『模範例』とは手本になるような例ということである。
「たとえば、こういうことである」という作例。
マグリットの作品の中には幾つもの約束が潜んでいる。その一つにバックの彩色があり、オレンジ一色のベタは年代不詳、時空の特定を持たない空想の次元だと、わたしは解釈している。
傘を持った中年の男、相応の着衣を身にまとった紳士。
画面下に書かれた文字は、『座った人物』ということらしい。
この少ない情報から想起されることは、明らかなる肖像に付記されたコメントが、必ずしも一致していないという事実に尽きる。
近年、聖徳太子像は本物ではないとか、歴史年代の誤りが指摘されたりしている。
現今では、立っている姿を直視して、座っているとは誰も思わないし、「座っている人物」と付記されていても「NO!」と声高に叫ぶことができる。
言葉は進化、歪曲する。数の論理を待たないまでも、多勢をもって肯定されることは大いにありうる流れである。
いとおかし…は可笑しい、奇妙だという意味ではなく愛らしいことであるなどと説明されると、(そうなんだ)と無理やり納得する。
立っている状態…これは座っている状態をこそ指すんです。などという説明がなされることも無いとは言えない。
視覚と言葉は一体ではない。視覚における説明が剥がれ落ち、新しい矛盾ともいえる説明を由とすることも錯綜する文化の中では、この先いつの時代かに生じるのではないか。
視覚と言語は同一視されているが、ある種の現象により変化を余儀なくされるものである。
マグリットはここに『模範例』をあげて、問の答えを探っている。
(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)
「たとえば、こういうことである」という作例。
マグリットの作品の中には幾つもの約束が潜んでいる。その一つにバックの彩色があり、オレンジ一色のベタは年代不詳、時空の特定を持たない空想の次元だと、わたしは解釈している。
傘を持った中年の男、相応の着衣を身にまとった紳士。
画面下に書かれた文字は、『座った人物』ということらしい。
この少ない情報から想起されることは、明らかなる肖像に付記されたコメントが、必ずしも一致していないという事実に尽きる。
近年、聖徳太子像は本物ではないとか、歴史年代の誤りが指摘されたりしている。
現今では、立っている姿を直視して、座っているとは誰も思わないし、「座っている人物」と付記されていても「NO!」と声高に叫ぶことができる。
言葉は進化、歪曲する。数の論理を待たないまでも、多勢をもって肯定されることは大いにありうる流れである。
いとおかし…は可笑しい、奇妙だという意味ではなく愛らしいことであるなどと説明されると、(そうなんだ)と無理やり納得する。
立っている状態…これは座っている状態をこそ指すんです。などという説明がなされることも無いとは言えない。
視覚と言葉は一体ではない。視覚における説明が剥がれ落ち、新しい矛盾ともいえる説明を由とすることも錯綜する文化の中では、この先いつの時代かに生じるのではないか。
視覚と言語は同一視されているが、ある種の現象により変化を余儀なくされるものである。
マグリットはここに『模範例』をあげて、問の答えを探っている。
(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)