続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)母体ばかり。

2021-06-16 07:18:36 | 飯島晴子

   母体ばかり着き白ダリヤつくる駅

 母体はボ・タイと読んで、墓、代。
 着き白ダリヤはジャク・ハクと読んで、弱、迫。
 つくる駅(作駅)はサ・エキと読んで、削、易。
☆墓を代(変える)弱(気力がない)。
 迫(さしせまり)削って易(とりかえた)。

 母体はボ・タイと読んで、簿、他意。
 着き白ダリアはチャク・ハクと読んで、著、博。
 つくる駅(作駅)はサ・エキと読んで、作、益。
☆簿(ノート)には他意があることが著(明らかになる)。
 博(大きく広げて)作(こしらえる)益(役に立つ)。

 母体はボ・タイと読んで、母、耐。
 着き白ダリヤはジャク・ハクと読んで、弱、迫。
 つくる駅(作駅)はサ・エキと読んで、嗟、益。
☆母は耐(持ちこたえている)が、弱(気力がなくなっている)。
 迫(追い詰める)嗟(嘆き)が益(増えている)。

※新しい型の基になった古い電車ばかりがつく淋しい駅であり、ダイヤの空白をつくる駅、すなわち廃駅である。


若林奮『Ⅲ-1-1』

2021-06-16 06:34:36 | 美術ノート

   Ⅲ-1-1 自分の方へ向かう犬

 自分は即ちわたしであるが、わたしのほうへ向かう犬は他者(世界)だろうか。
 自分という解釈も成り立つ。主観と客観、自分を分離し客観的に自分の領域を俯瞰する構図かもしれない。
 自分と犬の間の半円形の溝、水は激しく渦を巻いて動いている。犬にとっての障害、抵抗は自分との距離を遠くし、一致の結果を招かないようにも見える。

 犬の不可思議、言葉の欠如、感情の同意性。人が犬に抱く感情は願望が多くを占める。支配であり従属を乞う立場である。しかし、犬は簡単には靡かないかもしれず、関係は必ずしも主従ではない。

 犬は自分の方に向かっていると信じている。この信頼性はまさしく(溝)である。泳いでいる犬は陸に上がらなければ死ぬしかない定めであるが、自分は陸となり犬を救助できるか。否、犬は自分であれば救われるのは自分である。
 犬が困難な状況であるという説明はないが、水中という相に長く留まることはできない。ここに二者の関係性が問われるのである。
 間にある空気の振幅を凝視するものである。


 写真は若林奮『飛葉と振動』展より 神奈川県立近代美術館