「お前、郷里はどこだ。」農夫長は石炭函にこしかけて両手を火にあぶりながら今朝来た赤シャツにたづねました。
☆全て教(神仏のおしえ)である。
理(道理)が納められている。普く調べて積(つみ重ねる)譚(話)である。
観(よく見ると)霊(死者の魂)の趣(考え)は、秘(奥深くてはかり知れない)。
根(物事のもと)を調べ、頼りにし、釈(意味を明らかにする)。
『絶対の探求』
一本の樹木、裸木でありながら一葉の形(輪郭)をもち、伸びた枝は平面状である。
しかし、よくその樹形を観察すると、地上部にありながら地下にあるはずの樹の根に見えてくる。地下深くにあるものが地上に、大気に触れて立っている。
この逆さま、天地を回転させたような提示は、あってはならない絶対の虚偽である。
背景は沈みかけている赤い太陽であるが、夕焼けに染まっているわけではなく曖昧にぼかしている。
太陽は地球にとって唯一無二の絶対的存在であるが、それを抑えて聳えるこの樹形・・・。
岩地(荒地)を割って育った一本の樹は見せかけであり、地下にあるはずの根が地上で一葉の形態を模し、空(空気/大気)が透けて見えるという非現実的な光景の展開。
この矛盾、不条理をもって『絶対の探求』としている。
天地が逆になることなどあり得ない。
わたし達は《自然の理》に逆らうことなど断じてない、不可能である。
神や悟りの境地を『絶対』と崇めるが、絶対は一つの空論であり、絶対は仮に置かれた幻である。であれば、仮説を立て《絶対》の周りを巡る探求に労を費やすほかはない。
『絶対の探求』は、絶対への挑戦であり、存在(太陽)の周辺を問いつつ答えを求める試作である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)
この傾向を性欲といふ
すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて
さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
☆啓(人の目を開いて理解させる)講(はなし)である。
照(あまねく光が当たる=平等)を欲(望む)全ての意(考え)は化(教え導くこと)の体(ありさま)である。
重(重大な)源は、言(言葉)で現れる。
照(あまねく光が当たる=平等)である仏の趣(考え)の塁(より所)がある。
「あの晩」と、フリーダは、ゆっくりと、静かに、ほとんどたのしそうに言った。それはKの肩にもたれてやすらかにすごせる時間がほんのすこししかないことを知っているが、せぅかくのこの時間を最後まで味わいつくそうとおもっているかのようだった。
☆「わたし達は、でも」と、フリーダはゆっくり、静かに辛抱強く断食をした、と言った。
それはKの責任(罪)により安らかに過ごせる時間が少ししかないことを知っているが、最後の時間を享受することを望んでいるかのようだった。