そもそも狂気というものは見えない。だから瞑想するわけだけれど、絵の中の男は首を前に突き出し煙草を持ち、じっと白いテーブルのようなものに視線を落としている。
狂気…正常でない心理状態。空無は正常の域である、しかし、空無の先に見えるものがあると感じたら、それは奇妙である。
つまり、無を有と錯覚することから、狂気は入口を広げる。無いはずの向こうはどこまで時空を引き延ばしても永遠に無であるはずである。
その無の中に有を感じ取る、それが狂気と呼ばれるものだろうか。無と見えるものの中に微細な生物が蠢くことも知られた事実である。
しかし、この男は凝視ではなく、瞑想していると言っている。瞑想は深く考えることに違いないけれど、一般には目をつぶり、自己の内部へと深く下りていく状態を瞑想と呼ぶのではないか。明らかにこの男は白いテーブル(箱かもしれない)を目を開いて凝視しているように見える。目を見開いていても瞑想と言えるかもしれないが、何か探求している感じである。狂気について瞑想しているのだから、この男自身は正常の域にいるらしい。狂気の正体は見つめる方向、つまりは白いテーブル(箱)にあるのかもしれない。
焦点は白いテーブル(白から無を想起)である。無そのものは狂気ではないが、無の中に妄想するものが生じていれば、それは狂気の媒体になりうる。
手に持ったタバコは現時点、時間を示唆するのもだと思う。焦点は過去かもしれない。「何故」を瞑想する。解けることのない疑問を、すなわち「狂気」と括っているのではないか。
ちなみにエックス線で見たところ、もう一人、この男を見つめるこの男(自己の分解)が描かれていたという事実がある。
瞑想(自己の内部へ下りて深く考える)する自分を見つめる(覗き込む)自分。同意(肯定)なのか嘲笑(否定)なのかは分からない。
男は狂気という感覚の差異を凝視する。狂気は結果をもって判別を可能とする。その結果が男の見つめる先には現存している、という答えにたどり着いてしまう。
狂気(矛盾、不条理)がもたらす結果を、瞑想している。
短絡的に、母の死に結びつけることより、広義に『狂気』という紙一重の異世界を熟慮しているのだと思いたい。
(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)
狂気…正常でない心理状態。空無は正常の域である、しかし、空無の先に見えるものがあると感じたら、それは奇妙である。
つまり、無を有と錯覚することから、狂気は入口を広げる。無いはずの向こうはどこまで時空を引き延ばしても永遠に無であるはずである。
その無の中に有を感じ取る、それが狂気と呼ばれるものだろうか。無と見えるものの中に微細な生物が蠢くことも知られた事実である。
しかし、この男は凝視ではなく、瞑想していると言っている。瞑想は深く考えることに違いないけれど、一般には目をつぶり、自己の内部へと深く下りていく状態を瞑想と呼ぶのではないか。明らかにこの男は白いテーブル(箱かもしれない)を目を開いて凝視しているように見える。目を見開いていても瞑想と言えるかもしれないが、何か探求している感じである。狂気について瞑想しているのだから、この男自身は正常の域にいるらしい。狂気の正体は見つめる方向、つまりは白いテーブル(箱)にあるのかもしれない。
焦点は白いテーブル(白から無を想起)である。無そのものは狂気ではないが、無の中に妄想するものが生じていれば、それは狂気の媒体になりうる。
手に持ったタバコは現時点、時間を示唆するのもだと思う。焦点は過去かもしれない。「何故」を瞑想する。解けることのない疑問を、すなわち「狂気」と括っているのではないか。
ちなみにエックス線で見たところ、もう一人、この男を見つめるこの男(自己の分解)が描かれていたという事実がある。
瞑想(自己の内部へ下りて深く考える)する自分を見つめる(覗き込む)自分。同意(肯定)なのか嘲笑(否定)なのかは分からない。
男は狂気という感覚の差異を凝視する。狂気は結果をもって判別を可能とする。その結果が男の見つめる先には現存している、という答えにたどり着いてしまう。
狂気(矛盾、不条理)がもたらす結果を、瞑想している。
短絡的に、母の死に結びつけることより、広義に『狂気』という紙一重の異世界を熟慮しているのだと思いたい。
(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)