続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)身ほとりや。

2020-08-21 07:20:57 | 飯島晴子

   身ほとりや濃き忘年の墓煙

 身ほとり(身辺)では、濃いというか重いというかいろいろな苦労が山積した年であった。その苦労を払う、忘れてしまえたなら・・・。いま墓に供えた線香の煙が、一段と濃いように思われるのは、悲しみであり重責からの解放かもしれない。

 身ほとり(身辺)はシン・ヘンと読んで、參、偏。
 濃き忘年はノウ・ボウ・ネンと読んで、悩、防、念。
 墓煙はボ・エンと読んで、模、延。
☆参(比べ合わせること)の偏りを悩み、防ぐ念(思い)で、模(手探りしたので)、延(期日が延びてしまった)。

 身ほとり(身辺)はシン・ベンと読んで、親、弁。
 濃き忘年はノウ・ボウ・ネンと読んで、能、乏、捻。
 墓煙はボ・エンと読んで、暮、援。
☆親の弁(話)では、能(働き)が乏しいので、捻(捻出して)、暮らしを援(たすけて)いるという。


R.M『本来の意味』④

2020-08-21 07:02:59 | 美術ノート

 距離を置いてこの画を見ると、四分の一である白い部分だけが浮いて見える。ここに書かれた文字、この文字(言語)だけが意味とほぼ直結している。限定と換言してもいいかもしれない。
 次の煉瓦に関してもやや、それに近い感はある。しかし素材や材質あるいは用途を問えばその意味の範囲は大きく広がるので、必ずしも各自が抱く本来の意味とは結び付かないかもしれない。
 他の二つに関して言えばほとんどベタの彩色であり、空とも深淵とも限りなく意味を広げ概念としての意味も崩壊しかねない。つまり、ご自由に想像し、意味をご享受なさって結構です、と。

 意味は対象に付随し本来抽象的であり、各自の観点には差異が生じているということである。おおむねの感想はこうである、こうに違いないという一般的な意見の集約が、そのものの意味として定着していく。

 この画の四分割は巡回し、意味の決定から不明までを示唆している。
『本来の意味』とは否定と肯定の狭間を巡回する浮遊であり、判別の決定を拒否するものである。


 写真は『マグリット』展・図録より


『注文の多い料理店』18.

2020-08-21 06:52:17 | 宮沢賢治

「こいつはどうだ、やつぱり世の中はうまくできてるねえ。けふ一日なんぎしたけれど、こんどはこんないゝこともある。このうちは料理店だけれどもたゞでご馳走するんだぜ。」

「どうもさうらしい。決してご遠慮はありませんといふのはその意味だ。」


☆済(救い)を注(書き記していること)を逸(隠している)。
 霊(死者の魂)の理(道理)を展(ひらく)。
 質(内容)は、双(二つ)ある。
 訣(奥義)を演(押し広める)慮(考え)は毎(隅々)まで魅(惹きつける)。


『城』3482。

2020-08-21 06:16:26 | カフカ覚書

また、どんなに身分の低い相手であっても、その男はのろまでへたくそながらもひたすらフリーダだけを恋いこがれていて、フリーダと結婚するーおお、いやだわーことを無上の願いとしているのだということを世間に信じてもらえるような相手でなくてはならないのでした。


☆また、どんなに劣った人であっても信ずべき駄作はできます。愚鈍で下品な性質にもかかわらず、正しくフリーダに憧れ、愛すべき天国でフリーダと結婚するなど信じる人は一人もいません。小舟を熱望する人は一人もいないのです。