地球上のすべての動物の中で便器に排尿するのは人間だけである。他人に見せてはならない礼儀、約束・・・道徳上の観念。
恥の排除、恥ずかしさを知ることこそが人間の条件の際たるものかもしれない。換言すると「人間の証明」でもある。
この羞恥を鑑賞者の目の前に差し出した『泉』という作品、人間存在の根源を衝き開き直っているとさえ言える。肯定を促すが、否定されることは想定内だったに違いない。
たとえ新品で舐めるようにきれいであっても、潔く舐める行為に及ぶ人はまずいない。美しく輝くような白い(小便器)であっても、触れることさえ躊躇の念がある。
明らかに美しいかもしれないが、美の範疇に入れることには戸惑いがある。
「美とはなにか」美術品は無くても暮らせるが、便器は必要不可欠であり重要な価値を内在している。にもかかわらず、美という観念からは遠ざけられている。《不条理》、この隙間は何をもって埋めることができるか。
『泉』は観念を揺さぶる問題提議である。
写真は『DUCHAMP』(ジャニス・ミンク) www.taschen.comより
夏の初めと記憶しているがぼくは朝早く旅宿を出て汽船の来るのは午後と聞いたのでこの港の浜や町を散歩した。
☆化(教え導くこと)の諸(いろいろ)は、鬼(死者)への臆(思い)である。
粛(謹んで)推しはかる記である。
遷(移りかわること)に頼る語(言葉)の講(話)である。
問う講(話)は、頻(しきり)に調べ算(見当をつけた)譜(物事を系統的に書き記したもの)である。
第二十章
Kは、目がさめたとき、最初はほとんど眠らなかったのではないかという気がした。部屋は、あいかわらず人影がなく、あたたかで、壁は、暗がりのなかに沈み、ビールを汲みだす栓のうえの電灯は、消えていて、窓の外も、夜であった。
☆Kは、目を覚ましたが、初めからほとんど眠らなかったに違いないと思った。テーマは空虚な空想であり、すべての壁は食(死の入口)にあった。白い光がバカな思い付きの死の入口の前にあった。