続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

ハレの日めぐり(戸塚のお札さま)

2018-07-17 06:59:07 | 博物館講座

 猛暑の昼下がり、地下鉄戸塚駅まで出かけた。

 博物館講座《民俗》では神社などのエベントを訪ね歩く。
 信仰の対象、心の拠り所、集落の絆、祭りの高揚・・・。毎年、7月14日と決まっているとのこと。お札を頂くのに階段下の道沿いにまでの長蛇の列だった。

 着物に水色のタスキ掛け、踊り手たちは総て男の女装。楽しくユーモアあふれた儀式に心癒されたことでした。


🈞マグリット『恋人たちの散歩道』

2018-07-17 06:23:12 | 美術ノート

   『恋人たちの散歩道』

 道を描く場合ずっと続いている感じ・・・画面のどこかに消失点を置くのが通常ではないか。
 この画に於いて向かうべき前方は、集合住宅の上部(あるいは家々の上方)で塞がれており空は漆黒の闇である。
 高い空は暗黒で光も見えず、町の家々はカーテンで閉じられ閉鎖的であり、まるで活気がない。深夜の眠りだろうか…。

 星も月明りもない、道標のない空間。しかし、真正面に二つのフレームがあり、その中には明るい青空と白い雲(自然)が描かれている。見上げている位置ではなく真正面であるというのは、恋人たちが巨人であるか空中を浮遊している、ということである。
 二つのフレームには大きさに差異があるのは男女の示唆かもしれない。共に理想としての(あるがままの自然)を抱ている。
 立派に構築された環境、しかし閉塞の翳りはないだろうか・・・。

 この社会を超えていく、乗り越えていくための示唆/暗示・・・前に立ちはだかる障壁を超えて行け!飛躍/飛翔せよ!
 抗議なき沈黙、一見平和に見える社会に《若き恋人たちよ、風穴を開けよ、明るい未来を描け》とマグリットは声援を送っている。
 静かな沈思の声援である。


(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)


「小岩井農場」59

2018-07-17 06:14:37 | 宮沢賢治

  いま見はらかす耕地のはづれ
  向ふの草原の高みに四五本乱れて
  なんといふ気まぐれなさくらだらう


☆幻の講(話)を字で構(組み立てる)章(文章)である。
 総ての講(話)は詞(言葉)を互に翻(作り変え)覧(広く見渡す)記である。


『城』2986。

2018-07-17 06:04:03 | カフカ覚書

「じゃ、椅子をもってきてあげますわ」フリーダは、そう言うなり、歩きだしていた。
「いや、けっこうだよ」と、kは引きとめた。「下へも行かないし、もう椅子も要らないよ」
 フリーダはKのこういう手管をじっと耐えしのび、頭を垂れて、唇をかんだ。


☆「じゃ、わたしは霊魂をつれてくるわ」フリーダはいうなり、すでに手段を取り始めた。Kは彼女を引きとめた。「下の方へも行かないし、先祖の霊魂にも会わないわ」フリーダはむきになり、彼に深い理解を示した。
 手を伸ばし、烈しく争う気を見せたのである。


「青い槍の葉」④

2018-07-13 06:47:23 | 宮沢賢治

  雲がきれたかまた日がそそぐ
  土のスープと草の列
  黒くをどりはひるまの燈籠
  泥のコロイドその底に
    (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)


☆運(めぐらせる)化(形、性質を変えて別のものになる)の努(つとめ)は、総て裂(バラバラに離す)と告げる。
 套(おおい)から漏れだすことに泥(こだわり)、訂(文章をただす)。


🈞マグリット『ことばの用法』⑤

2018-07-13 06:22:04 | 美術ノート

『ことばの用法』『本来の意味』の二つの作品は…『新聞を読む男』を含めた連作である。父母に対する客観的な眼差しは、冷徹に過ぎるかもしれない。本当の距離を測ることでマグリットは自身の位置を確認したとも思える。

 『ことばの用法』における白い領域は浮いているわけではなく、ある重さをもって着地している。幽霊のような不確実な形態は、真でも善でも美でもなく魂の抜け殻のようである。しかし、どこかに重さを感じ、均衡の持続を危惧されるイメージがある。つまり、動き出す気配をどこかに感じるのである。
 canon/法令・corps de femme/女の死体・arbre/木の三文字に関連性を見るのは難しい、しかし、マグリットの個人的な感情には合致するものがあるのかもしれない。
 文字の中に隠蔽された暗号のようなものを『ことばの用法』と皮肉めく言ったのである。


(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)


『小岩井農場』58

2018-07-13 06:13:33 | 宮沢賢治

  オレンヂいろの日光のなかを
  雉子はするするながれている
  啼いている
  それが雉子の声だ


☆化(教え導く)講(話)には、千(たくさん)の試(こころみ)の他意がある。
 質(内容)の詞(言葉)は照(あまねく光が当たる=平等)である。


『城』2985。

2018-07-13 05:52:08 | カフカ覚書

「調理場へ行ったのかね」
「いいえ、いの部屋よ」と、フリーダは答えた。「この下にわたしの部屋がありますの」
「そこへ連れていってくれたらよかったのに」と、Kは言った。「下へ行って、ちょっと腰をおろして食べるよ」


☆「いかさまかね」
 「いいえ、わたしのテーマよ」と、彼女は答えた。
 「わたしは先祖の下(隠れた)テーマを持っている」
 「わたしも持っている」と、Kは言った。
 「わたしも(そのテーマの)下へおり、先祖のことを少しばかり記したエッセイを持っている」


パッションフルーツ。

2018-07-12 07:25:23 | 日常

 近年は夏になると(ゴーヤ/ニガウリ)を植えている。何十個も採れるゴーヤは嬉しいけど・・・。
 名前に惹かれる(パッションフルーツ)…ちょっと植えてみようかな・・・。
 小さな鉢にちょこっと…そして昨日の朝、花が咲きました。(ちなみにゴーヤの方はすでに5個も実を付けています)

 トケイソウ科だったんですね。


🈞マグリット『ことばの用法』④

2018-07-12 06:52:30 | 美術ノート

 canon/ corps de femme/ arbre それぞれの言葉は繋がらないように思えるし、そう意図している風でもない(単にそこに置かれた任意の言葉)。
『ことばの用法』は用法を否定し、ことばの用法には用法不可の領域があることを提示しているのだと結論付けられる。

 しかし、作品『本来の意味』を見ていくと、不思議な流れ/空気感が浮上してくるのである。鍵は《Corps de femme》~(女性の死体)を疑うことで、謎が氷解してくる。
 川へ投身自殺したという母への追悼。
《canan》法令、戒律…自ら命を断ってはいけない、という大前提のもとの(母の死体)は無念を究めたに違いない。
 そして《arbre》の木は、棺を暗示していると思う。遺体の収められた棺=母という想念は他の作品にも及んでいる。

『ことばの用法』、言葉は何か(目的/対象)を表明するためのツールである。しかし、それは、何かを霧消させることもあり、用法自体の不在(壊滅)を意味する場合もある。
 そして、ごく個人的に暗号めく使用される(ことばの用法)の潜在があることをも、知らされるのである。

 否定の後の肯定はマグリットだけに通用する、例外としての『ことばの用法』である。


(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)