ことばと文化, 鈴木孝夫, 岩波新書(青版)858(C98), 1973年
・言語学の大家による著作。題目のとおり、切っても切れない関係にある『ことば』と『文化』について独自の論を展開する。私たちにとってあまりに身近なゆえに意識しない、ことばに内包される問題を見つけ出し追究する過程が見事です。本当は1000ページぐらいは使いたいのだけど、涙をのんでどうにか200ページに圧縮した。そんな雰囲気が伝わってきます。
・「この本の中で私が文化と称するものは、ある人間集団に特有の、親から子へ、祖先から子孫へと学習により伝承されていく、行動及び思考様式上の固有の型(構図)のことである。(中略)つまり文化とは、人間の行動を支配する諸原理の中から本能的で生得的なものを除いた残りの、伝承性の強い社会的強制(慣習)の部分をさす概念だと考えてよい。」p.i
・「この本の目的は、ことばというものが、いかに文化であり、また文化としてのことばが、ことば以外の文化といかに関係しているかを、できるだけ平易なことばで明らかにすることにある。」p.ii
・「入門書とは、その学問特有のものの見方を示すものでなければならない。」p.iii
・「カトリック教徒は金曜日には獣肉を食べないし、イスラム教徒は、豚肉を不浄なものとして決して食べないというようなことは、誰でも知っている有名な事実であろう。」p.2 スンマセン。金曜日~のくだりは知りませんでした。。。
・「ことばを構造的に捉えなければならないという考え方は、過去二十年間、互いに多少の表現の差はあっても、多くの言語学者の基本的な考え方なのであり、」p.10
・「私の立場を、一口で言えば、「始めにことばありき」ということにつきる。」p.30
・「ここにあげた、水ということばの三つの言語による内容の相違は、人間のことばというものが、対象の世界を或る特定の角度から勝手に切り取るというしくみを持っていることの例としてよく引かれる。」p.37
・「人間の目というものは、そこにものがあれば、誰にとっても同じように見えるという公平無私のカメラではない。必ずそこには文化的選択が行なわれるのである。」p.54
・「ことばを使って世界を整理する時の仕方は、大なり小なりすべて人間中心、人間が基準なのである。」p.81
・「ところがことばを研究する学問である言語学では、ことばの音的側面の研究は長い歴史を持ち、従って非常に研究が進んでいるのに対して、ことばの意味の研究はひどく遅れている。」p.83
・「私はことばの意味とは一般的にいって、次のようなものと考えるべきだと思っている。 「私たちが、ある音声形態(具体的に言うならば、『犬』ということばの『イヌ』という音)との関連で持っている体験および知識の総体が、そのことばの『意味』と呼ばれるものである。」」p.91
・「たとえば、チョコレートを食べたことがない人に、チョコレートの味を、ことばだけで伝えることはできない。これが、ことばの「意味」というものは、ことばによっては伝達不可能であるという理由である。」p.95
・「名詞が本質的に「定義」されにくい、多面的多価値的な存在である具体的な事物に関係している」p.104
・「ものはことばでは押え切れないのである。」p.104
・「日本では動物愛護協会と、やわらかく訳されているこの会も、本家の英国では動物虐待防止協会Society for the Prevention of Cruelty to Animalsとはるかにどぎつくはっきりした名称を持っていて、」p.107
・「たしかに多くの日本人はいらなくなった犬や猫をいまでも捨てる。捨犬、のら犬、野犬狩りなどということばは英語には訳せない。(中略)それならば彼等はこのような時どうするかというと、薬で殺すか、ピストルで撃ち殺すのだ。イギリス人はこの方法が最小の苦痛で殺せるから一番合理的で動物のためになる処理法だと考えるのである。」p.108
・「イギリス人は家畜とは人間が完全に支配すべき、それ自身は自律性を持たない存在と考えている。人間が人間のために利用する隷属的な存在であるから、逆に一切を面倒見る責任が人間にある。不要な犬や、回復の難しい病気に罹った犬を、自分の手で殺すのは、生きるも死ぬも支配者としての人間が決めてやるべきだという考えに基づいている。」p.118
・「日本人が犬を躾け、意のままに服従させることが、英国人に比べていかに下手かということを詳しく例証したが、こうしてみると、日本人はもともと犬をとことんまで支配する気がないのである。」p.120
・「キリスト教は周知の如く動物には魂を認めないが、日本人の古来の宗教は、アニミズムやシャーマニズムの要素が強く、そこに加重された仏教には輪廻の思想もある。 このような彼我の世界観の違いは一言にして言えば断絶の思想と連続の思想の対比である。」p.121
・「外国のことは、外国に行ってみなければ判らないことが多いのは確かである。しかし、ただそこに行ったからとて、いやそこで長く暮らしたからとて、必ずしも判るものではないのが「見えない文化」なのである。見る方の人に、自分の文化を原点とした問題意識がなければ、実に多くのことが、そこにあっても、見えないのである。」p.125
・「たとえば、「僕」は、徳川期には主として漢文の中で用いられた文章語であった。勿論その意味は「あなたのしもべ」ということであり、自分を卑下して言ったわけである。」p.142
・「私が親族名称の第二の虚構的用法と呼ぶものの最大の特徴は、今見てきたように目上が目下と対話する時に用いる親族名称が究極的には家族の最年少者を基準点に取り、呼びかけられる人あるいは言及される人物が、すべてこの最年少者から見て、なんであるかを表わす用語で示されるという点である。」p.172
・「しかし西洋の言語学が問題にしてきた問題と同種または近似の問題のみを日本語の中に求めて、彼我の異同を論じ、しかもその際に向うの基準でこちらの現象の価値を考えるという態度を一度捨ててみると、私たちのまわりには、なんと多くの興味ある問題が手つかずに残っているかに気付くのである。」p.179
・「問題とはそこにあるものでなく、視点を設定した時はじめて出てくるものなのである。」p.180
・「このように日本人の特定のペアが役割で固定化し場面や時間の経過による変化を受けにくいのは、言語的相互規定があまりにも具体的な構造を持っていることと無関係ではないと思う。」p.195
・「私たち日本人は相手の気持、他人の考えを考慮する前に、一応自分としてはこう思うという自己の主張の原点を明らかにすることが、どうも苦手のようだ。相手の出方、他人の意見を基にして、それと自分の考えをどう調和させるかという相手待ちの方式がむしろ得意のようである。」p.201
・「日本人が外国語が不得手で、国際会議でも、学会でも実力の割におくれをとるのは、語学力そのものの点よりも、むしろ問題は、自分を言葉で充分表現する意志の弱さ、それも相手の主張や気持とは一応独立して、自分は少なくともこう考えるという自己主張の弱さに原因の大半があるように思えてならない。」p.203
・あとがき より「あまり本を書くことになれておらず、論文ばかり書いている私にとって、やさしく書くということが、いかに難しい、そして時には言い知れぬ不安におそわれることであるかを、今度ほど思い知ったことはなかった。(中略)書くべき材料は充分にある。資料も揃っている。それなのに書き始めると、文章が死んでいるのが自分にもはっきりと分ってしまうのだ。(中略)やさしく書くということは、ただ平易に噛みくだくということではなく、詠む人の心の動きを絶えず念頭に置くことなのだということに、おそまきながら私は気がついた。」p.208 最後の一文はどこかで見たと思ったら、前出の『岩波新書の50年』でまったく同じ文句を書き抜いていた。。。
~~~~~~~~~~
?干天の慈雨(ひでりつづきに降る待望の雨の意から)待ち望むものがかなえられること。、困難な時に救いに恵まれることのたとえ。
?トートロジー(英tautology フランスtautologie)同じことを表すことばの無用な繰り返し。同語反覆。
?うげん【迂言】 実情からはずれたことば。時世や事情にうとい言説。
?しふく【紙幅】 1 紙のはば。転じて、原稿などの定められた枚数。 2 書画を表装すること。また、その書画。
?やろうじだい【夜郎自大】(「史記‐西南夷伝」にみえる中国西南の民族野郎が、漢の強大を知らずに自分の勢力をほこったというところから)自分の力量を知らないでいばること。
《チェック本》鈴木孝夫『人にはどれだけの物が必要か―ミニマム生活のすすめ』中公文庫
・言語学の大家による著作。題目のとおり、切っても切れない関係にある『ことば』と『文化』について独自の論を展開する。私たちにとってあまりに身近なゆえに意識しない、ことばに内包される問題を見つけ出し追究する過程が見事です。本当は1000ページぐらいは使いたいのだけど、涙をのんでどうにか200ページに圧縮した。そんな雰囲気が伝わってきます。
・「この本の中で私が文化と称するものは、ある人間集団に特有の、親から子へ、祖先から子孫へと学習により伝承されていく、行動及び思考様式上の固有の型(構図)のことである。(中略)つまり文化とは、人間の行動を支配する諸原理の中から本能的で生得的なものを除いた残りの、伝承性の強い社会的強制(慣習)の部分をさす概念だと考えてよい。」p.i
・「この本の目的は、ことばというものが、いかに文化であり、また文化としてのことばが、ことば以外の文化といかに関係しているかを、できるだけ平易なことばで明らかにすることにある。」p.ii
・「入門書とは、その学問特有のものの見方を示すものでなければならない。」p.iii
・「カトリック教徒は金曜日には獣肉を食べないし、イスラム教徒は、豚肉を不浄なものとして決して食べないというようなことは、誰でも知っている有名な事実であろう。」p.2 スンマセン。金曜日~のくだりは知りませんでした。。。
・「ことばを構造的に捉えなければならないという考え方は、過去二十年間、互いに多少の表現の差はあっても、多くの言語学者の基本的な考え方なのであり、」p.10
・「私の立場を、一口で言えば、「始めにことばありき」ということにつきる。」p.30
・「ここにあげた、水ということばの三つの言語による内容の相違は、人間のことばというものが、対象の世界を或る特定の角度から勝手に切り取るというしくみを持っていることの例としてよく引かれる。」p.37
・「人間の目というものは、そこにものがあれば、誰にとっても同じように見えるという公平無私のカメラではない。必ずそこには文化的選択が行なわれるのである。」p.54
・「ことばを使って世界を整理する時の仕方は、大なり小なりすべて人間中心、人間が基準なのである。」p.81
・「ところがことばを研究する学問である言語学では、ことばの音的側面の研究は長い歴史を持ち、従って非常に研究が進んでいるのに対して、ことばの意味の研究はひどく遅れている。」p.83
・「私はことばの意味とは一般的にいって、次のようなものと考えるべきだと思っている。 「私たちが、ある音声形態(具体的に言うならば、『犬』ということばの『イヌ』という音)との関連で持っている体験および知識の総体が、そのことばの『意味』と呼ばれるものである。」」p.91
・「たとえば、チョコレートを食べたことがない人に、チョコレートの味を、ことばだけで伝えることはできない。これが、ことばの「意味」というものは、ことばによっては伝達不可能であるという理由である。」p.95
・「名詞が本質的に「定義」されにくい、多面的多価値的な存在である具体的な事物に関係している」p.104
・「ものはことばでは押え切れないのである。」p.104
・「日本では動物愛護協会と、やわらかく訳されているこの会も、本家の英国では動物虐待防止協会Society for the Prevention of Cruelty to Animalsとはるかにどぎつくはっきりした名称を持っていて、」p.107
・「たしかに多くの日本人はいらなくなった犬や猫をいまでも捨てる。捨犬、のら犬、野犬狩りなどということばは英語には訳せない。(中略)それならば彼等はこのような時どうするかというと、薬で殺すか、ピストルで撃ち殺すのだ。イギリス人はこの方法が最小の苦痛で殺せるから一番合理的で動物のためになる処理法だと考えるのである。」p.108
・「イギリス人は家畜とは人間が完全に支配すべき、それ自身は自律性を持たない存在と考えている。人間が人間のために利用する隷属的な存在であるから、逆に一切を面倒見る責任が人間にある。不要な犬や、回復の難しい病気に罹った犬を、自分の手で殺すのは、生きるも死ぬも支配者としての人間が決めてやるべきだという考えに基づいている。」p.118
・「日本人が犬を躾け、意のままに服従させることが、英国人に比べていかに下手かということを詳しく例証したが、こうしてみると、日本人はもともと犬をとことんまで支配する気がないのである。」p.120
・「キリスト教は周知の如く動物には魂を認めないが、日本人の古来の宗教は、アニミズムやシャーマニズムの要素が強く、そこに加重された仏教には輪廻の思想もある。 このような彼我の世界観の違いは一言にして言えば断絶の思想と連続の思想の対比である。」p.121
・「外国のことは、外国に行ってみなければ判らないことが多いのは確かである。しかし、ただそこに行ったからとて、いやそこで長く暮らしたからとて、必ずしも判るものではないのが「見えない文化」なのである。見る方の人に、自分の文化を原点とした問題意識がなければ、実に多くのことが、そこにあっても、見えないのである。」p.125
・「たとえば、「僕」は、徳川期には主として漢文の中で用いられた文章語であった。勿論その意味は「あなたのしもべ」ということであり、自分を卑下して言ったわけである。」p.142
・「私が親族名称の第二の虚構的用法と呼ぶものの最大の特徴は、今見てきたように目上が目下と対話する時に用いる親族名称が究極的には家族の最年少者を基準点に取り、呼びかけられる人あるいは言及される人物が、すべてこの最年少者から見て、なんであるかを表わす用語で示されるという点である。」p.172
・「しかし西洋の言語学が問題にしてきた問題と同種または近似の問題のみを日本語の中に求めて、彼我の異同を論じ、しかもその際に向うの基準でこちらの現象の価値を考えるという態度を一度捨ててみると、私たちのまわりには、なんと多くの興味ある問題が手つかずに残っているかに気付くのである。」p.179
・「問題とはそこにあるものでなく、視点を設定した時はじめて出てくるものなのである。」p.180
・「このように日本人の特定のペアが役割で固定化し場面や時間の経過による変化を受けにくいのは、言語的相互規定があまりにも具体的な構造を持っていることと無関係ではないと思う。」p.195
・「私たち日本人は相手の気持、他人の考えを考慮する前に、一応自分としてはこう思うという自己の主張の原点を明らかにすることが、どうも苦手のようだ。相手の出方、他人の意見を基にして、それと自分の考えをどう調和させるかという相手待ちの方式がむしろ得意のようである。」p.201
・「日本人が外国語が不得手で、国際会議でも、学会でも実力の割におくれをとるのは、語学力そのものの点よりも、むしろ問題は、自分を言葉で充分表現する意志の弱さ、それも相手の主張や気持とは一応独立して、自分は少なくともこう考えるという自己主張の弱さに原因の大半があるように思えてならない。」p.203
・あとがき より「あまり本を書くことになれておらず、論文ばかり書いている私にとって、やさしく書くということが、いかに難しい、そして時には言い知れぬ不安におそわれることであるかを、今度ほど思い知ったことはなかった。(中略)書くべき材料は充分にある。資料も揃っている。それなのに書き始めると、文章が死んでいるのが自分にもはっきりと分ってしまうのだ。(中略)やさしく書くということは、ただ平易に噛みくだくということではなく、詠む人の心の動きを絶えず念頭に置くことなのだということに、おそまきながら私は気がついた。」p.208 最後の一文はどこかで見たと思ったら、前出の『岩波新書の50年』でまったく同じ文句を書き抜いていた。。。
~~~~~~~~~~
?干天の慈雨(ひでりつづきに降る待望の雨の意から)待ち望むものがかなえられること。、困難な時に救いに恵まれることのたとえ。
?トートロジー(英tautology フランスtautologie)同じことを表すことばの無用な繰り返し。同語反覆。
?うげん【迂言】 実情からはずれたことば。時世や事情にうとい言説。
?しふく【紙幅】 1 紙のはば。転じて、原稿などの定められた枚数。 2 書画を表装すること。また、その書画。
?やろうじだい【夜郎自大】(「史記‐西南夷伝」にみえる中国西南の民族野郎が、漢の強大を知らずに自分の勢力をほこったというところから)自分の力量を知らないでいばること。
《チェック本》鈴木孝夫『人にはどれだけの物が必要か―ミニマム生活のすすめ』中公文庫