むしろこんな黄水晶の夕方に
まつ青な稲の槍の間で
ホルスタインの群を指導するとき
よく適合し効果もある
☆講(話)を推しはかる章(文章)である。
幽(死者の世界)の法(神仏の教え)がある。
章(文章)は等しく双(二つ)に換(入れ替わる)
群(同類のものが一か所に多く集まる)の詞(言葉)は動く。
適(当てはまるもの)を迎える講(話)の化(教え導くこと)である。
不穏な天気、つまり嵐(不順)の予兆を孕んでいるということである。
平和そのものに見える景の中に、それはあるという。
しかし、よく見ると、陸地の彩色に緑(活性)がなく、手前は砂地というより歩きにくい岩場であり、近景に漆黒の岩礁(山?)があるのも肯けない。
見上げた空に椅子・チューバ・トルソの三体が、あたかも雲の変形のように描かれているのも奇妙である。それらは純白で輝いてさえ見える。
青空を被う巨大な遮蔽物、自然の冒涜は、何を意味するのだろう。
いろいろ考え合わせて見ると、これは大衆へのメッセージの発信である。
判断力(頭部)のないトルソー、進撃のラッパ、君臨する司令官の椅子(権力)・・・これらに抗する力はあるだろうか。沈黙の陸地(大衆/国民)。
今は未だ予兆にすぎない。しかし、マグリットは憂慮する。警告は大地を被う。空も海も変わらず青いのにもかかわらず・・。
正しく『不穏な天気』である。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
たれも見てゐないその地質時代の林の底を
水は濁ってどんどんながれた
いまこそおれはさびしくない
たつたひとりで生きて行く
☆兼ねた字を執(手に取る)、弐(二つ)の題(テーマ)がある。
輪(順番に回る)態(ありさま)を推しはかることに諾(同意する)章(文章)の講(話)である。
わたしだって、おなじでした。わたしは、彼に惹かれていました。彼は、子供のころの遊び仲間なのです。わたしたちは、いっしょに城山の坂道で遊んだものでした。あのころは、たのしかったわ。あなたは、わたしの過去を一度も訊いてくださいませんでしたね。
☆わたしも、同じです。わたしは彼に教育されていました。彼にとって意図も易しいことでした。わたしたちはともに活動し(死の)決定に隠れて引き離され、すでに時間が経っても、過去を問うことはありませんでした。
ああ何といふいい精神だ
株式取引所や議事堂でばかり
フロツクコートは着られるものでない
☆化(教え導くこと)の照(あまねく光が当たる=平等)は、真の歌舞の私記、趣(考え)です。
隠れた諸(もろもろ)の義(人として行うべき道)があり、自(わたくし)の道(神仏の教え)を惹きつける。
『不穏な天気』
波静かな海の景…ただ、陸地は不毛地帯のようである。緑なき土あるいは黒色、岩礁ならば納得できるが遠景に至ってこの盛り上がりは山々と認識できるのではないか。
並べて緑・人家(食物の生産・生活)が皆無なのである。
平穏さを示す青空が描かれているが、白雲の代りに純白の《椅子・チューバ・トルソ》に置換されている。
この三体の意味…《椅子は地位/権力・チューバはラッパ(命令)・トルソは人間に非ず》ということではないか。むしろこの三体は分かりやすい提示である。
権限ある独裁者のラッパ(命令)により大衆は自由なきトルソ(物)扱いの予兆を孕んでいる。
『不穏な天気』は《反戦》としての静かなる抗議である。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
侏羅や白亜のまつくらな森林のなか
爬虫がけはしく歯を鳴らして飛ぶ
その氾濫の水けむりからのぼつたのだ
☆需(必要とするもの)を羅(残らずとる)と、吐く。
吾(わたくし)は真(まこと)の倫(人の行うべき道)を把(つかむ)。
註(意味を書き記す)詞(言葉)を命(言いつける)のは、秘(人に見せないように隠し)反(元に戻すように)、覧(見渡して)推しはかる。
彼は、わたしのそばへ来たがっていました。そのためにひどく苦しみもし、わたしの様子をもうかがっていました。けれども、それは、遊戯にすぎなかったのです。お腹のすいた犬がどんなにじゃれついても、食卓のうえにとびあがろうとはしないのとおなじことです。
☆彼は、わたしの傍を望みました。苦しめられても待ちわびていました。しかしながら、それは戯れにすぎなかったのです。先祖が活動しても、欺いて踊らされているようなものでした。
『風景観察官』
あの林は
あんまり緑青を盛り過ぎたのだ
それでも自然ならしかたないが
また多少プウルキインの現象にもよるやうだが
も少しそらから橙黄線を送つてもらふやうにしたら
どうだらう
☆普く継(つなぎ)換(入れ替える)
察(詳しく見て)換(入れ替える)
輪(順番に回る)に録(文字を書き記している)
章(文章)は常に化(形、性質を変えて別のものになる)により字を繕(直して)他の章(文章)にする。
現れる衝(重要なところ)の照(あまねく光が当たる=平等)を套(隠した)講(話)を宣べていることが総てである。
道は前方の空間であるが、前方はまるで防御壁のようで、道は認められない。しかも地上を写しておらず、立脚点が不明である。
道を歩くという確証に欠けているのに、散歩道と名付けている。遊歩道という気楽さ/自由がないのである。
家々の窓からは活気という生命の燃えたちが感じられない。閉鎖的であり、画一化されたような強制が潜んでいる。
空は漆黒の闇、向こう(未来)が見えない、前進する術がない。家々の後方には林があるがその向こうとなると近距離であるにもかかわらず、すでに漆黒の闇である。
不安・恐怖・拘束・不自由…恋人たち(次世代を担う若者)の道は閉ざされている。
1930年代のヨーロッパの世相を考慮すれば肯ける画かもしれない。むしろ必然的な条件かもしれない。
恋人たちが夢想するフレームに入った青空に浮かんだ雲の近似・規格であるフレームなどを、微かな洗脳の傾向と捉えるのは行き過ぎかもしれないが、そういう予兆を孕んでいないとは言えないのではないか。
マグリットの告発である。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)