ハリックの診断即治療&虹彩と、Kenさんの経済学&スケッチ

虹彩には、体質や、現在、過去、未来、のデータが秘められています。虹彩学による虹彩分析を針灸、巨針、食事療法の指針に!

橋本病と腎査穴での骨格調整 (11/26の臨床実践塾)

2017-11-19 10:24:11 | 診断即治療と虹彩学
今までの「診断即治療」の記事内容は、今後 FC2ブログ に書いていく予定です。



この姿勢で骨盤の捻れがわかります



橋本病の方が来られました。
「左の腰が突っ張って、接骨院に毎日通っているのですが、どうしても取れないんです」と言う。
橋本病は甲状腺機能低下の病気ですが、バセドウ病もそうですが、甲状腺の病気は腎臓と関係しています。

そこで、横座りをしてもらいました。
すると、上の写真の左側(足先が右側になる座り方)をすると、「左の腰が突っ張る」と言います。
つまり、左の腎臓裏が突っ張っていて、骨盤まで捻れているわけです。
これで左の腎臓との関係がわかります。

その時、普通なら手の腰腿点を使って骨格矯正をするのですが、「これは腎査穴を使うほうがいい」と思ったので、左の腎査穴に刺鍼して、再度横座りをしてもらいましたら、その方は「アチャー!!!」という顔をして、

「突っ張らないです。このツボな何ですか?」と聞いてきました。

「ここは腎査穴と言って、腎臓の大きなポイントとなるツボなんです」と言うと、

「これは自分で揉んでもいいですか?」と聞いてきました。

「きょうのように左の腰が突っ張っているときはいいのですが、何ともない時にやるとバランスを崩して、別のところがおかしくなる可能性があるので、ヒ・ダ・リ・の腰が、きょうのように突っ張った時だけにしてくださいね」と答えておきました。

さてここでは腎査穴や骨格矯正鍼の説明をしなければなりませんが、部位は下図になります。

陰陵泉の後ろで一筋隔てたところが腎査穴


七星鍼法には、十二経絡全てに「査穴」というのがあり、査穴は原穴としても使え、郄穴としても使えるところです。
ですから、手の腰腿点が使えない場合や、「査穴を使ったほうがいい」と思われる場合は、査穴を使います。

橋本病は、先ほど話ましたように、甲状腺は腎経と関わっていますので、ダイレクトに腎査穴で腎を刺激下方がいいだろうと思い、腎査穴を使ったわけです。
ですから、骨格矯正鍼は、腰腿点だけを使うのではなく、査穴を使う場合もあるわけで、どれを使うかは、その治療師の考え方によって違います。

自分で言うのも何ですが、今回のこの治療方法は、

「お見事!」でした。(^_^;)

この話は、11月26日(日)の 臨床実践塾 でもやります。

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西播宍粟の森と歴史の旅;西宮文化協会、秋の見学会(スケッチ&コメント)

2017-11-19 08:03:24 | スケッチ

森と歴史の旅;西宮文化協会

江嵜企画代表・Ken



西宮文化協会、十一月行事として「西播宍粟の森と歴史の旅」バスツアーが11月16日(木)行われ楽しみにして出かけた。バスは西宮神社境内を8時半過ぎに出発した。一行は総勢20人たらず、いつもよりやや小振りのバスだったが、ゆったりと席がとれ、揖保川沿いに走る窓外の秋の播州風景を満喫した。挨拶に立たれた藤田卯三郎、西宮文化協会副会長さんを描き込み車内をスケッチした。

西宮北IC,山崎ICを通過、予定時間10時40分に最初の訪問先、播磨国一の宮、伊和神社に着いた。鬱蒼と繁る参道を抜けるとお社が見えた。祭神、大己貴神(おおなむちのかみ)に少彦名神(すくなひこなのかみ)、下照姫神(したてるひめのかみ)のニ神が配祀されていると神社由緒略記にあった。

伊和神社は正式の参拝となった。お社に入り、全員お祓いを受けたあと神官の説明を聞いた。大己貴神が、播磨の国各地を順歴、国造りをされ、わが事業は終わった。「おわ」がなまって「いわ」になり、伊和となったという話が残っていると話された。ご造営は欽明天皇の御代(564)伊和恒郷の夢に「我を祀れ」とのご神託があり、一夜のうちに杉・檜などが群生し多くの鶴が舞った。大きな白い鶴が2羽、石の上に眠っていたところに社殿を造営した。その石を「鶴石」といい、社殿が北向きなのもそのためだと神官から説明があった。鶴石は本殿裏に鎮座していた。一宮町は播磨一宮に由来している。

平成17年(2005)4月に宍粟郡の4町、山崎町、一宮町、千種町、波賀町が合併して宍粟市が誕生した。堀内陽光、文化協会理事さんによれば、竹内正浩著「日本の珍地名」〈文春新書〉で、難読・誤読地名番付の「東の横綱」は千葉の匝瑳市(そうさ)に対して「西の横綱」は宍粟市(しそう)」と紹介されているという。

堀内さんは「伊和神社の大神が領内を巡行中、大きな鹿(シシ)に会った。シシアワから宍(シシ)粟(アワ)が生まれ、「宍粟」(シソウ)となったという説と山崎町の中心部に残る鹿沢から「シシサワ」、「シサワ」と来て「シソウ」となったという説がある」と紹介された。ニ説とも鹿から転じて「宍粟」が生まれたことが面白い。

山崎町にある割烹旅館の別館「和(やすらぎ」に到着、お昼、沢蟹料理をいただいた。店のそばを揖保川が水をためて静かに流れているのが窓越しに見えた。ご婦人席4人に一つ席が空いておりひとこと断って座った。

私事ながら、筆者は、揖保川と聞いただけでピクりとする。終戦の年の昭和20年(1945)3月に神戸は大空襲に見舞われた。12月まで縁故疎開した場所が山崎から山ひとつ南側へ越えた当時林田町奥佐見で過ごした。林田小学校に小学1年生として4月編入した。林田町ではいとこと揖保川で泳ぎの真似事をした記憶がある。田んぼの畔ではドジョウもとった。今回お店でたまたま前の席に座られたご婦人は当時小学校4年生で山崎に住んでおられたと聞き、偶然とはいえ、不思議なご縁を感じた。

今回のバスツアーのご縁では元衆院議員のO先生がバス席、通路はさんで同列に座っておられた。たまたま小生のスケッチの話が出た。「絵が縁で西宮神社、元権宮司、吉井貞俊さんとご面識賜ったこと、吉井貞俊さんの母上は、日本画家、伊藤小坡の妹さん、つまりは叔母様です。吉井貞俊さんには日本画家の本流の血が流れています」とOさんにお話しする機会があり幸いだった。

昼食のあと山崎城跡(紙屋門)を訪れた。山崎藩は元和元年(1615)姫路城主池田輝政の四男輝澄が入封(3万8千石)に始まり、その後松平、池田、本多と三度藩主交代を経て明治維新を迎えた。近世から明治維新まで山崎藩の政庁が置かれた。敷地内にある山崎歴史郷土館では、山崎市内から発掘された土器・石器などの考古資料、江戸時代の山崎藩に関連した資料を観覧した。

最後に兵庫県立ふるさとの森公園を訪れた。お目当ての山麓と山上を結ぶ全長1,100メートル、高低差300メートルの森林軌道車に乗った。六甲ケーブルカーの経験で、結構なスピードを予想して身構えたが、所要18分、文字通り地面を這うようにゆっくり進んだ。

軌道車を降りると目の前に公園が広がっていた。わずかに傾斜していたが、よく整地された道を蛇行しながら700メートルばかりゆっくり徒歩で高さ465Mの国見山頂上展望台を目指した。目的地に20分ほどで着いた。眼下に揖保川、山崎の街並みを鳥瞰することができ幸いだった。展望台からはよく晴れた日には瀬戸内海が見えるそうだ。午後6時半ごろに西宮神社境内に無事帰還した。西宮文化協会事務局の皆様にひたすら感謝である。(了)

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