続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『模範例』

2015-08-14 07:15:25 | 美術ノート
『模範例』とは手本になるような例ということである。

「たとえば、こういうことである」という作例。
 マグリットの作品の中には幾つもの約束が潜んでいる。その一つにバックの彩色があり、オレンジ一色のベタは年代不詳、時空の特定を持たない空想の次元だと、わたしは解釈している。

 傘を持った中年の男、相応の着衣を身にまとった紳士。
 画面下に書かれた文字は、『座った人物』ということらしい。


 この少ない情報から想起されることは、明らかなる肖像に付記されたコメントが、必ずしも一致していないという事実に尽きる。
 近年、聖徳太子像は本物ではないとか、歴史年代の誤りが指摘されたりしている。

 現今では、立っている姿を直視して、座っているとは誰も思わないし、「座っている人物」と付記されていても「NO!」と声高に叫ぶことができる。

 言葉は進化、歪曲する。数の論理を待たないまでも、多勢をもって肯定されることは大いにありうる流れである。


 いとおかし…は可笑しい、奇妙だという意味ではなく愛らしいことであるなどと説明されると、(そうなんだ)と無理やり納得する。
 立っている状態…これは座っている状態をこそ指すんです。などという説明がなされることも無いとは言えない。

 視覚と言葉は一体ではない。視覚における説明が剥がれ落ち、新しい矛盾ともいえる説明を由とすることも錯綜する文化の中では、この先いつの時代かに生じるのではないか。


 視覚と言語は同一視されているが、ある種の現象により変化を余儀なくされるものである。
 マグリットはここに『模範例』をあげて、問の答えを探っている。


(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)

妹の来訪。

2015-08-14 06:21:16 | 日常
 七月と八月のお盆には必ずお墓参りをしていたのに、近年は七月だけで勘弁してもらっている。
 そこへ妹から電話・・・「これから行くから」
 「…助かるわ、わたしも一緒に行くから」と、わたし。

 市営のお墓が町内にあるため、欠かさずに足を運んでいたけれど、近年は夏の暑さに負けたのか八月のお墓参りを抜かすようになってしまった。(ああ、こんな墓守では・・・)と、自分を責めていたところへの電話。


《ありがとう》妹が来てくれれば両親も喜ぶに違いない。

「忙しいのに、わざわざ来てくれて悪いね」と言えば、
「今日から休みだから」と笑った。

 妹はタフである。その妹がやっぱり膝の具合が万全ではないと嘆いたとき、(わたし/姉よりはひどくなりませんように!)と、思わず祈願。

 妹の手土産を広げ、お茶を飲みながら、わが家を見まわした妹が言った。
「お姉さん、キッチンなんか、二十万も出せばすっきりきれいになるわよ」と。
「そうね、でもいいの…」と、わたし。

「この家に来ると、何か原点に戻れるわ」と、妹。
「貧しげで?」
「いえ、いえ、そういうわけじゃないわ」

 同じ境遇に育った姉妹、今では持てる力の差は歴然。豊かに暮らす妹には貧相なたたずまいが懐かしいのかもしれない。
(でもね、これで十分満足しているのよ、姉さんは)とも言えず苦笑い。

(血を分けた妹が豊かに暮らしているだけで姉のわたしは十分嬉しいの)


 苦瓜を三本、嬉しそうに持って帰った妹。(何ももてなしが出来なくてごめんね)
 お互い元気でいましょうね、それが何よりの供養だから。来てくれて、ありがとう。

『銀河鉄道の夜』47。

2015-08-14 06:12:15 | 宮沢賢治
「あゝあたしはゆっくりでいゝんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、トマトで何かこしらへてそこへ置いて行ったよ。」
「ではぼくたべよう。」
 ジョバンニは窓のところからトマトの皿をとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。


☆繕(つくろいなおす)詞(ことば)は化(形、性質を変えて別のものになる)の智(物事を考える能力)の構(組み立て)で、双(二つ)であることは更(言うまでもない)。

『城』2052。

2015-08-14 06:06:13 | カフカ覚書
バルナバスをフリーダのまえで迎えなくてもすむように、ずっと戸外で働いていたのだが、仕事が終わってからも、この場を去らずにバルナバスを待っていた。けれども、バルナバスはやってこない。


☆彼はフリーダ(平和)を受け入れなくてはならない。Kは、ここ外(冥土)では小舟の現場不在であり、ここにとどまってバルナバス(北極星=死の入口)を待っているけれども、バルナバス(北極星=死の入口)はやってこない。