続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮Ⅰ-1-1(Untitled)

2015-08-25 06:53:42 | 美術ノート
 作品を観た印象は、提示された対象物が孤立していないということである。
 作品は、見る者との距離に空気の圧を生じさせ、精神的な揺れが作品との一体化を促すからである。

 視線の先にある対象物に向かい、疑似的な表現物体を造り上げるという仕事には終始していない。存在の事実は厳然としてあるが、それ以前の問題として対象物との距離を測ることが重要であると思われる。

 要約すれば、対象物との間に流れる空気。時空といった方が適切かもしれない。そのものが所有する時間に一種の眩暈と測りがたい重さを感じるからである。
 たとえば石、岩石の有り様にひどく感動を覚える。この石の歴史、この石の変容、流体であったものが冷えて固体になった石の履歴・・・。

 作家が驚異・驚嘆の眼差しを持って見つめる対象である石が、言葉をもって語ることはない。しかし、確実に石と自分との測りがたい距離は、石が存在しているという事実によって、この空間を変容させている。
 突起、あるいは凹み、細い線描…この加工は何を意味しているのだろう。記号とも合図とも思えるこの人工の手。道具・伝達、人為、人の意思・表現、人類が人類になりうる原初、物語のプロローグ、決意表明のような気がする。

 見ているのは石の存在が醸し出す雰囲気であり、圧縮された時間である。そのもの(石)が放つ微妙な空気の揺れに鑑賞者は漠然とした(意味不明の)不安定感を感じざるを得ない。
 見ている石に見られているという共通の時空は、渾沌を前提とした景色の中の奇跡でもある。

 差し出すこと、提示することの意思に作家の原点がある。

(写真は神奈川県立近代美術館『若林奮ー飛葉と振動』展・図録より)

『銀河鉄道の夜』58。

2015-08-25 06:17:24 | 宮沢賢治
「さうだ。今晩は銀河のお祭りだねえ。」
「うん。ぼくは牛乳をとりながら見てくるよ。」
「あゝ行っておいで。川へははひらないでね。」
「あゝぼく岸から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ。」


☆渾(いろいろなものが一つに溶けあっている様)を判(区別する)。
 吟じる講(はなし)は再(重ねてもう一度)語(ことば)を新しく現わす考えである。
 潜(ひそむもの)を含み兼ねている。

『城」2063。

2015-08-25 06:10:43 | カフカ覚書
それは、自分が観察する対象にまともにむけられず、わずかばかり、ほとんど気づかないほどだが、それでもまぎれもなく対象を素通りしてしまう。見られているほうからすれば、いやな感じだった。


☆それはまさに観察し、区別するためではなかっが、先祖にとって少しばかり妨げであった。ほとんど気づかないほどではあるが疑いなくそれは過った。苦手でも困惑でもなく、不誠実でもなく引き起こされた。