続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)一月の。

2021-06-18 07:25:15 | 飯島晴子

   一月の白砂の寺長い顔で

 一月はイチ・ガツと読んで、一月。
 白砂の寺はハク・シャ・ジと読んで、拍、社、治。
 長い顔はチョウ・ガンと読んで、兆、願。
☆一月(新年)、拍(手のひらを打ち合わせて)社(やしろ)で治(病気を治す)兆(兆し)をお願いする。

 一月はイツ・ゴウと読んで、溢、壕。
 白砂の寺はハク・シャ・ジと読んで、掃く、者、恃。
 長い顔はチョウ・ゲンと読んで、町、限。
☆溢れる壕(土を掘った溝)を掃く者が恃(頼りにする)町の限(境目)。

 一月はイチ・ゴウと読んで、位置、合。
 白砂の寺はハク・サ・ジと読んで、舶、鎖、持。
 長い顔はチョウ・ガンと読んで、潮、岸。
☆位置を合わせる舶(大きな船)。
 鎖で持(もちこたえる)潮(海の水)の岸。

※正月の薄謝(少ない謝礼)の寺、頂くことを願う。


鈴木しづ子(私的解釈)自棄にして。

2021-06-18 07:12:46 | 鈴木しづ子

   自棄にしてかくほどまでに明るむ月

 自分なんかもうどうでもいい…堕ちたかもしれない、愕然とこの身を振り返る。仕方ないねぇ、どうしようもないねぇ、駄目なわたしだよ…。この絶望、この暗闇、この漆黒に皓々と明るむ月、明るすぎるよ、わたしを照らさないでちょうだい。消えてなくなりたいわたしを照らす月よ、なぜ、こんなにも明るむのか。

 希望?そんなものないんだよ。生きていたって…救えるものなら救ってほしい一縷の望み、月はいいねぇ、大きいねぇ。
 ただ黙って、月を見ている。


若林奮『Ⅲ-2-1』

2021-06-18 06:27:03 | 美術ノート

   Ⅲ-2-1〔無題〕

 上面が四角形の立方体、その上に三角の内部が均等に膨らんだ金属板、その三つの角の三つの突起、棒のようなもの二本と仏像めいたものがあり、それぞれ明確な形を刻むことなく曖昧な、しかし明確な主張をもって配置されている。

 三・・・三は動かしがたい数字であり強度を持つ形である。三界、三世、過去・現在・未来の時空etc。
 三つの配置を認識した途端それらを想起するのは、自分の中の知識、経験上のデータ、歴史などの誘因に違いない。全くの無の状況でこの作品を見るべきだろうか。ヒントを黙している、説明がない。
 ただそのことによる広がり、夢想はある。まず、この形を否定できないが、感触は無機的で冷たく言葉による誘いもない。
 無造作に見える三態、その位置、台座の厚み、抜き差しならない空気感、緊張。凝視していると、これは無造作ではなく厳密に図られたものだという気がしてくる。

 目に見えない存在の具象化である。あらゆるものを剥ぎ取ったのちの残存。あるいは太陽・月・地球の関係、父・母・子の関係。有機(木)と無機(金属)の関係。

 時間が経てば劣化、崩壊しうる世界の無常、質疑応答、答えのない緊密な関係への挑戦かもしれない。


 写真は若林奮『飛葉と振動』展より 神奈川県立近代美術館