【幸兵衛窯七代加藤幸兵衛氏からの質問】
最初の写真は1ヶ月ほど前に注文した酒杯です.木箱の箱書きが完成して,手元に届きました.先月,岐阜県の東濃地方で作られている焼き物である美濃焼を見学するため,多治見市の「幸兵衛窯」を訪問しました.1804年,初代加藤幸兵衛により,美濃国市之倉郷にて開窯され,間もなく江戸城本丸,西御丸へ染付食器を納める御用窯となった名門です.現在の当主は七代加藤幸兵衛氏です.
いろいろな焼き物を拝見したあと,酒器のコーナーで,蛇の絵柄の酒杯を見つけました.すぐに「アスクレピオスの杖」だと気づきました.高価なので迷いましたが,私は臨床実習の学生に「アスクレピオスの杖」をいつも講義しているので,これもきっと縁だと思い購入しました.お店のかたに「もしかしたらお医者さんですか?」と尋ねられ,「はい,そうです」とお返事したところ,驚いたことに七代加藤幸兵衛氏を呼んでくださいました.それから自己紹介して,しばらく「アスクレピオスの杖」について意見交換をしました.その際に「なぜ蛇なのでしょうか?」というご質問をいただきました.また蛇2匹のバージョンもあるとお話したところ,「かなり調べましたが,2本のものは見たことはありません.おかしいなあ」という話になりました.
これらの質問に対し,きちんと回答ができませんでしたので,調べて七代幸兵衛氏にお手紙を書きました.その内容を以下にまとめてみたいと思います.
【なぜ蛇なのか?】
これは,古代ギリシャの名医であるアスクレピオスが患者を診察している時,彼を驚かせた蛇を杖で殺してしまいますが,他の蛇が,死んだ蛇の口に魔法の薬草を入れて蘇らせます.この力に感動した彼は杖に巻きついた一匹の蛇をシンボルとしたそうです.
アスクレピオスはもともと人間として生まれましたが,その医療技術があまりにも優れていたため,死者を蘇らせることまでできるようになったとされています.しかしこの行為により,人間の自然な生死の循環を脅かす存在とみなされ,ゼウスの怒りを買い,雷で彼は打ち倒されてしまいました.ただしアスクレピオスの医療への献身と功績が評価され,後に彼は神格化されました.
つぎに蛇と杖の解釈です.まず蛇についてです.医師であった下界(人間)のアスクレピオスも,医神になったアスクレピオスも,共に蛇を携えています.つまり蛇は医師も医神も行う「医術」を意味すると考えられています.
次に杖です.人間のアスクレピオスは杖を持っていますが,神となったアスクレピオスは杖を持っていません.人間は過ちを犯し,神は犯さない,つまり下界の身に必要で天空の神には不必要なもの,それは「医の倫理」と一般に考えられています.余談ですが,日本医師会のマークは図1の通り,他のマークでは必ず杖も一緒に描かれているのに,蛇だけであり,「医の倫理」を必要ないもの,あるいはそれほど重要でないものと考えているのでは?という批判もあります.
【蛇は1匹か,2匹か?】
アスクレピオスの杖の蛇は1匹のものと,2匹のものがあります.インターネットで画像検索をしたところ,確かに1匹のものが多いようです.有名な図柄として世界保健機構WHO(図2左)や米国医師会(図2中)のものがありました.
一方,古来より2匹の蛇が絡みつくデザインも存在しています(図2右).この2匹の蛇が絡む杖は,ギリシャ神話のヘルメス神の持ち物の杖「カドゥケウス」として知られ,平和・医術・医学・医師・商業・発明・雄弁・旅・錬金術など幅広い意味を持つようです.Wikipediaによると「アスクレピオスの杖とカドゥケウスはデザインがよく似ているが,両者は別のものである.ただ,二者の混同は欧米においてもしばしば見られる」と書かれています.カドゥケウスは杖に翼が付いているため装飾性が高く,アスクレピオスの杖として誤用された例があるようです.
【もう一つの蛇2匹のアスクレピオスの杖の意義】
ただ「蛇2匹のアスクレピオスの杖」には単なる誤用ではなく,古来から蛇2匹バージョンもあったようです!!
図3左は,あちこち調べて見つけた医神ヒポクラテスに関連する古い医学書の表紙ですが,杖に絡みついた2匹の蛇が描かれています.上部に「HIPPOCRATIS COI MEDICI」と書かれており,これは「コスの医師ヒポクラテス」を意味します.またラテン語やギリシャ語の記述があることから,16世紀ごろの医療文献であることが伺えます.
さらに図3右は,カナダのマギル大学で,全人的医療の権威であるTom A. Hutchinson教授の講義を受けた際の 1コマで,私が医学生の教育の際に使用しているスライドなのですが,アスクレピオスの杖として図のデザインが紹介されていました.教授は「杖は医師を意味し,白蛇は知識,黒蛇は知恵を意味する.言い換えると白蛇は治療であり,黒蛇は癒やしである」とおっしゃっていました.つまり医療には2面性があり,知識や治療だけではだめで,患者さんを癒やす知恵が必要である,そのための人間としての成長が必要であるというお話をされていました.
まとめると,蛇は医術,杖は医療倫理,蛇は1匹,2匹,いずれのバージョンがあるものの,2匹バージョンは医療の2面性を表しているということになります.
七代幸兵衛氏へのお手紙には,素晴らしい酒器に巡り会えたことへのお礼と「アスクレピオスの杖」について深く考える機会をいただいたことへの感謝を書かせていただきました.
最初の写真は1ヶ月ほど前に注文した酒杯です.木箱の箱書きが完成して,手元に届きました.先月,岐阜県の東濃地方で作られている焼き物である美濃焼を見学するため,多治見市の「幸兵衛窯」を訪問しました.1804年,初代加藤幸兵衛により,美濃国市之倉郷にて開窯され,間もなく江戸城本丸,西御丸へ染付食器を納める御用窯となった名門です.現在の当主は七代加藤幸兵衛氏です.
いろいろな焼き物を拝見したあと,酒器のコーナーで,蛇の絵柄の酒杯を見つけました.すぐに「アスクレピオスの杖」だと気づきました.高価なので迷いましたが,私は臨床実習の学生に「アスクレピオスの杖」をいつも講義しているので,これもきっと縁だと思い購入しました.お店のかたに「もしかしたらお医者さんですか?」と尋ねられ,「はい,そうです」とお返事したところ,驚いたことに七代加藤幸兵衛氏を呼んでくださいました.それから自己紹介して,しばらく「アスクレピオスの杖」について意見交換をしました.その際に「なぜ蛇なのでしょうか?」というご質問をいただきました.また蛇2匹のバージョンもあるとお話したところ,「かなり調べましたが,2本のものは見たことはありません.おかしいなあ」という話になりました.
これらの質問に対し,きちんと回答ができませんでしたので,調べて七代幸兵衛氏にお手紙を書きました.その内容を以下にまとめてみたいと思います.
【なぜ蛇なのか?】
これは,古代ギリシャの名医であるアスクレピオスが患者を診察している時,彼を驚かせた蛇を杖で殺してしまいますが,他の蛇が,死んだ蛇の口に魔法の薬草を入れて蘇らせます.この力に感動した彼は杖に巻きついた一匹の蛇をシンボルとしたそうです.
アスクレピオスはもともと人間として生まれましたが,その医療技術があまりにも優れていたため,死者を蘇らせることまでできるようになったとされています.しかしこの行為により,人間の自然な生死の循環を脅かす存在とみなされ,ゼウスの怒りを買い,雷で彼は打ち倒されてしまいました.ただしアスクレピオスの医療への献身と功績が評価され,後に彼は神格化されました.
つぎに蛇と杖の解釈です.まず蛇についてです.医師であった下界(人間)のアスクレピオスも,医神になったアスクレピオスも,共に蛇を携えています.つまり蛇は医師も医神も行う「医術」を意味すると考えられています.
次に杖です.人間のアスクレピオスは杖を持っていますが,神となったアスクレピオスは杖を持っていません.人間は過ちを犯し,神は犯さない,つまり下界の身に必要で天空の神には不必要なもの,それは「医の倫理」と一般に考えられています.余談ですが,日本医師会のマークは図1の通り,他のマークでは必ず杖も一緒に描かれているのに,蛇だけであり,「医の倫理」を必要ないもの,あるいはそれほど重要でないものと考えているのでは?という批判もあります.
【蛇は1匹か,2匹か?】
アスクレピオスの杖の蛇は1匹のものと,2匹のものがあります.インターネットで画像検索をしたところ,確かに1匹のものが多いようです.有名な図柄として世界保健機構WHO(図2左)や米国医師会(図2中)のものがありました.
一方,古来より2匹の蛇が絡みつくデザインも存在しています(図2右).この2匹の蛇が絡む杖は,ギリシャ神話のヘルメス神の持ち物の杖「カドゥケウス」として知られ,平和・医術・医学・医師・商業・発明・雄弁・旅・錬金術など幅広い意味を持つようです.Wikipediaによると「アスクレピオスの杖とカドゥケウスはデザインがよく似ているが,両者は別のものである.ただ,二者の混同は欧米においてもしばしば見られる」と書かれています.カドゥケウスは杖に翼が付いているため装飾性が高く,アスクレピオスの杖として誤用された例があるようです.
【もう一つの蛇2匹のアスクレピオスの杖の意義】
ただ「蛇2匹のアスクレピオスの杖」には単なる誤用ではなく,古来から蛇2匹バージョンもあったようです!!
図3左は,あちこち調べて見つけた医神ヒポクラテスに関連する古い医学書の表紙ですが,杖に絡みついた2匹の蛇が描かれています.上部に「HIPPOCRATIS COI MEDICI」と書かれており,これは「コスの医師ヒポクラテス」を意味します.またラテン語やギリシャ語の記述があることから,16世紀ごろの医療文献であることが伺えます.
さらに図3右は,カナダのマギル大学で,全人的医療の権威であるTom A. Hutchinson教授の講義を受けた際の 1コマで,私が医学生の教育の際に使用しているスライドなのですが,アスクレピオスの杖として図のデザインが紹介されていました.教授は「杖は医師を意味し,白蛇は知識,黒蛇は知恵を意味する.言い換えると白蛇は治療であり,黒蛇は癒やしである」とおっしゃっていました.つまり医療には2面性があり,知識や治療だけではだめで,患者さんを癒やす知恵が必要である,そのための人間としての成長が必要であるというお話をされていました.
まとめると,蛇は医術,杖は医療倫理,蛇は1匹,2匹,いずれのバージョンがあるものの,2匹バージョンは医療の2面性を表しているということになります.
七代幸兵衛氏へのお手紙には,素晴らしい酒器に巡り会えたことへのお礼と「アスクレピオスの杖」について深く考える機会をいただいたことへの感謝を書かせていただきました.