細川正義氏大いに語る
江嵜企画代表・Ken
「遠藤周作と西宮の文学」と題して6月9日(金)午後1時半から、細川正義、関西学院大学前副学長の講演会が西宮文化協会六月行事として開かれ楽しみにして出かけた。いつものように会場の様子をスケッチした。
山下忠男、西宮文化協会会長は「元気はつらつの細川先生を本日お迎えでき光栄です。実は4月に予定していました。ようやく本日実現しました。西宮はキリスト教とは縁の深い町です。宗派は違いますが西宮には由緒ある教会が沢山あります。夙川カトリック教会もその一つです。遠藤周作ゆかりの教会です。遠藤周作は多面的なキリスト教観を持っていました。それでは細川先生をご紹介いたします」と挨拶された。
細川先生は「四国、金毘羅さんのふもとで生まれ育ちました。関西学院で学び、27年間同大学でお世話になり、今年3月、同大学文学部定年退職しました。遠藤周作にずっと関心をもっていました。」と話し始めた。
「遠藤周作は大正12年(1923)東京生まれ。二歳上に兄正介がおりました。父方は代々鳥取藩に仕えた医者の家系。母(郁)の父も医者。大正15年(1926)父の転勤で満州大連に移る。昭和4年(1929)大連小学入学、「毎日朝から夕方まで、指から血を流しながらもヴァイオリンの練習する母の姿を見て感動した」
「昭和8年(1933),父母の離婚が決定的となり、母、兄と共に帰国。伯母(母の姉)宅で ひと夏同居、間もなく西宮市夙川のカトリック教会近くに転居した。六甲小学校に転校。伯母の勧めで母、兄とともに夙川カトリック教会に通う。」「昭和10年(1935)六甲小学校卒業、灘中学に入る。その年の5月、母郁、小林聖心女子学院で受洗。6月、遠藤周作も兄と共に、夙川カトリック教会で受洗。『合わない洋服』≪1967≫の作品に「あなたは神を信じますか」とフランス人の司祭が、洗礼式の形式に従って訪ねたとき、私は他の子供と同じように『はい、信じます』と平気で答えた。それはまるで『このお菓子食べますか』『はい、食べます』といった外国語会話の問答に似た行為だった」と書いている。」「16歳、昭和14年(1939)西宮市仁川に転居。大阪新聞(56年6月23日)に「仁川村のこと」の中で「阪神の風景の中で,ぼくがもっとも愛しているのは阪急宝塚線の沿線の風景だ。ぼくはこの線にある仁川という場所で育った。いうまでもなく関西学院のあるところだ。(中略)ぼくが住んでいた家は仁川の弁天池という大きな池のすぐ近くにあって、初夏の夜などは蛍が飛び交っていた」と書いている。
細川先生は「遠藤周作がなくなるとき、奥さんに「深い河」と「沈黙」を棺の中に入れてくれ」と頼んだ。」と話を先に進めた。「沈黙」はマーティン・スコセッシ監督が28年間温め、2017年1月映画化された。人間として大切なものは何か。人間の弱さは何かを描いた。「遠藤周作は、本当の意味で「人間の改心」を書きたかったんではないか。いろんな宗教があるが、大きな意味で一つなんだ。山に例えれば、頂上に向かって登っていく。それぞれにいろんな登り方があるんじゃないか。いろんな宗教があってもいいんじやないか。皆それぞれが魂の救済を目指したらいいと話している。」と、藤川先生は、一気に話した。
遠藤周作は、52歳の昭和52年(1977)兄正介が54歳で食道動脈瘤破裂で死亡、大変なショックを受ける。69歳、平成4年(1992)腎臓病で手術を受ける。以後入退院を繰り返す。70歳、平成5年(1993)、「深い河」刊行。73歳、平成7年(1996)、肺炎により死去した。
細川先生は「出会いの責任」という言葉を、この日の講演の中で、何度も口にされた。12歳の時が一つ。何の気なしに洗礼を受けた。それが遠藤周作の一生を左右することになった。「仁川の村」との出会いの中に「夕暮れになると法華寺の鐘が鳴る。それを合図のように向うの丘・聖心女子学院の白い建物から夕の祈りの鐘が鳴る。二つの異なった宗教、東洋の鐘と西洋の鐘の響きの違いを、何か不思議なものの様に聞いたものだった」と書いた。
10分の休憩をはさんで細川先生の2時間の講演を堪能した。レジメに用意されたA3裏表8ページの資料は保存版である。貴重な機会をご用意いただいた西宮文化協会事務局にひたすら感謝である。(了)