回診でAnton症候群について議論をした.名称の由来になったGabriel Anton(図左:1858-1933)に関心をもち,文献を渉猟していくうちに,予想外のことを学ぶことになった.
【Anton症候群とは】
Anton症候群は稀ではあるが有名な症候群である.視力障害があるのに,本人は見えていないという自覚がない.つまり,全部または一部の視覚を失っていながら,本人は見えていると証言をするのだ.視覚障害の証拠を示しても,作話により視覚障害を否定する.このため家族や医療スタッフは,目が見えないことに気がつくのに数日かかることもある.
これは病態失認(anosognosia)のひとつである.皮質盲に伴う病態失認をAnton症候群,片麻痺に伴う病態失認をAnton-Babinski症候群と呼ぶ.Antonが初めてこの症候を記載したわけではなく,初めてその病態生理に関する仮説を示したため,その名前がついた.Antonは視覚野と身体自己像を認識する中枢(これがどこかまでは記述していないが,頭頂葉と考えられる)のあいだの線維連絡が遮断されたため,病態失認が生じると考えた.現在使われる神経ネットワークや離断症候群の概念に通じる考えである.
原因としては脳卒中が多く,その他,PRES(posterior reversible encephalopathy syndrome),副腎白質ジストロフィー,ミトコンドリア脳筋症,子癇前症などが報告されている.また後頭葉てんかんの発作後に生じ,徐々に改善するという報告もあるが(Clin Neurol Neurosurg. 2012),個人的にも同様の経験をした.
【Antonの輝かしい業績】
Antonは1858年,当時オーストリア領であったボヘミアに生まれた.プラハ大学(ドイツ語大学)で医学を学んだ.彼が神経学の指導を仰いだのはキアリ奇形で知られるHans Chiari,ピック病で知られるArnold Pick,そしてPickの師であり,マイネルト基底核で知られるTheodor Meynertという錚々たる教授陣だった.彼は大脳発達障害に関する研究を行い,1889年に精神・神経科教授となり,現代医学に貢献する輝かしい多岐にわたる業績をあげた.
まず舞踏運動(コレア)の病態機序を解明した.シデナム舞踏病を研究し,その責任病巣を線状体とした上で,線条体は下位にある淡蒼球などを抑制的に制御するため,線条体が障害されると下位中枢の作用が亢進し,運動過剰になると説明した(田村はこの功績をもってAntonを「錐体外路系研究の祖」と呼んでいる).それまで舞踏運動に関して,Pickは錐体路の機能亢進が原因と主張し,Charcotは舞踏運動固有の線維束が存在すると主張していたことを考えると,Antonの先見性には驚かされる.
またAntonは神経損傷患者のリハビリテーションを行い,現在の神経可塑性の概念の基礎を作った.加えて,水頭症と頭蓋内圧亢進の関係を見出し,治療にも取り組み,脳梁穿刺術(内シャント)を発明した(図右).Antonは神経学の中心的存在になったが,ナチ政権成立した1933年に75歳で亡くなった.
【Antonの業績が抹消された理由】
しかし私は,Antonのこれほどまでに輝かしい業績を今回,初めて知った.おそらく多くの神経内科医もそうではないだろうか.文献を読み進めていくと,田村とKondziellaによる2つの論文にたどり着き,彼の業績が抹消された理由が分かった.Antonは「民族衛生学(racial hygiene),優生学(eugenics)」を強く支持していたため,英語圏の研究者からその存在や業績を抹消されたのだ.
「民族衛生学」は,民族の存亡に関わる疾病や現象への対策を考える学問である.具体的には遺伝性疾患の予防や撲滅,精神障害,犯罪などの根絶,さらに人口調節など民族の保全・充実を目的とする.ナチスドイツは,ゲルマン民族の優位性を維持する手段として,この「民族衛生学」の考え方を採用し,そしてその強化を試みた.つまりユダヤ人,ジプシー.同性愛者,回復の見込みのない精神病患者などを「生きる価値のない生命(Lebensunwertes Leben)」と法律で定め,ホロコースト(大量虐殺)のプログラムを行なった.その理論的根拠となったのが「民族衛生学」であり,Antonはこの学説を強く支持した学者の1人であった.Antonはナチ政権成立前に亡くなったためホロコーストには関わっていないが,HallorvordenやSpatzなど多くの医師・医学者はこれに関与した.このなかには優れた学問的業績を残した人も少なくなかった.
【私たちは何を学ぶべきか?】
まず私たちが知っておくべきことは,ナチスによるホロコーストは,単に人間の狂気や残虐性の結果起きたのではなく,未熟であったとはいえ科学的な学問に基づき,導き出された政策であったという点である.ナチ政権成立前夜の時期において,ドイツ全土の大学病院に多数の弟子を擁していたというAntonの主張が,ナチの指導者のみならず医師,医学者に大きな影響与えたことは疑念の余地がないと言われている.「医学は政治と同調しやすい(ナチスと神経内科参照)」ことを改めて認識し,医学における倫理教育を確実に行なう必要がある.
もうひとつ知っておくべきは,HallorvordenやSpatzと同様,医学研究の業績は政治的な理由で抹消されうるという点である.これはその非人道性から当然だという意見もあるだろう.一方で,田村は「学問が政治から独立して発展するためには,異なった時代や社会の体制からの視点で,過去の研究の研究者の言動を批判することは当然良いとしても,業績まで抹消してはならない」と述べている.私もAntonが「民族衛生学」を支持し,それを政権に委ねる結果になった点は非難されてしかるべきと考えるが,あれほどの第一級の業績を残したことまで無にするのは学問が政治から独立しているのか,健全な状態と言えるのかと考えてしまう.
「ナチスと神経内科」と題した2つのブログ記事を記載したが,いずれも医学は政治と相互に強く影響を及ぼし合うことを感じさせるものであった.新しい生命科学技術が急速に発展する現代においても,この点は意識しておく必要があるように思われた.
田村直俊.Gabriel Anton (1858-1933)と消された業績.神経内科68;403-8, 2008
Kondziella D, et al. Anton's syndrome and eugenics. J Clin Neurol. 2011 Jun;7(2):96-8.
Cheng J, et al. Occipital seizures manifesting as visual loss with post-ictal Anton's syndrome. Clin Neurol Neurosurg. 2012 May;114(4):408-10.
【Anton症候群とは】
Anton症候群は稀ではあるが有名な症候群である.視力障害があるのに,本人は見えていないという自覚がない.つまり,全部または一部の視覚を失っていながら,本人は見えていると証言をするのだ.視覚障害の証拠を示しても,作話により視覚障害を否定する.このため家族や医療スタッフは,目が見えないことに気がつくのに数日かかることもある.
これは病態失認(anosognosia)のひとつである.皮質盲に伴う病態失認をAnton症候群,片麻痺に伴う病態失認をAnton-Babinski症候群と呼ぶ.Antonが初めてこの症候を記載したわけではなく,初めてその病態生理に関する仮説を示したため,その名前がついた.Antonは視覚野と身体自己像を認識する中枢(これがどこかまでは記述していないが,頭頂葉と考えられる)のあいだの線維連絡が遮断されたため,病態失認が生じると考えた.現在使われる神経ネットワークや離断症候群の概念に通じる考えである.
原因としては脳卒中が多く,その他,PRES(posterior reversible encephalopathy syndrome),副腎白質ジストロフィー,ミトコンドリア脳筋症,子癇前症などが報告されている.また後頭葉てんかんの発作後に生じ,徐々に改善するという報告もあるが(Clin Neurol Neurosurg. 2012),個人的にも同様の経験をした.
【Antonの輝かしい業績】
Antonは1858年,当時オーストリア領であったボヘミアに生まれた.プラハ大学(ドイツ語大学)で医学を学んだ.彼が神経学の指導を仰いだのはキアリ奇形で知られるHans Chiari,ピック病で知られるArnold Pick,そしてPickの師であり,マイネルト基底核で知られるTheodor Meynertという錚々たる教授陣だった.彼は大脳発達障害に関する研究を行い,1889年に精神・神経科教授となり,現代医学に貢献する輝かしい多岐にわたる業績をあげた.
まず舞踏運動(コレア)の病態機序を解明した.シデナム舞踏病を研究し,その責任病巣を線状体とした上で,線条体は下位にある淡蒼球などを抑制的に制御するため,線条体が障害されると下位中枢の作用が亢進し,運動過剰になると説明した(田村はこの功績をもってAntonを「錐体外路系研究の祖」と呼んでいる).それまで舞踏運動に関して,Pickは錐体路の機能亢進が原因と主張し,Charcotは舞踏運動固有の線維束が存在すると主張していたことを考えると,Antonの先見性には驚かされる.
またAntonは神経損傷患者のリハビリテーションを行い,現在の神経可塑性の概念の基礎を作った.加えて,水頭症と頭蓋内圧亢進の関係を見出し,治療にも取り組み,脳梁穿刺術(内シャント)を発明した(図右).Antonは神経学の中心的存在になったが,ナチ政権成立した1933年に75歳で亡くなった.
【Antonの業績が抹消された理由】
しかし私は,Antonのこれほどまでに輝かしい業績を今回,初めて知った.おそらく多くの神経内科医もそうではないだろうか.文献を読み進めていくと,田村とKondziellaによる2つの論文にたどり着き,彼の業績が抹消された理由が分かった.Antonは「民族衛生学(racial hygiene),優生学(eugenics)」を強く支持していたため,英語圏の研究者からその存在や業績を抹消されたのだ.
「民族衛生学」は,民族の存亡に関わる疾病や現象への対策を考える学問である.具体的には遺伝性疾患の予防や撲滅,精神障害,犯罪などの根絶,さらに人口調節など民族の保全・充実を目的とする.ナチスドイツは,ゲルマン民族の優位性を維持する手段として,この「民族衛生学」の考え方を採用し,そしてその強化を試みた.つまりユダヤ人,ジプシー.同性愛者,回復の見込みのない精神病患者などを「生きる価値のない生命(Lebensunwertes Leben)」と法律で定め,ホロコースト(大量虐殺)のプログラムを行なった.その理論的根拠となったのが「民族衛生学」であり,Antonはこの学説を強く支持した学者の1人であった.Antonはナチ政権成立前に亡くなったためホロコーストには関わっていないが,HallorvordenやSpatzなど多くの医師・医学者はこれに関与した.このなかには優れた学問的業績を残した人も少なくなかった.
【私たちは何を学ぶべきか?】
まず私たちが知っておくべきことは,ナチスによるホロコーストは,単に人間の狂気や残虐性の結果起きたのではなく,未熟であったとはいえ科学的な学問に基づき,導き出された政策であったという点である.ナチ政権成立前夜の時期において,ドイツ全土の大学病院に多数の弟子を擁していたというAntonの主張が,ナチの指導者のみならず医師,医学者に大きな影響与えたことは疑念の余地がないと言われている.「医学は政治と同調しやすい(ナチスと神経内科参照)」ことを改めて認識し,医学における倫理教育を確実に行なう必要がある.
もうひとつ知っておくべきは,HallorvordenやSpatzと同様,医学研究の業績は政治的な理由で抹消されうるという点である.これはその非人道性から当然だという意見もあるだろう.一方で,田村は「学問が政治から独立して発展するためには,異なった時代や社会の体制からの視点で,過去の研究の研究者の言動を批判することは当然良いとしても,業績まで抹消してはならない」と述べている.私もAntonが「民族衛生学」を支持し,それを政権に委ねる結果になった点は非難されてしかるべきと考えるが,あれほどの第一級の業績を残したことまで無にするのは学問が政治から独立しているのか,健全な状態と言えるのかと考えてしまう.
「ナチスと神経内科」と題した2つのブログ記事を記載したが,いずれも医学は政治と相互に強く影響を及ぼし合うことを感じさせるものであった.新しい生命科学技術が急速に発展する現代においても,この点は意識しておく必要があるように思われた.
田村直俊.Gabriel Anton (1858-1933)と消された業績.神経内科68;403-8, 2008
Kondziella D, et al. Anton's syndrome and eugenics. J Clin Neurol. 2011 Jun;7(2):96-8.
Cheng J, et al. Occipital seizures manifesting as visual loss with post-ictal Anton's syndrome. Clin Neurol Neurosurg. 2012 May;114(4):408-10.