この映画を観るとわかる気がします。