犬を描くのに、泳ぐ状態を描くというのは奇異である。第一、犬全体の様相が見えない。
しかし、
あくまでも「犬とわたし」という相対関係の間に起きる波動が前提であって、犬が近づいてくる距離の収縮に起きる変化、散乱する光や空気の振幅への眼差しに焦点は存在している。
作家は、泳ぐという現場(流体)に等しく空気の流動があると考え、その関係性を問うために『泳ぐ犬』を提示したのだと思う。
犬が泳ぐとされる場(液体)は古い角材であり、傷や凹みがそれとなく時間を感じさせている。即ち、生きた時間の経緯である。
泳ぐという抵抗のある現場であれば、必然的に多量のエネルギーが発散される。犬により放出されたエネルギーが空気の質を変容させ、手前で見る者を刺激するという関係性は、均一の空気をもたらさない。
刻一刻、さらに細分化される空気の質。振動は電子レベルでは賑やかな波動を起こしているに違いない。
作家は『泳ぐ犬』において、《変化する空気感≒人生そのものの縮尺》を感じたのではないか。『泳ぐ犬』は一つの尺度になりうる、計算不可の尺度である。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮』展・図録より)