丈高く伸びた樹木。しかし、葉の落ちた裸木である。しかも何故か、その枝々は平面的であり一枚の葉の形を呈している。明らかに葉に見えるその形が持つ意味とは何だろう。しかも葉の中の葉脈はあたかも増殖していく樹木のような形を暗示している。
視点は二つに分散されている。遥かに広がる平原、そして丈高い葉の形を呈した裸木は真正面から対峙している。
赤く丸い太陽、日の入りか日の出か分からないが地球の大気圏を通して膨張して見える赤い太陽である。
これらの条件で見えてくるもの・・・始まりと終わり。
徒長した樹木は木としての生命の終わりを予感させるが、新しい芽の息吹きをも期待させる。
太陽は一日の終わりを告げているように見えるが、一日の始まりの朝日にも見える。
この平原には人為的なものが見当たらない。かつて栄え、滅亡した遺跡なのか新開地なのかも分からない荒地然とした広大な土地。
透けて見える葉の形は、ノアの方舟で鳩がくわえてきた生命のしるしであるオリーブの葉を連想させる。つまりは生存の始まりたる根拠。
他に例えることを拒否するような絶対的な真実…必至…それは死、他にあるだろうか。
しかし、死は生まれることによってしか生じない現象である。
アミノ酸という有機物質が何かの変異で生命をもたらしたとされている。太陽を抜きにして地球は語れない。宇宙の進化、わたしたち人類は旅の途中の産物かもしれない。
《絶対》という究極は、死(終末)によって明らかにされるように見える。しかし、死は誕生なくしては有り得ない。
始まりと終わり・・・誕生と死、「日は沈み、また日は昇る」という自然の理は絶対である。
絶対はどこまでも続く連鎖の現象なのだろうか。
マグリットは、絶対の輝きをもつ命の源である太陽に対峙しつつ、究極の絶対を探究する。大地に聳え立つ見透かされた裸木、これは人智の創り出した観念、礼節の教えである。
超えることの出来ない条理(太陽)に対峙する人智の象徴たる裸木。絶対は、始まりと終わりの区別のつかない時空の彼方にあるのかもしれない。
(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)
視点は二つに分散されている。遥かに広がる平原、そして丈高い葉の形を呈した裸木は真正面から対峙している。
赤く丸い太陽、日の入りか日の出か分からないが地球の大気圏を通して膨張して見える赤い太陽である。
これらの条件で見えてくるもの・・・始まりと終わり。
徒長した樹木は木としての生命の終わりを予感させるが、新しい芽の息吹きをも期待させる。
太陽は一日の終わりを告げているように見えるが、一日の始まりの朝日にも見える。
この平原には人為的なものが見当たらない。かつて栄え、滅亡した遺跡なのか新開地なのかも分からない荒地然とした広大な土地。
透けて見える葉の形は、ノアの方舟で鳩がくわえてきた生命のしるしであるオリーブの葉を連想させる。つまりは生存の始まりたる根拠。
他に例えることを拒否するような絶対的な真実…必至…それは死、他にあるだろうか。
しかし、死は生まれることによってしか生じない現象である。
アミノ酸という有機物質が何かの変異で生命をもたらしたとされている。太陽を抜きにして地球は語れない。宇宙の進化、わたしたち人類は旅の途中の産物かもしれない。
《絶対》という究極は、死(終末)によって明らかにされるように見える。しかし、死は誕生なくしては有り得ない。
始まりと終わり・・・誕生と死、「日は沈み、また日は昇る」という自然の理は絶対である。
絶対はどこまでも続く連鎖の現象なのだろうか。
マグリットは、絶対の輝きをもつ命の源である太陽に対峙しつつ、究極の絶対を探究する。大地に聳え立つ見透かされた裸木、これは人智の創り出した観念、礼節の教えである。
超えることの出来ない条理(太陽)に対峙する人智の象徴たる裸木。絶対は、始まりと終わりの区別のつかない時空の彼方にあるのかもしれない。
(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)