続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)とつぜんの。

2021-06-14 07:33:56 | 飯島晴子

   とつぜんのくろもじの木や秋の琵琶鳴

 とつぜん(突然)はトツ・ゼンと読んで、訥、漸。
 くろもじ(黒文字)はコク・モン・ジと読んで、克、悶、治。
 木や秋のはボク・シュウと読んで、僕、衆。
 琵琶鳴はヒ・ハ・メイと読んで、秘、破、明。
☆訥(口下手)を漸(ようやく)克(力を尽くしてかち)悶(思い悩んで)治した僕(わたくし)、衆(みんな)に秘(人に見せないように隠すこと)を破り、明るくなった。

 とつぜん(突然)はトツ・ゼンと読んで、咄、全。
 くろもじ(黒文字)はコク・ブン・ジと読んで、酷、紊、事。
 木や秋のはボク・シュウと読んで、目、衆。
 琵琶鳴はヒ・ハ・メイと読んで、卑、波、冥。
☆咄(舌打ち)全(すべて)は酷(むごく)紊(乱れた)事である。
 目(目配せする)衆(人たち)を卑(軽蔑する)。
 波(一団)は冥(愚か)である。

 とつぜん(突然)はトツ・ゼンと読んで、訥、繕。
 くろもじ(黒文字)はコク・モン・ジと読んで、告、悶、自。
 木や秋のはモク・シュウと読んで、黙、愁。
 琵琶鳴はヒ・ハ・メイと読んで、悲、端、瞑。
☆訥(口下手/どもり)を繕(治す)と、告げる。
 悶(身もだえし苦しむ)自(わたくし)は黙って愁い悲しみ、端(はし)で瞑(目を閉じている)。


鈴木しづ子(私的解釈)ひと在らぬ。

2021-06-14 07:15:22 | 鈴木しづ子

   ひと在らぬ踏切わたる美濃の秋

 ひと在らぬ…誰もいない、人の気配のない踏切。
 向こうから列車の汽笛が、やがて走りくる列車に胸が高鳴る。この踏切に立ちさえすれば、留まりさえすればあの世は近い。
 幾多の命が消えた信長の美濃攻め、歴史の地に立っている。わたし一人が消えたところで何のこともないという感傷。
 美濃の秋の寂寥、わたし一人が踏切という凶器の前で立ちすくんでいる。


若林奮『Ⅱ-4-p』

2021-06-14 06:53:12 | 美術ノート

   Ⅱ-4-p 《地下のデイジー》

 デイジーとは、花のデイジーだろうか。確かに正四角形の枠の中に放射状に花びらの形が見える。
 地下のデイジー、地下で花が咲くだろうか。絶対にあり得ないことではないか。

 あり得ないことを有るという。無を有であるという。見えないものを、あたかも見えるように確信する。この落差・・・地下への夢想。

《地下のデイジー》とタイトルすることで、地下にはデイジーが有るのだと信じ込ませる。疑う術もなく、信じる確証もない。デイジーは強い繁殖力をもつ植物だけれど遮光の地下で花を開くとは思えない。デイジーの種は地下で死滅せず活きている。

 活性、闇の中での猛威、エネルギーは驚嘆するものがあるが、誇示することなく沈黙のうちに主張している。少しの光があれば必ずや地上に出て花を咲かせる。
 花びらの形に開けられた穴、そこにデイジーは芽を出すだろうか。とてつもないエネルギーを感じさせるデイジーは、地下と地上を行き来する。地下のデイジーの秘めたエネルギー、主張は生きることの声なき声かもしれない。


 写真は若林奮『飛葉と振動』展より 神奈川県立近代美術館