そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。
『クラムボンはわらつてゐたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
『それならなぜクラムボンはわらつたの。』
☆典(根拠があって正しい)照(あまねく光が当たる=平等)を案(考える)。
法(神仏の教え)の律(決まり)の講(話)である。
どうしようもない曇天である。晴れることのない空、遠く霞む地平線、高く張り巡らせていると思い込んでいるバリア・・・風はなくどんよりとした空気のまま時は止まったように見える。
高く、誰からも観察をされないほどに高くから降ろしたカーテン。しかし、タッセルが掛けられた左右のカーテンは、それぞれランダムに置かれている。つまり、完全に閉鎖されているわけではなく、開放の隙間がある。
《見る》ということは《見られること》でもある。しかし、あえて見せようとはしない。世間に出て行くことは拒みたい、しかし、世間には興味があってカーテンを完全に閉じることもまた出来ないでいる。
人間嫌いたちの本質を衝いた作品である。
他者に対する警戒心、関わりに対する猜疑心…遮蔽を暗示するカーテンの微妙な使用。
カーテンは雄々しく直立している。立つはずのないカーテンが質を変換させて硬直している。つまりは虚勢である。
人間嫌いだとは公言できない、しかし内実はこのように物寂しく陰鬱である。人間嫌いたち・・・わたし一人の感慨ではないはずだと。
(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)
農夫長はぢき一時だと云ひ、時計もたしかにがちっと鳴り、それに針は二十分前、今朝は進んでさっきは合ひ、今度は十五分おくれてゐる、赤シャツはぼんやりダイアルを見てゐました。
☆納(受け入れる)訃(死去の通知)の帖(ノート)には逸(隠れた)辞(文章)を運(めぐらせている)。
字で啓(教え導く)冥(目に見えない神仏の働き)を申(のべる)。
自由な文は全て魂を弔う心(精神)の号(叫び)である。
混(まぜた)図りごとは、等(平等)の語(言葉)であり、文は釈(意味を明らかにする)が現れる。
あの糞いまいましい校庭の柵め、忘れようにも忘れられませんぜ。おまけに、風邪をひいているというのに、夜中まで走りまわりましたからね。
☆永劫の罪を下されたゲットーの罪過をわたしはなおも考えている。今もなおわたしは、死の周りをまわっている。