ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

蓼科3

2008年05月15日 | 食べ物


台風による雨が上がり、一気に晴れ間という台風一過
の状態になった、と思い、三度目の「蓼科参り」をす
ることにした。
目的は、しつこく「ヒメギフチョウ」を撮ることであ
る。
その前に腹ごしらえと、今年初の「ナタラジ」に寄る。
ヴェジタリアンカレーが売りの店で、この時期から秋
頃まで蓼科湖前で営業している。
多分客はいないだろう、というこちらの読みに反し、
12時前にも拘らず4組もいた。
何故だか盛況である。

最近、カレーは、自分で作る「ネパール香辛料」によ
るカレーの方が、下手なインド料理屋のカレーより美
味いので、あまり専門店に寄ることもなくなった。
ただ、「ナン」に関しては、こういう店でしか味わえ
ないので、やはりたまには、ということになるのであ
る。

この店は、数ある専門店でも(この地方にある)一番
美味しい(香辛料の使い方などで)、と思っている。
それに、ヴェジタリアンではないが、野菜のカレーが
一番好きなので好みにも合っている。
他の店の、例えば、「ヒヨコ豆のカレー」、香辛料の
扱いが良くないので、香りのパンチがかけたり、変に
中途半端な味になっていたりするのが多い。
それに、旨味に頼りすぎている傾向が見られる。
どうしても、日本の「カレールー」の旨味(旨味調味
料)に引きずられてしまうようだ。
ここのはそういうこともなく、すっきりスパイシーに
出来上がっている。

一年ぶりのメニューを見ると、一時消えていた「ランチ」
が復活していた。
単品でしか頼めない以前のメニューでは、カレーとナン
で千五六百円になってしまう。
カレーでその値段というのは、やはり高い。
それが千円で、「ナン」と「サラダ」が付くのだから
良かった良かった、である。
まあ、サラダと言っても、申し訳程度のもので、しかも
ドレッシングが、市販のオレンジジュースに玉ねぎのすり
おろしを混ぜたものである(多分)。
個人的には、無くてよい。
後は、「ヒヨコ豆のカレー」と「ナン」であったが、充
分美味しいものであった。

で、会計を済ませ外にでてみると、何だか曇り気味で肌
寒い。
終いには、雨がぽつぽつ。
最悪の条件になってきた。
これでは「ヒメギフ」は期待できない。
今年は諦めるか、と思った。
しかし、全く収穫がないのも癪である。
ということで、急遽、松本に「クロツバメシジミ」を見
に行くことにした。
時期的には、第一陣が発生しているかもしれない。
確信はないが、とりあえず行ってみることにしたのだ。


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グレングールド

2008年05月14日 | 音楽


NHK教育の夜10:30からの番組(タイトルが分
からない)で、グレン.グールドを取り上げていた。
知識としては、コンサートを止めたピアニスト。
或いは、孤高のピアニスト。
或いは、変人ピアニスト。
その程度の、謂わばステレオタイプの知識があるだけ。
CDは、バッハの「イギリス組曲」を持っている。
そんなグレン.グールドを、ある専門家(研究家とか専
門職の場合が多い)が掘り下げていくという番組なの
だが、その対象はその都度変わり、番組では過去いろ
んな人間を取り上げている。
そう言えば、大田光が「向田邦子」を解説していたこ
ともあった(興味がなかったので見てないが)。
「黒澤明」もやっていたような。
で、今回はグレン.グールドだったわけである。

ちょっと興味があったので見たのだが、改めて、グール
ドの考え方には多く共感できることが分かった。
一番有名なコンサートを止めた理由、普段感じている
ことを、グールド自身が言っている。
つまり、観客の反応が演奏の邪魔であるとか、毎日同
じ演奏をやってたらやる方も惰性になり、良い演奏を
やり続けることなど出来ない。
スタジオ録音で納得いくものを残し、それを聴くのが
一番良い方法である、ということがその内容だと思う。

反面、生の魅力は、たまたまの出会い、観客の反応が演
奏者にある影響を与え、思わぬ演奏が実現、そして感
じる一体感、なのだろうが、ジャズと違ってクラシッ
クは、インプロビゼーションが重要なわけではないか
ら、殆ど決まりきった予定通りの演奏で終わる、よう
に見える(関係ないが、儀式化されたアンコールとか
やめてほしい)。
中には、微妙な変化を見つけることに喜びを見出すう
るさい人間もいるが、初心者程度の私にはその辺の違
いの大きさは分からない。
しかし、たまに、奇跡的演奏というものが存在するの
も事実だ。
生好きは、そんな奇跡の瞬間を求めてせっせと通うの
かもしれない。
後、独特の場の雰囲気。
お祭りの現場のような。
しかし、これこそがグールドの嫌ったところであると
思う。
つまり、その場の雰囲気で盛り上がるというのは、飽
くまでも雰囲気の力で、決して音楽性によるものでは
ないとグールドは考えたのではないか。
要するに、情緒的な要素が影響しすぎると。
この辺の、自分の作品にアプローチする姿勢は、昨日
のブレッソンにも通じるところだ。
自分の作品に関しては、どこまでも禁欲的で周りに合
わせることはしない。
こういう考え方の人間は、必然的に、孤高という称号
を与えられる。
結果的に、大衆から離れてしまうのも致し方ない。
しかし、個人的には、それだからこそ惹かれるのだ。
これもまた致し方ないことである。
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「たぶん悪魔が」

2008年05月13日 | 映画


映画少年Yが、早々ブレッソンの「たぶん悪魔が」を
返しに来た。
開口一番「いやあ、ブレッソンは良いですよ」と興奮
の面持ちだ。
「また始まった」、といつものようにこちらは受け止
める。
「9回観ちゃいましたよ」と相変わらずの暴走振りだ。
何故9回かというと、後から解ったのだが、「淀川長
治」が嘗て、映画は9回観ないと解らない、などと言っ
たらしく、例によってその言葉に影響されてのことだっ
たのだ。
兎に角、他人の言葉に直ぐ影響されるから。

「たぶん悪魔が」という映画は、最後の映画「ラルジャン」
とかなりテイストが似ている。
感情を表わさない主人公(これはどれも一緒だが)が、
破滅的な世界に一直線という内容で、見ようによって
は救いようのない映画といえる。
「ラルジャン」は状況によって転落一直線だったが、こ
の「たぶん悪魔が」は、自らの意思で一直線という違い
がある。
一対になっていると言えるのかもしれない。
生きる意味を探し、最後に「バニシングポイント」に
辿り着くまでの彷徨を、例によって、シンプルに緊張感
を漲らせ描いていく。

時代は、今から30年ほど前のパリ。
大学生である主人公は、当時問題になり始めた「環境汚
染」などの社会問題に顔を突っ込むが、頭が良いゆえそ
の限界に直ぐに気づいてしまい、夢中になれない。
恋愛にも同じ(複数の女性のあいだを同時に流離う)。
そして残るは宗教。
しかし、いずれも彼の心を満たすことはない。
当然の帰結として残るは「バニシングポイント」。
こうやってみると、内容はシンプルである。
しかし、ここが、例えば昨日の「さくらん」などという
凡庸な映画とは大きく違うのだが、一つ一つのシーンは
なんでもないのだが、それらが断片化されることなく一
つのイメージの動きとなって伝わってくるのだ。
抽象的な表現だが、それは、シーンの中の映された動き
ではない、自分の中のイメージの動きというものだ。
要するに、想像力を刺激されるということだ。
類型的なものではない本物。
わかりやすい例として、例えば、別れのシーンにショパン
の「別れの曲」を使うとすると、たぶん殆どの人が「う
るっ」となる。
こういうことをブレッソンは拒否する。
そこにあるのは、靴音であり、ドアを開ける音、はたま
たメトロの軋む音。
効果音としてのBGMはない。
あるのは、素の映像。

そんなブレッソンの世界にやられてしまったYは、今度
は「ジャンヌダルク裁判」とストローブ=ユイレの「ア
ンティゴネ」を持っていった。
次回の一言は「いやあ、ストローブ=ユイレはやっぱり
凄いですね」だろうか。
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さくらん

2008年05月12日 | 映画


多分詰まらないという予測が立つ映画というのは存在
していて、それらを見て実際そう思う確立は、9割ほ
どだ。
一割くらいは、それ程ひどくも無いという予想とは反
した結果となる
そんな、9割の映画が昨日やっていた。
「さくらん」という映画だ。
最初から見るつもりもなく、最後の10分ほどだった
が、それだけで充分だった。
この映画の場合、詰まらないと予測したしたのは、写
真家である監督の、「蜷川実花」のその写真を見た上
での結果だったのだ。

一般的に、映画を初めて撮るほかの分野の人間の作品
は、ひどいものが多い。
タレント(歌手など)の例を見ればそれは明らか。
今回の場合は、同じ映像とも言える写真家なので、そ
こまではひどくないと思われがちだが、スチールと動
く映像の差は、実はかなり大きい(逆は可能だが)。
そしてこのような、一応芸術系の人間が撮る時は、そ
の特徴を前面に押し出すのが常である。
実験映画のような、端から評価を期待しないような映
画は、一人よがりの自慰的映画などと言われるかもし
れないが、それによって本人の評価を落とすことは無
いから良い。
しかし、今回のような商業映画の場合は危険だ。

原色を大胆に使った写真で受けている「蜷川実花」の
「さくらん」は、同じような色使いの画面の連続だ。
多分、シーン毎に、配色を考え照明の色も考えている
のだろう。
しかし、そういう部分があからさまに見えるような映
画は、それだけで駄目だ。
逆手に取るだけの手腕もないし、ただただこれ見よが
しとしか感じられない。
しかも、これが一番決定的なのだが、それらの画面が
死んでいるのだ。
スチールだったら問題ないかもしれないが、映画の場
合は時間と空間だ。
つまり、停止状態でも常に空間は動いているのだ。
その動きが全く感じられない。
これを称して耽美的、などという表現をする人がいる
かもしれないが、単に原色を使っただけである。
ひょっとしたら、「ピーター.グリーナウェー」辺りを
意識してるのかもしれない。
いずれにしろ、そういう人は、森一生の「薄桜記」、
或いは鈴木清順の様々な作品を見てからそう言ってほ
しい。
監督本人は、パラジャーノフの「ざくろの色」とか見
たことないのだろう、多分。

派手な色だが単調な画面の連続で、意図した効果、例
えば菜の花の先の桜が満開のシーン、「おーっ」とな
るのを期待したのだろうが、それも得られず、それま
でと同じトーンになってしまって完全に埋没。
これはもう、基本的な技術の問題でもある(その点で
は改善の余地はあるのか)。
主演の女優も、ヤンキー系以外は使え無さそうだし、
なんともトホホな作品でした。

その後、「マンチェスターU対ウィガン」の前半戦を
見て、「世界ふれあい街歩き」のトゥールーズを最後
まで見たら、すでにマンチェスターUの試合は終わっ
ていた。
「パクチソン」(韓国)は今回も出場していた。
優勝の試合にも出てるんだから、アジアナンバーワン
の称号は「パクチソン」で決まりだろう。




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菊池成孔

2008年05月11日 | 音楽


80年代日本のポップスベスト20などということを
やっていたので、どんなものがあるのかと見てみたの
だが、見事に殆ど知らなかった。
80年代世界のロックであれば、懐かしさとともにい
ろいろ思い出すこともあるし、今聴いても良いと思え
るのも多いのだが、どうして日本のものはそうならな
いのか。
唯一、今聴いてもと思えたのは「井上陽水」。
後は、好きではないが「尾崎豊」とか「オフコース」
くらいか。
ファッションといい、何だか東南アジアのポップスター
という風情で、垢抜けなさばかりが感じられ、音楽性
に関しては全く引き付けるものがなかった。
結局、当時好きではなかったものは、今でも好きでは
ないということのようだ。
それにしても、「チェッカーズ」は笑える。
東南アジア色は強いし、どうしてもパロディーにしか
見えない。
これが、真面目に人気だったんだから。
そういう時代だったんだね。

その後、今度はBSで「ドゥービーブラザーズ」をやっ
ていた。
このグループは、当時、あまり好きではなかったのだ
が、好きではないにしろ、知らず知らずに日本の先ほ
どのものと比較してしまう。
やはり、その音楽的個性の差は大きい。
今聴いても、古臭すぎということはないし、充分聴く
に堪えるものは持っている。
日本のは、視覚的な演出ばかりで、内容が伴わない。
この状況は、多分変わらないだろう。

そんな口直しに、「菊地成孔」(ナルヨシと読む)の
「南米のエリザベス.テーラー」(変なタイトルである
が)というアルバムを聴いているが、ロック系と違って
ジャズ系は、日本にも良いものがいっぱいある。
これも、その一つ。
オーソドックスなジャズではないが、エスニック的、
現代音楽的といろんな要素が入った、相当聴かせるア
ルバムであると思う。
実は、スノッブなM氏に貰ったものだが、いつもは馬
鹿にしてばかりいるが、ジャズに関しては、私の師匠
的人間でもあったのだ。

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粋な時間

2008年05月10日 | 食べ物


それにしても思うのは、「吉兆」の経営陣というのは
相当嫌われていたのかな、ということである。
今頃になって、「使いまわし」とは。
偽装問題(内容はもう殆ど忘れた)の時、一気に膿を
出せば致命傷は逃れられたかもしれないが、今回で止
めを刺されたという印象である。
はっきり言って「使いまわし」などということは、人
知れず日常的に行われていることだと思う。
普通の居酒屋であったら、しょうがないねで済むとこ
ろだが、一応高級を偽装している店にとっては、その
偽装(ブランドイメージ)そのものが崩壊するのだか
ら、相当まずい。
今回のことでは、誰も同情できないだろう。
あまりに、たちの悪い経営者だったということだ。
「囁き女将」も打つ手無し。

一番迷惑をこうむっているのは、他の「吉兆」なのだ
ろうが、一般人にとっては皆同じ。
名前分けしていくつもあるということも、今回の件で
初めて知った。
それまでは、「嵐山吉兆」を頂点としての同系列かと
思っていた。
同じように見られることが、一番心外であろうが、元
々一般人が行くような店ではないから、経営的には影
響はないのかもしれない。

一人5万以上、しかも一見さんお断り。
知り合いで、何回か行った人がいるが、その話による
と、料理はもちろんしっかりしているが、それよりな
により器とか調度品がすばらしい、ということだそう
だ。
要するに、「空間と時間」代ということらしいのだが、
自力では行けない身からすると(行きたいとも思わな
いが)、そういうものですか、という感想しか持てな
い。
しかし、世の中、普通にこういうところを利用する人
間がいるから恐ろしい。
果たして、こういうところで時間を過ごすことが「粋
な時間」なのか、個人的には全くそうは思わない。
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中西夏之

2008年05月09日 | 芸術


映画少年Y登場。

「連休中、どこか行ってきた?」(私)
「ええ、<ジャック.リベット>観てきましたよ」(Y)
「相変わらずやってるね」(私)
「いやあ、<リベット>は良いですよ」(Y)
「そりゃあ、良かったね」(私)
「何だか今ひとつですね、反応が」(Y)
「個人的にはそれ程好きじゃないから」(私)
「そうですか?良いんですけどね」(Y)
「なんだろうね、<エリック.ロメール>は良くて<リ
ベット>は駄目、<ブレッソン>は良くて<リベット>
は駄目、何が原因なのか自分でも良く分からないとこ
ろだね」(私)

「あと、<松涛美術館>にも行ってきましたよ」(Y)
「<松涛美術館>?、何でまた」(私)
「<中西夏之>を見てきたんですよ」(Y)
「そんなのやってるの」(私)
「ええ、やってるんですよ<ハイ.レッド.センター>の
<センター>の」(Y)

注)ハイ.レッド.センターというのは、嘗て「高松次郎」
(ハイ)と「赤瀬川源平」(レッド)、そして「中西夏之」
(センター)が組んでいた芸術集団。

「いやあ、これも良かったですよ、どうですか<中西夏
之>は」(Y)
「どうですかって、元々<中西夏之>は好きだよ、Yが
注目するずっと前から、それより何でYが<ハイ.レッド.
センター>なんて知ってるのか、それの方が不思議だ
よ」(私)
「有名じゃないですか」(Y)
「有名って言えば有名かもしれないけど、<ハプニング>
なんていう芸術活動が全盛の時代だよ、こっちだってリ
アルタイムに経験したわけじゃないし」(私)
「まあでも、ちょっと芸術に興味のある人間だったら
知っておくべきものじゃないですかね」(Y)
「そうは思うけどね」(私)

「だんだん表現方法がシンプルになってきて、時代に
よる変化も良く分かって、非常に良い展覧会です、枯
れてきたとかそういうのではないんですよね、より研
ぎ澄まされてきたって感じですか」(Y)
「ふむふむ」(私)
「大分、年のはずなんですけど、やっぱ芸術家ですね、
それに比べると<村上隆>なんかどこが良いのかさっ
ぱり解らないですよ」(Y)
「それは本当そう思う」(私)
「幼稚化しているだけとしか思えないですよ、兎に角
<中西夏之>は必見です、行ってくださいよ」(Y)
「行ってくださいよと言ったって<松涛美術館>だろ
う、遠すぎだよ」(私)

「それより、これ観るか」(私)
と、もったいぶってブレッソンのDVDボックスを見
せる。
「えっ、どうしたんですか」(Y)
「どうしたんですかって、買ったに決まってるじゃな
い」(私)
「観ます観ます」(Y)
「一本ずつね」(私)
「何でですか」(Y)
「この手のやつは、ちゃんと行き先を管理しないと、
ふっと消えるものだから」(私)
「しょうがない、じゃあ、これ」(Y)

と言って「たぶん悪魔」を選んだYであった。

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連休秘話

2008年05月08日 | 食べ物


スノッブなM氏は、ブレッソンの「たぶん悪魔が」の
代わりに、今度は「湖のランスロ」を借りて帰っていっ
た。
一通り見ないと気が済まないようである。
そんなM氏との蕎麦談義の後、それではこちらもと、
いつもの蕎麦屋「更級」に行くことにした。

主人に、連休中の様子を聞いてみると、やはり相当忙
しかったようである。
こちらが行ったのは、連休最後の日の夜であったが、
その日は流石に暇であったということだったが、それ
でも連休の名残を感じるような、そんなお客がいた。
つまり、見るからに観光客という。
主人は、連日三時起きだったということだ。
連休前に、頑張らないと(私が)、とは言ったが、ちょ
っと頑張りすぎではないか。
持病の神経痛が悪化しなければ良いが。
しかしこの場合、肉体的には疲れるが精神的には疲
れないので、あまり影響は無いかもしれない。
帰りに、残った蕎麦をお土産で貰って、こちらとし
ては連日の蕎麦三昧となった。
ご馳走様でした。
ただ、自転車で持って帰ったので、そばがちぎりてし
まいました。

お土産といえば、チーズを食べる時に買いに行くパン
屋で、同じようにこの前もらってきたばかりだった。
閉店近く、いつものように「バゲット」を買いに行く
と、最近は滅多に出てこない店主が珍しく顔を出した。
どうも、いつもの連休と違い、今年は暇でしょうがな
いということを言いたかったようだ。
今年は、蕎麦屋関係は普段どおりであるが、他は違う
ようなのだ。
このパン屋は、連休中であれば、別荘族の需要がかな
り見込まれるところ。
何故かというと、「バゲット」では一番高いレベルの
店だから。
ということは、今回は別荘族はあまり入り込んでいな
かったのかもしれない。
それとも、財布の紐がぐっと締まったのか。

今回だけの現象か、それとも、別荘の代替わりによる
行動様式の変化か、その辺はまだ判らないが、そんな
ことを適当に尤もらしく店主にしゃべって、たまたま
「バゲット」は一本しかなかったところ、そんなこと
まで言われたので、他の「パンドカンパーニュ」も買っ
てしまったというわけだ。
本当は、いらなかったのだが。
しかも、「バゲット」に比べるとかなり高い。
何故「パンドカンパーニュ」はそんなに高いのか。
で、帰りに、余った菓子パン系を数個貰ったのだった。
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蕎麦談議

2008年05月07日 | 食べ物


昨日の続き。

M氏は、家の近くで行われた「桜祭り」(流石にもう
ちょっと遅いが)のついでに、これまた近くの蕎麦屋
に行った(その店は、諏訪湖を見下ろす絶好の場所に
ある)。
ただでさえ観光客の喜ぶロケーション、この時期大丈
夫なのかと思うのだが、M氏もそこは考えて、ほぼ開
店と同時に行ったらしい。

「いやあ、やっぱり凄かった、行った時点<11時>
でほぼ満席だったよ」(M氏)
「でしょう」(私)
「ちょうど我々分空いていただけだった」(M氏)
「観光客は来るし、地元の人間もお客を連れてくるし、
今は100パーセント混むね」(私)
「それにしても、観光客は<天ぷらそば>などの種物
が好きだね」(M氏)
「それは間違いない、何故かというと観光客だから」(私)
「どういうこと?」(M氏)
「気分が昂揚しているから」(私)
「何故?」(M氏)
「観光客だから」(私)
「だから、何故?」(M氏)
「旅行の目的の一つに、日常からの脱却というものが
あるでしょ、だから普段と同じことをしないという行動
パターンが知らず知らずの内にでるわけだ、今回の場合
はいつもよりちょっと贅沢ということだね」(私)
「そういうものか」(M氏)
「それと、<信州イコール蕎麦>という単純な理由で
行動する観光客の多くは、元々それ程蕎麦が好きでも
ないというのがある」(私)
「どういうこと」(M氏)
「本当の蕎麦好だったら、あまり天麩羅は食べない、
何故かというと蕎麦の味を邪魔するから」(私)
「それって、自分のことを言ってるだけじゃないの?」
(M氏)
「確かに、自分の基準を言ってるだけなんだけど、一
理あるでしょ」(私)
「まあ、蕎麦が美味ければ天麩羅はいらないのはある
ね」(M氏)
「玉子焼きとかつまみ、蕎麦で締め、なんてのは良い
と思うが、油は邪魔でしょ、油は飽くまでも不味い時
の救済措置である」(私)
「そういう面もあるかもね」(M氏)
「駅蕎麦を考えてみれば一目瞭然、掛け蕎麦は美味く
ないが掻き揚げ天麩羅を付ければ、それなりに美味い
んだから、ついでに葱もたっぷりね」(私)
「そう考えると、薬味に関しても同じことが言えるか
も」(M氏)
「そうそう、美味い蕎麦に薬味はいらないものね」(私)

「今思い出したしたけど、観光客が頼みたがるメニュー
に<三色蕎麦>というのもある」(私)
「今回の店には無いけど、本格派の蕎麦屋には大体置
いてあるあれね」(M氏)
「ちょっと蕎麦にはうるさいという自負のある客が頼
みたがるが、あれもいつもよりちょっと贅沢の行動パ
ターンかもね、でも本当に蕎麦好きなら<もり>しか
食べないと思うけどね、で、M氏は何を食べたの?」(私)
「ざる<この店の場合もりがなくざるのみ>と、とろろ
蕎麦」(M氏)
「なんだ、自分だって色物食べてるじゃん」(私)
「たまにはそういうものもほしいよ」(M氏)
「たまには色物、これも一理あるかもね」(私)
コメント

M氏の恥

2008年05月06日 | Weblog


スノッブなM氏がブレッソンの「たぶん悪魔が」のDVD
を返しに来た。
それではと、感想を聞いてみた。
M氏は「なかなか良かった」と一言。
そこで引き下がらず、しつこく、「本当に面白いと思っ
てるの?」と聞いた。
M氏は「こういうのは好きだよ」と言った。
ブレッソンの映画が本当に良いと思ってるのか疑問な
私は、更に「どこが良いの」と聞いた(本当にしつこ
い)。
すると、M氏は興味のある本音を漏らした。
「あの女優が良いんだよね」と。
そう言われてもこちらは、女優に関しては大して印象
に残っていないので、全くピンとこない。
バスの中で乗客が唐突に言う「たぶん悪魔が」という
シーンは、あまりに印象的ではあったが、女優ねえ。
それより、結局女優か、という身も蓋も無い意見では
ブレッソンも肩なしではないか、と思った。
映画の観方は人それぞれだ、とは言え、ブレッソンに
関してはちょっと意義あり、というのが本音である。
プロの俳優を使わないという基本スタンスからしても、
そういうある人間に思い入れをもたれるのは本意では
ないように思えるのだ。
でも、本人がそう思うのだから、仕方ないか。

それより、M氏が変なことを言ったのがちょっとした
波紋を呼ぶ。
映画の主演が、誰々の「ソマゴ」であるなどと言った
のだ。
「ソマゴ?何それ」ということに当然なる。
「孫の子供のことだよ」とM氏は答える。
「それって、曾孫のこと?」と言うと「ヒマゴとも言
うの」などととぼけたことを言う。
「だから、曾孫と書いてヒマゴだよそんなの常識だろ
う」と言った。
「えっ、そうなの」とM氏はびっくり。
それより、こっちがびっくりだ。
M氏は、ずっとソマゴだと思っていたらしい。
こういう場合、おもいっきり馬鹿にしてしまうのだが、
もちろんそうなった。
今まで、誰も訂正しなかったのか。
しかし、馬鹿にされても、正しい知識を得る方が本人
のためになる。
一生の恥より一時の馬鹿にされ、である。
これでM氏も、もう「ソマゴ」などと言うことは無い
だろう。

その後、話題は、M氏の花見の後に行った蕎麦屋のこ
とについてとなった。
コメント

世界ふれあい街歩き

2008年05月05日 | Weblog

割と楽しみな番組「世界ふれあい街歩き」で、フランス
のモンペリエが取り上げられていた。
やってっれば、まず見るという番組である。
で、今回はプロヴァンスの「モンペリエ」である。

スペインの「サンチアゴ.デ.コンポステーラ」に向かう、
聖地巡礼のコースの一つが「モンペリエ」を通るとい
うことで、その道標となっている「ホタテ貝」を辿り
ながら街の表情を見せるという趣向だ。
この番組の良いところは、その街の普段の顔を見るこ
とができるというその一点だ。
良くある旅番組とは一線を画す。
センス悪いタレントが、ブランド物を買い漁り三ツ星
レストランで食事とか、はたまた、若くて無知なタレ
ントが、幼稚な反応を繰り返し、最後は泣いてお終い
という100パーセント作られた番組とは違い、我々
がその街を本当に歩いているかのような錯覚を味わせ
てくれる(テレビ撮影という特権による不自然さは勿
論あるが)。
それと、自然にその街の文化を知ることが出来るのも
良い。
今回は、聖地巡礼のコースが四つもあることを初めて
知った。
それと、「モンペリエ」には関係ないが、聖地が「聖ヤ
コブ」に由来することも。

聖地巡礼は、映画にもよく取り上げられる。
ブニュエルの「銀河」がそうだ(好きな映画だが、何
故かバイヨンヌのハムが印象的)。
最近では「サンジャックへの道」というのがあったは
ずだ。
見てないが、大体巡礼を題材にすると、「再生の物語」
となるのだが。
日本であれば「四国お遍路旅」。
視覚化された「再生の物語」がその道そのものだ。
そんなことはどうでも良いが、このサンジャックという
のはフランス語で帆立貝のことを指す(コキーユ.サン
ジャック)。
それで冒頭の道標で「ホタテ」か、ということにもなる
のだ。

「モンペリエ」は、古い街並みが残っていて、椰子並
木もあり独特な魅力を持った街である、という印象は
良く伝わってくる。
個人的には「医学校の街」というイメージを持ってい
たが(それ故大学生が多く、知的な街という)、その
学校も出てきた。
「ラブレー」「ノストラダムス」が在籍していたとい
うことだ。
こういう部分は「ほう」と感心するだけ。
しかし、その個人的なイメージはちょっと今は違うの
かとも感じた。
アフリカ系の移民がふえているのではないだろうか。
つまりモロッコとかチュニジアなどの。
街に、イスラム系の人が多いというのは素直な感想だ。
だから、以前の「学生の街」というのは薄れてきたの
ではないかと思われるのだ。
「マルセイユ化」しているのだとすると、従来の住民
からすると不満があるはずなのだが、街の風景を見て
るだけでは、推測の域を出ない。
番組も、そこは、旅人の視線に止まっている。
飽くまでも、気軽な街歩き。

考えようによっては、恣意的でない分より現実が見え
てくるということで、この番組は、問題提起を主旨と
した番組より遥かに優れているのかもしれない。
って、ちょっと考えすぎ持ち上げすぎか。
気軽に街歩き街歩き、っと。
コメント

ジャンヌ.ダルク裁判

2008年05月04日 | 映画


DVDボックスの中の一本、「ジャンヌダルク裁判」を
観た。
これが多分4回目くらいだと思う。
一つの映画を複数回観るというのは、テレビで何度も
やっているのを、仕方なしにというか(他に観るのが
無く)、暇つぶしというか、そんなネガティブな理由
で観るケースが殆どではないだろうか。
本当に何度も観たいから、ということではないと思う。
中には、何度も見て、同じところで感動したいなんて
人もいるが(飽きを知らない人たち)。
いずれにしろ、「ネタバレ」という言葉が映画の中で
重要なキーワードになっているような人は、一回観れ
ば充分、といった観方になるのだと思うし、またそう
いう映画を好む。
映画をストーリー(筋)中心で見ると、そうなっても
致し方ない。
それがもし「衝撃のラスト」に関しての「ネタバレ」
であったら、衝撃を受けるのはそれこそ聞かされた本
人ということになる。

そんな「ネタバレ」とは対極の映画「ジャンヌ.ダルク
裁判」であるのだが、このDVDにはブレッソン本人
のインタビューのおまけが付いている。
ブレッソンは殆ど姿を晒さないので、これは貴重だ。
今回初めてその姿を見ることができた。
って、そんなことは映画とは関係なかった。
「ジャンヌ.ダルク裁判」である。

舞台は、ルーアンの裁判を受ける教会の中。
閉じ込められている部屋と、裁判を受ける部屋が全て
と言っても良い。
移動に関する動きというのはそれだけ。
「ジャンヌ」がそこを往復するだけで、一本の映画が
成立っている。
確かに、全体の動きというか変化は、乏しい。
しかも、ブレッソンの映画は全てそうだが、説明的な
シーンはないし、まして言葉による補足も一切無い。
そういう点は、非常に不親切とも言えるが、そこがま
た魅力でもあるのだ。
観る側が好きなように感じ取る、これが基本である。
解釈するな、観よ、ということではないだろうか。
たとえば、宣誓書に手錠に繋がれた両手を置くシーン
があるが、これが実に美しい。
まるで、なにか鳥が舞い降りてきたような動きである。
こういう部分のアップが、ブレッソンの特徴で、それ
が映画に生命を吹き込んでいるように感じる。
それにしても、その手の動きだ。
最後の場面、「ジャンヌ」が火刑にあって姿が消える
のだが(ここもちょっと判りにくい)、その時一羽の
鳩が飛び立つ。
その姿が、始めの手の動きと呼応してるかのように感
じられたのだが。
囚われの身が自由になって飛び立つ暗示的なシーン、
と収まりの良い解釈が可能なのだが、本当に、そんな
仕掛けをしたのだろうか。
その辺がどうにも気になる。

緊張感のある画面の中に動きを感じ、なんでもないよ
うな部分に美を感じさせるブレッソン、やはり何度も
観るべき映画であると言わざるを得ない。
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マウンテンバイク

2008年05月03日 | Weblog


T君が、外国人教師(英会話を学校で契約期間だけ教
えるというあの)から「マウンテンバイク」を貰った
ということで、それを引き取りに行った。
と言っても、その自転車は、鍵だけ預かっていた状態
で、ずっとスーパーの駐車場に放置してあったもので、
果たしてどんな状態なのかは確認してなかった。
そもそも、数ヶ月も放置してあった自転車が、ずっと
そこにあったことが驚きである。
だから、大した自転車ではないのだろう、と当然の如
く周りは予想していた。
そして、持ってきたそのものを見て、びっくり。
結構良いものだったのだ。
鍵は頑丈なものだが、その気になれば簡単に持ってい
ける。
よく無事であったものだ。
エアーサスペンション付きのもので、なかなかお洒落
な感じだ。
ところどころ錆びているのと、後ろのブレーキが利か
ないのを修理すれば、全く問題無さそうだ。

と、まるで自分の物のような書き方をしているが、実
はT君は自分用の「マウンテンバイク」を持っている
ので、これは必要ないのだ。
そこで、ちょうどギアが壊れた「マウンテンバイク」を
処理したところなので、T君に、ブレーキを修理する
からこれを貸してと提案したのだ。
まあ、実質共有しようという提案だ。
快く同意を得られたので、これで再び「マウンテンバイ
ク」を乗ることが出来そうである。
「jeep」とロゴが入っているので、更科の主人の
「jaguar」と同じようなタイプの「マウンテンバイク」
であると思う。

それにしても、引っ越したとは言え(東京に)、その
外人教師も、よくこれを置いていったと思う。
一般的には、彼らは倹約家で、むしろ逆なのだが(貰う
立場)、どうも今回のケースは違う。
インド系の英国人なので、多分、金持ちなのだろうと
我々は勝手に推測した。
親は移民で、苦労して成功。
それは、娘を好きな日本に行かせるくらいの財力がある
ことからも推察される。
娘の一番の目的は、アニメの勉強らしい。
それを許すだけの余裕があるということだから、多分
そういうことだろうと思ったのだ。
イギリスのインド系は、成功している人はかなりの財
力があるはずだ。
ついでに、インドつながりで、イギリスで美味いもの
は「インド料理」という説もある。
これは、全く関係なかった。

と、二人で勝手なストーリーを考えたが、今度その英
国人の企画で、T君は、渋谷の店で「ライヴ」をやる
ことになった。
素人の即席バンドで、しかも音楽性も何も無いし、一
体何をやるというのだろうか。
アニメのBGM的なものとしてほしいということらし
いが、別の意味で興味をそそられることではある。
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蓼科2

2008年05月02日 | 生き物 自然

昨日の続き。

蓼科は、今が桜の季節。
蓼科湖の近くの人気スポットは、満開の桜ということで、
人の波、波(と思う、車から見ての想像だが)。
そんな満開の桜を横目に、何しに来たかというと、目的
は唯一つ、「ヒメギフチョウ」。
近くのカタクリの群生地は、結局四回行ったが、一度も
その姿を見ることはなかった。
ならば、というか、必ず来るのだが、今のところ100
パーセントの確立で出会っている蓼科で、ということに
どうしてもなってしまうのだ。
気候条件は、申し分ない。
ただ、若干早いかもしれない。

いつもの駐車場に車を止め、ぐるっと二三キロ、長い時
は七八キロというのが基本的なコース。
「ヒメギフ」の時は、生息地が限られるので、大体二三
キロのコースである。
運が良いと、車を止めて数分後に出会う。
しかし、今回は中々その気配が無い。
ここに来る前に、偶然出合った知り合いに貰った筍ご飯
のおにぎりを頬張りながら、春の山をしばし散策。
それにしても、握りがでかい。
四個も入っていたが、二個で充分そうだ。

まず最初に遭遇したのは、越冬した「クジャクチョウ」。
「キタテハ」などと同じく、この蝶も成虫で冬を越す。
日向ぼっこをしているように見えるが、テリトリーを張っ
ていて、飛び立っても同じ場所に戻ってくる。
道の真ん中に止まるので、まるで追ってるかのような
状態になる。
しかし、通り過ぎると、ちゃんとまた元のところに戻っ
ていた。
孔雀のような目玉模様が派手で、初めて見たときは凄
い蝶だと思ったが、実は普通種である(普通に見られ
る環境は常に望むところ)。
だから駄目というわけではないが、珍しいものに出会っ
たほうが感激するというのが一般的な心理傾向なので、
どうしても差別意識のようなものが働いてしまう。
しかし、この固体も厳冬を過ごした逞しい蝶なのだ。
敬意を込めて、写真を撮る。

そして、そこから数十メートル進んだところで、前方
より黄色っぽい蝶が、不安定な飛行状態でこちらに向
かってきた。
上下動が激しい飛び方である。
これは、翅の大きさの割りに胴体が大きいからではな
いか、と常々思っている
間違いなく「ヒメギフチョウ」だ。
しかも、もう一頭出てきた。
一頭は、直ぐに飛び去ったが、残りの一頭は、足元の
野草の花に、まるで衝突するかのように止まった。
絶好のチャンスだとばかり、カメラの用意をしたのだ
が、この一頭もせわしなく、ばたばたしながらあっと
いう間に飛び去ってしまった。
まあ、いることを確認したから良いか、と先に進んだ。

この辺りから、斜面の別荘地帯になるのだが、こうい
うところはどこでもそうだが、道が入り組んでいて、
どこをどう通ればどこに出るということが判らない。
が、登山道ではないので、どこかに迷い込むというこ
とも無いので、通ったことの無い道を行くことにした。
これも、この手の道の常だが、坂の具合がどの程度な
のかが始めは判らない。
今回も、どんどん急坂になってきて、歩くだけで結構
な運動となってしまった。
余程引き返そうかと思ったが、初めての道に対する興
味もあり突き進んだ。
ほぼ、頂点に達し、今度は下りとなった。
その間にも、何頭かの「ヒメギフ」は目撃された。
しかし、今日は、全てがせわしなく、止まりそうな気
配がない。
結局、八頭目撃した。
そして、最後に「キベリタテハ」(これも越冬体だ、
しかもまだ撮ってない種なのでヒメギフより実は撮り
たかった)を目撃して、本日は終了ということになっ
た。
天気も良く、気持ちよかったから、本日も良しである。
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蓼科

2008年05月01日 | Weblog


世の中連休中の人は多いらしく、「蓼科」は結構な人
出。
いつもなら、殆ど駐車していないプール平の駐車場も、
今日は止まっている。
と言っても、全体の四分の一程度だが。
昔に比べると、年々寂しくなってきている「蓼科」で
あるが、観光面では困ったことであろうが、個人的に
は人が少なくて、嬉しい。
ただ、使われなくなった別荘、そして手入れの行き届
かない林などが取り残されるので、うらぶれた雰囲気
が出てくるので良くない。
今回、回ったところなど、すでにそんな雰囲気が感じ
られた。
斜面を使った別荘地なので、結局使い勝手が悪いのと、
そこに至る道も良くないので(中心地に近いが、坂と
道幅)あまり使わなくなるのだろう。
最初は小奇麗だったであろうと思われる別荘が、すっ
かり変わり果てた姿を晒していたりする。
多分、建てたのは20年位前の、まだバブルの頃だと
思う。
持ち主も、世代的に交代の時期であろう。
しかし、次の世代はもう使いたくない。
自分達で掃除して、食事の用意をするなどという別荘
ライフは面倒くさいのではないだろうか。
けっか、放置される。
ますます、木の手入れはしなくなるから、周りは鬱蒼
としてくる。
そうなると、高原にも拘らず、風通しの悪い別荘周辺
は、夏場に空気がこもりむっとするなどという不快な
場所となってしまう。
実際、夏場、周辺を散歩すると、暗くむっとするよう
な所がところどころあるのだ。
そんな時、こんなところによく別荘建てたなと思う。
これは、「蓼科」に限らず、どこの別荘開発地に共通
することなんだろう。
理想は、手入れされた森(林)と人の少なさである。
そこに、一休みできるセンスの良いカフェでもあれば
言うこと無い(人が少ないというのはそういう商売が
成立たないということだから条件的には矛盾するが、
飽くまでも理想だから)。

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