「福島です。」
「前はどこに居たね。」
「六原に居りました。」
「どうして向ふをやめたんだい。」
☆復(繰り返し)問うことが、全てである。
挙(すべて)は禄(記す)の言(言葉)に拠る講(話)である。
樹の幹や枝葉と思える物は、よく見ると樹の根の態である。地中にあって地上に姿を現すことは絶対にない景色が、地上で空中を透かして見せており、四方八方に広がる(立方体)はずのものが平面状に、しかも一葉の形に切り取られている。
自然の律に反する光景であり、樹の本来の姿でないことは、樹の幻(死)を意味する。
《絶対》とは《死の領域》に触れる禁忌事項でさえある。
背景の太陽は日の出なのか日の入りなのか・・・東西の決め手が不足している。
太陽と樹(一葉/木の根)の対峙・・・存在の根拠と非存在の想像(架空)。
『絶対の探求』は、大気を貫くような虚偽を想定しても、真実の核を判定することは難しく、また否定を重ねても肯定を導き出すことは困難である。しかし必ず有るはずだという確信が絶対の探求に駆り立てるのである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)
この命題は可逆的にもまた正しく
わたくしにはあんまり怖ろしいことだ
けれどもいくら怖ろしいといつても
それがほんたうならしかたない
☆冥(死後の世界)の題(テーマ)は化(教え導くこと)である。
虐(むごい仕打ちをすること)を摘(暴き出すこと)が、衝(重要)である。
教(神仏のおしえ)を供(のべる)。
「あの晩すぐにこの土地から出ていってしまえばよかったのにね。そうすれば、いまごろはどこかに落着いていられるところだわ。いつもおそばにおれるし、あなたの手は、すぐ近くにあって、いつでもつかむことができるの。
☆すぐに死に移っても同じだろうか。そうすれば安心していつも一緒にいられるしあなたを気軽にいつも近くで十分に理解することができたでしょう。