阪急電車を観ながらヴァルター・ベンヤミンを想う

2013-11-13 23:38:11 | 日々

映画「阪急電車」を観る機会がありました。阪急今津線を舞台に、幾人かの登場人物の日々の断片をとらえながら物語は進行します。今と、遠い昔の思い出と。それらがふとした瞬間に出会ったりすれ違ったり・・・。言葉にしてしまえば取るに足らない個々人の日常をモチーフにした物語は、きわめて淡々と、穏やかに進行していきます。起承転結の無い、断片的な物語。そう言ってしまうと、とてもつまらない映画に思えてしまうけれど、観ながらなんとも言えないほっこりとした安堵の気持ちと、懐かしさに満たされました。

それはきっと、ぼく自身が京都で生まれ育ち、高校で故郷を離れて寮生活を始めるまでの間、阪急電車は「都会」に行くための「とっておき」の交通だった、ことにもよるのかもしれません。

茶色いボディーの、どれだけぶつけても壊れさなそうな無骨な金属の内装材。烏丸から乗って大阪へ。ぼくにとっての大阪や神戸は、なぜだか阪急を抜きには語れない、という感じがあります。

個人的な記憶が、街を、歴史を、語るうえで、客観的な事実よりもむしろ雄弁であり得ること。普遍的な言葉でものごとをとらえてしまうのではなく、個人的な記憶の一断片から覚醒してくるイメージを、大切にすること。ヴァルター・ベンヤミンの著作を少しずつ読むようになってから、そんなものごとのとらえ方に、興味がわくようになってきました。

ちくま学芸文庫「ベンヤミン・コレクション3」の解説に記された、翻訳者 浅井健二郎氏の言葉の引用。

「いまだ批評ではない、しかしすでにその萌芽をはらんでいる、なんらかのイメージ、すなわち心象、あるいは思考像 ― ひとつの面影、ひとつの名、ひとつの瞬間、ある表情、ある匂い、ある手触り、歩行中のちょっとした閃き、記憶に蘇ってきた風景の、また忘却を免れた夢の断片、ある作品のほんの一行、映画の一シーン、成就されることのなかった希望、など。」

阪急電車について述べようとするとき、その車体や路線図について説明することは間違いではないのだけれど、映画「阪急電車」に示されたような個々人の日常の断片を語ることで、はじめて開かれる「阪急電車」像もあるのかもしれません。もちろんあれは架空の物語ではあるけれど、ぼくが暮らしているこの近辺の沿線にはない情趣が込められていて、ぼくのなかの記憶とあわさって、阪急電車が何たるものか、浮かび上がっているように思いました。

まあ、阪急とベンヤミンを並べて話すなんて、とんでもない話ではあるのだけれど、ベンヤミンの難解な散文も、ハンキュウと並べることで初めて、地べた感のある親しみやすいものになるのかなあ、と(笑)

ぼくが住宅を設計するとき、斬新でカッコいいものをデザインしようという願望よりもむしろ、古くからそこにあったものであるとか、記憶のなかの引っ掛かりのようなものをよりどころにしようとしてしまうのは、一種のクセのようなものかもしれないのですが、その根本の理由を探っていくとまさに、上で書いたようなものごとの把握の仕方に、心惹かれるからなのかもしれません。

131113

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする