続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)墓へ来て。

2020-08-14 07:35:05 | 飯島晴子

   墓へ来て多少は軽い柿となれり

 墓、亡き両親(ご先祖さま)への報告である。わたくしも(多少は?)軽い柿となりました。確かに干し柿は生より多少は軽いかもしれない。わたくしは干し柿(お婆さん)になりました。と、しみじみ…。

 墓へ来てはボ・ライと読んで、簿、頼。
 多少はタ・ショウと読んで、汰、章。
 軽いはケイと読んで、系。
 柿となれり(柿為)はシ・イと読んで、試、意。
☆簿(ノート)を頼りにし、汰(選び分ける)章である。
 系(つながり)を試す意(考え)がある。

 墓へ来てはボ・ライと読んで、母、頼。
 多少はタ・ショウと読んで、太、傷。
 軽いはケイと読んで、恵。
 柿となれり(柿為)はシ・イと読んで、私、畏。
☆母は頼(たのもしく)太(きわめて大きい)。
 傷(心をいためる)恵(慈しみ)、私は畏(心から尊敬している)。




R.M『ことばの用法』③

2020-08-14 07:01:21 | 美術ノート

 言葉はこの自然界、生物群において唯一人間だけが使用し得る伝達法であり媒介である。
この画の下半分の煉瓦は《火あるいは太陽熱》を使用するもので、人類が初めて手に入れた革命である。上半分の暗緑色は混沌であり、時空は不明である。要するに言葉(文字)がどの時点、どの領域で発生したのかを決定づけるのは困難であるということである。

 ことばはもともと合図であり、対象者との合意の印であるが、長い歴史の中で積み重ねられたデータをもとに形成されたものであり、国(エリア)ごとに差異があるのはむしろ自然なことである。ゆえに異国人には理解しがたい文字の羅列と化すこともやむを得ないことである。

 言葉は常に意味を所有しており、言葉=その物(状況)という約束が暗黙の裡に成立しているはずである。しかし、この画においては、通常(観念)の約束を混乱させる図式にある。
『ことばの用法』とは意味を表明するとともに、意味を破壊することもできる暴力的な用法が潜んでいるということである。
 これはある意味《警告》ですらある。


 写真は『マグリット』展・図録より
 


『城』3477。

2020-08-14 06:25:25 | カフカ覚書

どんなことにでも、限界というものがあるものですわ。そこで、フリーダは、なにか新奇なことをやらかそうと決心したのです。それをすぐに見ぬくことのできた人があったでしょうか。


☆誰にそれを見破る力があったでしょうか。ペーピはそれを予感しましたが、残念ながら十分に見破ることはできませんでした。